岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

三崎庄屋・兵頭家10

2008-02-04 23:24:32 | 建見楽学


明治十五(1882)年建築の新蔵。

この蔵は素晴らしい建物で、入り口が観音開きの土戸を始めとして五重の扉で構成されている。
外部からは伺い知れないが、床下には瓶がいくつか埋め込まれていて、珍しい仕掛けとなっている。
平成元年の取材の際には、床板をはずしてこの目で拝ませてもらったが、何でも湿気対策らしいとのその時の話だった。が、以来今までそのような建物の仕掛けを他で見たことはまだ無い。
幸い、この貴重な蔵はこのまま残される。

ただ、長屋門は流石に江戸期の建物であるため、老朽化により解体のやむなきに至ってしまった。狭い通りに面して、万が一瓦などが落ちて周囲の方にご迷惑をかけては、という心配や維持費の問題など、事は一様ではない。
今回は町見郷土館の迅速な緊急対応により、最低限度の記録調査となりそうだが、佐田岬半島の近世史を彩る貴重な建築物が消滅する事の大きさを、多少の関わりを持つ中でかみしめている。

三崎庄屋・兵頭家 5

2008-02-04 23:01:20 | 建見楽学


三崎の町並みは、佐田岬半島の他の集落と同様、平地の限られる条件の元で、家々の間はとても狭い道でつながっていて、庄屋屋敷の門前と言えどご覧の通り。

折角の長屋門ではあるが、全景を眺めることは出来ない。
ただ、この通りの突き当たりには、かつての役場や公会堂などが今もかろうじて残り、江戸期から近代にかけて、このストリートが政治の中枢であったことは疑いようが無い。

三崎庄屋・兵頭家 2

2008-02-04 22:47:16 | 建見楽学


長屋門をくぐる際、頭上には兵頭家の家紋“三つ引き”が。

庄屋としてのステータスが垣間見られる。
事実、宇和島藩主伊達候が参勤交代の折りには、宇和島港から御座船が三崎に入り、ここが本陣となった模様。
“伊達の殿様お鼻が怖い”との話しが伝わる如く、佐田岬(お鼻)は海の難所で、三崎からは空船を瀬戸内側の二名津(ふたなづ)へ回航し、再乗船という段取りとなる。

三崎庄屋・兵頭家

2008-02-04 10:43:57 | 建見楽学


佐田岬半島の突端、国道九四フェリーの発着港三崎に、兵頭家という庄屋建築が残っている。

その兵頭家の長屋門が解体される、という報が伝わったのが日曜の朝。
急遽動くことになり、三崎に直行。
思えば、平成元年に取材訪問させてもらって、兵頭庄屋の拙文をまとめたことがあり、あれからもう20年。