川之石へ行ってきた。
今は八幡浜市となったが、旧保内町の中心部である。昭和30年までは、れっきとした旧川之石町でもあった。この町は、宮内川と喜木川の河口部デルタ地帯に立地するのだが、かつてその主要部分は「東洋紡績川之石工場」が占めていた。
昭和35年9月に閉鎖されるのだが、以後は下流側が保内中学校として造成され、上流側が地元企業の分割所有となって現在に至る。
従って、旧川之石の黄金時代を支えた旧東洋紡の面影は、宮内川沿い美名瀬橋たもとにある赤煉瓦倉庫以外、次第に失われつつある。
しかし、市民からすっかり忘れ去られているが、まだかろうじて今も残る建物がある。講堂と社宅である。講堂は、当時日本一の紡績会社でもあった東洋紡の面目躍如でもあるだろう、社員の福利厚生施設として、戦前期に建てられた。目下はY紙業さんの所有となり倉庫に使用されているが、内部は当時を髣髴とさせる。
社宅の方は、近々取り壊しともなるため、記録保存の必要があり、関係方面へ段取り手配中である。
写真は、その社宅にお住まいのTさんから教わった。古い電信柱が敷地内に二本だけ残っていて(Y紙業社長さんの計らいらしい)、小さな琺瑯製の表示が頭上にクッキリと残っていた。
何度かこの下を通っているが、岡目八目の不覚、これまで気が付いていなかった。見落としがあるものだ。
今は八幡浜市となったが、旧保内町の中心部である。昭和30年までは、れっきとした旧川之石町でもあった。この町は、宮内川と喜木川の河口部デルタ地帯に立地するのだが、かつてその主要部分は「東洋紡績川之石工場」が占めていた。
昭和35年9月に閉鎖されるのだが、以後は下流側が保内中学校として造成され、上流側が地元企業の分割所有となって現在に至る。
従って、旧川之石の黄金時代を支えた旧東洋紡の面影は、宮内川沿い美名瀬橋たもとにある赤煉瓦倉庫以外、次第に失われつつある。
しかし、市民からすっかり忘れ去られているが、まだかろうじて今も残る建物がある。講堂と社宅である。講堂は、当時日本一の紡績会社でもあった東洋紡の面目躍如でもあるだろう、社員の福利厚生施設として、戦前期に建てられた。目下はY紙業さんの所有となり倉庫に使用されているが、内部は当時を髣髴とさせる。
社宅の方は、近々取り壊しともなるため、記録保存の必要があり、関係方面へ段取り手配中である。
写真は、その社宅にお住まいのTさんから教わった。古い電信柱が敷地内に二本だけ残っていて(Y紙業社長さんの計らいらしい)、小さな琺瑯製の表示が頭上にクッキリと残っていた。
何度かこの下を通っているが、岡目八目の不覚、これまで気が付いていなかった。見落としがあるものだ。