明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

イエス様の十字架の姿に似せられていく ~ただ恵みによって~

2015年11月23日 17時16分40秒 | キリスト教
先月に載せると話していた日記をアップします。
とても長い文章ですみません。。

【ピリピ人への手紙 3章7~11節(口語訳聖書)】

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、
キリストのゆえに損と思うようになった。

わたしは、更に進んで、
わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、
いっさいのものを損と思っている。

キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、
それらのものを、ふん土のように思っている。

それは、わたしがキリストを得るためであり、

律法による自分の義ではなく、
キリストを信じる信仰による義、
すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、
キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、
(キリストの)苦難にあずかって、
(キリストの)死のさまとひとしくなり、
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。」

【ピリピ人への手紙 3章20~21節(新改訳聖書)】

「けれども、私たちの国籍は天にあります。

そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、
私たちは待ち望んでいます。

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、
私たちの卑しいからだを、
ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」



難病の僕は寝たきりの体になって、若く死ぬ現実を、まだ恐れている。
体と命は自分のものだと思っているから、恐れが消えないんだろう。

【コリントの信徒への手紙 第一 15章32節(新共同訳聖書)】

『もし、死者が復活しないとしたら、
「食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。』


このように、どうせ若く死ぬのだから、
死ぬまでに、早くあれをしよう、早くこれを食べよう、と
心のどこかで、自分の欲望を満足させる生き方を求めているから、
病の進行で出来なくなる現実に、苦しくなるんだろう。

もちろん、御言葉を味わって祈ると、毎日、幸せな気持ちになるし、
難病の人生でも幸せは多くある。
いつも苦しい状態ではないけど。

でも、自分の体も命も、神様が与えてくださったから、
動かせなくなった体も命も、神様に喜んでささげた、
といつも思えるようになりたい。

僕には何も自分のものにしない生き方が必要なんだ。

たとえ何もできない体になっても、
裸で十字架につけられたイエス様に、
裸で従って生きていきたい。

イエス様の十字架が心の中に根ざしているなら、
十字架が人生の楽しみになる。
そうなれば、難病の苦しみさえも喜びに変わるんだよね。

イエス様が苦難を通られて、地上で最後に着いた場所は十字架だ。

僕たちを罪の裁きと死から救うために、
イエス様が十字架で命をささげてくださったから、

イエス様の似姿に変えられていくクリスチャンの僕は、
十字架の姿にまで、イエス様に似せられていきたい、
イエス様を愛していきたい、と願う。(あくまでも僕の願いです)

イエス様のためなら、自分の命すら喜んでささげます、と
そこまでイエス様を愛することができるなら、
僕は死の恐怖に苦しめられることはない。

十字架の姿にまで、イエス様に似せられていきたい、と
そこまでイエス様を愛することができるなら、
僕は、病の苦しみの中で、苦しめられることはない。

クリスチャンの僕には、命をかけても惜しくないイエス様がおられる。
いっさいのものを損と思えるほど、人生の中心に、
「イエス・キリストを知ること」の絶大な価値を見出すことができる。

クリスチャンは、イエス様の歩みをなぞる者だから、
イエス様が苦難にあわれたように、自分も苦難にあう。
イエス様が十字架を背負われたように、自分の十字架を背負って歩む。

そして、イエス様が十字架で死なれて、
死を打ち破り、栄光の体で復活されたように、
僕たちは、イエス様と一つにされることによって、
死を越えて、神の御国で復活の体と永遠の命にあずかる。

イエス様は、僕たちの体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださる。

でも、このすばらしい祝福は、あくまでも終わりの日に実現する祝福だ。
イエス様の復活の前に、苦難があり、
十字架があったことを忘れてはいけない。

僕は、終わりの日に復活して、
イエス様の栄光の体と同じ姿に変えられるのなら、
今はイエス様の十字架の姿に似せられていくことを喜びにしよう。

神様の御子イエス・キリストの上に起こったことが、
クリスチャンの魂と肉体の上にも起こるはずだということが、
聖書の偉大な約束のひとつ。

イエス・キリストが、肉体を持つ人間の生涯を苦しみぬかれ、
死すべき人間の命を死なれ、栄光の体によみがえり、
天にのぼり、父なる神様の右に座られたように、
クリスチャンの肉体も魂も、苦しみ、死んで、復活の体によみがえる。

今までの僕は、復活の希望(苦しみがなくなること)ばかりを見ていた。
でも、イエス様の十字架が心の中に根ざしているなら、
自分の十字架を背負って歩むことも喜びに変わるのだと思う。

そのためには、
自分の欲望を満足させる生き方を求めないことが必要だ。
だから、まず僕は自分に死ななければいけない。

自分に死なない限りは、
十字架を背負って歩むことは、ただの苦痛でしかないから。

もちろん、イエス様は癒し主であられるから、
どんな事もできるイエス様のお言葉ひとつで、
僕の難病は完全に癒されると信じて祈っている。

でも、難病が癒されても、病がある・なしに関係なく、
イエス様が十字架を背負われたように、
自分の十字架を背負って歩む原則は変わらない。
それがイエス様を信じる人生だと思う。

自分の欲望に従う人間の生き方は、今の時間だけを見ている。
今を楽しめればそれでいい。

でも、イエス様を信じている人は永遠を見ている。
永遠の光に抱かれている。

だから、今の時間だけに縛られない生き方に導かれて、
生きる姿勢が変えられて、

今の自分がどのような状態であっても、
どのような時も、死ぬ時であっても、
いつも神様の御手にあることを信じて、毎日を大切に生きる。

もちろん、欲望を捨て、自分に死んで、
十字架を背負うことを楽しみに生きるには、
自分の力では絶対に無理だ。

僕たちは、神様の恵みによってしか、変えられないんだ。

僕たちは、どれだけ努力して良い行いをしても、
絶対に神様の義に到達することはできない。
自分の行いでは絶対に救われない。

でも、ただ福音を信じた僕たちは
イエス様の義が与えられて、
イエス様の十字架の恵みによって救われた。

自分の行いではなく、
ただ恵みによって救われて、神様の所有とされている。

でも、努力ではなく、恵みによって救われたのに、
自分の努力で信仰生活をしてしまうことが多い。
それでは神様の栄光をあらわすことはできない。

頑張れば頑張るほど、自分が神となってしまい、
肉の自分があらわれてしまう。

僕たちは恵みによって、
すでに神様の所有とされているのだから、
恵みによって信仰生活をしていくことが大切なんだ。

イエス様の義が僕たちに与えられて、
イエス様の十字架の恵みによって、
すでに神様の所有とされたのだから、

肉(罪に従う古い性質)によって、自分を見るのではなく、
キリストのうちに自分を見いだしていく。
ひたすらキリストに委ねていく。

そうして、自分の努力で信仰生活をすることから解放されて、
恵みの中を歩んでいける。
神様の栄光の領域に入れられていく。

今まで僕は努力すればするほど、
いつまでも罪の思いから脱け出せなくて、
罪に苦しめられることが多かったけど、

自分の努力ではなく、
神様の恵みによってしか変えられない、と信じます。

イエス様を信じて、神様の所有とされているのだから、
ただ神様の恵みに信頼していきます。

イエス様は罪と死の力に完全に勝利されているから、
いつもイエス様を信頼していきます。

【ローマ人への手紙 6章2~14節(新改訳聖書)】

罪に対して死んだ私たちが、
どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、
その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、
キリストとともに葬られたのです。

それは、キリストが御父の栄光によって
死者の中からよみがえられたように、
私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、
キリストの死と同じようになっているのなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

私たちの古い人が
キリストとともに十字架につけられたのは、
罪のからだが滅びて、

私たちがもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを、
私たちは知っています。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、
キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

キリストは死者の中からよみがえって、
もはや死ぬことはなく、
死はもはやキリストを支配しないことを、
私たちは知っています。

なぜなら、キリストが死なれたのは、
ただ一度罪に対して死なれたのであり、
キリストが生きておられるのは、
神に対して生きておられるのだからです。

このように、あなたがたも、
自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、
その情欲に従ってはいけません。

また、あなたがたの手足を
不義の器として罪にささげてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者として、
あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。

なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、
恵みの下にあるからです。


【ヨハネの福音書 1章14・16節(新改訳聖書)】

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、
恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

【ヨハネの福音書 8章12節(新改訳聖書)】

イエスはまた彼らに語って言われた。
「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです。」

【ヨハネの手紙第一 1章7~9節(新改訳聖書)】

もし神が光の中におられるように、
私たちも光の中を歩んでいるなら、
私たちは互いに交わりを保ち、
御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

もし、罪はないと言うなら、
私たちは自分を欺いており、
真理は私たちのうちにありません。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、
神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


そして、次の言葉を自ら進んで祈ることができるようになりたい。

【アッシジのフランチェスコ】

イエス・キリストよ。私がこの世を去る前に、
二つの恵みをいただくため祈っています。

その一つは、愛するイエス様、私が生きているうちに、
あなたが最もひどい責め苦を受けられた折、
耐えしのばれたあの苦痛を、
できる限り私のたましいと体で感じることです。

ああ、神の子よ、もう一つは、あなたが私ども罪びとのため、
あのような苦しみを喜んで耐えしのばれるほどに、
燃えたたせられたあの至上の愛を、
できる限り私の心の中に感じることです。


【マザー・テレサ】

「苦しみは、苦しみそれ自体では虚しいもの。
しかし、キリストの受難を分かち合う苦しみは
素晴らしい神様からの贈物です。

人の捧げる最も美しい贈物は、
キリストと苦しみを分かつことができること。

そうです。それこそ、キリストの愛の贈物であり、愛のしるしです。
なぜなら、御父は、
御独り子を私たちのために死に渡されることによって、
世を愛しておられることを証されたからです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

この画像をクリックしてくださると、当ブログのランキングがアップします。
ありがとうございます。

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとう (通りすがり)
2015-11-23 21:28:53
ありがとう。

言葉をありがとう。
返信する
通りすがりさんへ (広輝)
2015-12-01 20:10:11
はじめまして。
読んでくださって、ありがとうございます♪
嬉しいです。
返信する
ただ恵みによって… (てんぷら☆さんらいず)
2015-12-10 23:04:58
amen!hallelujah!
主イエスがいつも微笑んで、広輝くんのお顔を見つめてくださっているように感じました。
ありがとう。
返信する
てんぷらさんへ (広輝)
2015-12-12 17:11:50
コメントありがとうございます。
読んでもらえて嬉しいです♪♪

イエス様を知らなかったら、
僕はどうなっていたのか分かりません。

心から感謝です!
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。