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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

脳を鍛える?

2006年05月18日 | 学習一般
「フラッシュ暗算」というのをご存じだろうか?
パソコン画面に次々と表示される数字を暗算していく高速計算法である。
もともとはソロバンの暗算から生まれたものらしいが、今では全国的な広がりを見せ、検定やコンクールもあるという。

上達すると、3ケタを15回たす暗算を2秒!でできるそうだ。
まずはどんなものか、体験してみていただきたい。→ドーナツの塔「フラッシュ演算のFLASH」

...どうだろうか?
私はさっぱりできなかった...。

「百ます計算」で有名な陰山英男氏が副校長を務める立命館小学校では、4月からこのフラッシュ暗算を授業に採り入れているそうだ。
年間105時間行い、4年生までには3ケタの暗算ができることが目標だという。

考案者の神林茂氏は、脳が鍛えられて直感力や認識力などが開発されると効果を謳っているが、どうもこの手のものは「なんだかなぁ...」という思いが拭いきれない。

世は「脳力」ブームのようで、川嶋隆太氏の「脳を鍛えるドリル」シリーズを始めとして様々な書物やパソコンソフトがあふれている。
「右脳」「ひらめき」というキーワードに弱い大人も多い。
かく言う私も、過去にいくつか買い求めたことがある。

しかし、そもそも「脳を鍛える」とか「脳力アップ」とはどういうことなのか?
「右脳開発」なんて科学的に正しいことなのか?
左脳と右脳の働きの違いについてさえ、一般に考えられているほど単純なものではないという話も聞いたことがある。

どうも単なるムードやイメージに踊らされているような気がしてならない。
「左脳より右脳」「論理よりひらめき」が支持される風潮は、いったいいつ頃から強まってきたのだろうか...。

フラッシュ暗算の全国コンクールで優勝した小4の子は、こんなことを言っている。
「テストでは、教科書のページがそのまま浮かび、漢字も写真みたいに覚えられちゃう。」

私などにはとても想像できないが、何でも見ただけで瞬時に記憶の倉庫に収めることができるということだろう。
では読んだり、書いたり、考えたりはしなくてもいいということか、とかみつきたくなる。
間違えて、試行錯誤して、何時間も悩んで...という経験は必要ないのだろうか...。

もちろんこれですべての力がつくと言っているわけではないだろうが、「速く、たくさん」の思想に基づく学習法は、そのハデさ故に人々の関心を引きやすい。
ジミではあるが本質的な、「少量をゆっくり、じっくり」という学習の重要性も忘れてはならない。

もっとも、「57+15」レベルの計算さえ筆算に頼っている中学生を見ると、もう少し暗算力をつけてほしいと思ってしまう。
逆に言えば、それくらいの暗算力があれば十分ではないだろうか。

副産物を過剰に期待せず、その程度までの暗算をゲームとして楽しむなら、フラッシュ暗算も悪くはないのかも知れない。


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勝利の方程式?

2006年04月25日 | 学習一般
プロ野球などでよく耳にする「勝利の方程式」という言葉がありますね。
わが阪神タイガースで言えば、先発投手からJFKのリリーフに繋ぐ必勝リレーのことです(最近はあやしいですが...)。

当たり前のように使われていますが、よく考えるとおかしくないですか?
先発が誰でも、最後はこの3人に繋げば勝利という答が出る。
ということは方程式じゃなくて、「勝利の恒等式」だと思うんですが...。

ずっと前からそんな疑問を持っていたのですが、今検索したら同じことを考えている人がチラホラいらっしゃいました。→「勝利の恒等式」

ところで方程式と言えば、中1で習う1元1次方程式で、よくこんな問題があります。

「兄は家から駅まで分速60mで歩いている。忘れ物に気づいた弟が、兄が家を出てから6分後に分速150mで追いかけ始めた。弟は家を出てから何分後に兄に追いつくか。」

弟が家を出てからx分後に追いつくとして方程式を立てれば、150x=60(x+6)(弟の進んだ距離=兄の進んだ距離)でx=4という答えが出ます。

生徒がこうやって「正しい解き方」で答を出したあと、私は言います。
「方程式使わずに解いてみて。」

いわゆる「旅人算」という問題ですね。
方程式を使わずとも、算数の範囲で十分解けます。
中学入試の題材としてもお馴染みですね(もちろんこんなに易しくはないですが...)。

弟が家を出るまでに、兄は360m(60×6)先に進んでいます。弟と兄の分速の違いは90mですから、1分に90mずつ2人の距離が縮まります。従って、360mの差がゼロになるには360÷90で4分かかることになります。

ところが、ほとんどの中学生はxを使わないと解けません。
「えーっ?」と言ったまま固まってしまいます。
問題の本質がわかっていれば、図や表で少し考えれば難しくないと思うのですが...。

「方程式」って、中学の数学の象徴という感じがしませんか?
「算数」じゃなくて「数学」なんだぞ!という権威を示しているような...。
難しいことをしている、頭を使っているというイメージがあるように思います。

でも、方程式自体は実に機械的な作業なんですね。
初めに移項などのテクニックを覚えれば、あとは単純な計算だけです。
たし算の筆算と変わりません。

文章題では何をxとするか、どう式を組み立てるかなどについて、もちろん頭を使いますが、似たような問題を何問か解くうちにパターン化されてくる気がします。
少なくとも、算数で解くよりは考えていないように思うのです。

「AとB合わせて19mで、Aの方がBより3m長い。A、Bはそれぞれ何mか。」

この問題を見たとたん方程式を立てる人より、線分図を描いて(19-3)÷2でBの長さを出す人の方が、より多角的なものの見方、柔軟な発想ができると思います。
そういう人は、もちろん方程式を使っても解けるということです。

何も、方程式が無用だという暴論を展開しているわけではありません。
方程式はきちんと学ぶ必要があります。
方程式を使わないと解けない問題もたくさんありますから...。

でも逆に、方程式では解けない算数の問題もあるのです。
少なくとも中学までの段階では、xに頼らないで解く練習ももっと増やすべきではないでしょうか。
1つの文章題を方程式と算数式、両方で解いてみる...そんな試みを多く実践して、子どもたちの考え方の幅を広げたいと思っています。


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小数で割る意味

2006年04月09日 | 学習一般
このブログの熱心な読者であるHさんからメールをいただいた。
その中に、5年生の算数教科書を拾い読みした感想があった。
こんな問題についてだ。

(例題)青い針金は1.5mの重さが7.5gです。
    赤い針金は0.5mの重さが7.5gです。   
    それぞれの1mのおもさは何gでしょうか。
    
  ここにわかるようなわからないような線分図が書いてあって、

  青い針金 7.5÷1.5=
  赤い針金 7.5÷0.5=



「こんな説明で意味がわかるのか」「特に赤い方は2倍した方が簡単なのではないか」というのが彼女の意見だった。
私は返事にこう書いた。
「たぶん、ほとんどの子はわからないと思います。」

これはいわゆる「1あたり」の考え方である。
1.5で割る方はまだしも、0.5で割るという考え方は、この時点ではかなり難しいと思われる。
塾で扱うときも、仕方ないので「2mだったら÷2するでしょ?小数でも同じだから÷0.5」などとアドバイスするが、教える方も教えられる方も今一スッキリしない。

小数の計算方法自体は学ぶ必要があるだろう。
文章題でも「6mのヒモから0.5mのヒモが何本取れるか」などの素直な問題なら、まだわかりやすい。
いったい、この段階で「1あたり」の量を1より小さい数から求める意味がどこにあるのか...?

結局、「÷0.5」は単なる作業で終わってしまう危険性が高い。
よく理解できないままやり方だけ覚えさせられるから、「速さ」でまた0.5時間などが出てきたとき、機械的に「は・じ・き」の図に当てはめて計算することになるのではないだろうか...。

この問題(赤い方)を大人が解くとしたら、ほとんどの人はHさんの言われるように2倍するのではないか。
その方がやっていることの意味が理解しやすいからだ。
1より小さい数で割るという作業はどうも馴染まない。

「1あたり」の量を求めるためには、まず「1」の概念が十分に形成されている必要がある。
そして、そのために重要なのは小数より分数の考え方であろう。
ところがその分数はと言うと、意味は4年生で習うが、それ以降6年生まで、その加減や乗除の計算は忘れた頃に少しずつ登場するのだ。
5年生のこの段階で、「1」の意味が子どもたちに十分理解できているとは思えない。

今の算数では、小数や分数の乗除計算を習ったあとには、細切れのようにそれを使った「○倍」関係の文章題があるが、相互の間には何の脈絡もない。
「1あたり」にしても0.5倍や1/2(2分の1)倍にしても、要は「割合」である。
「割合」という単元は6年で初めて登場するのだが、分数の意味からそこまでを、もっと系統立てて教える必要があるのではないだろうか。

小数の計算しかできない段階ではなく、分数の乗除、比などを習ったあとで「1あたり」や「百分率」を学べば、今よりずっとわかりやすいのではないか。
そこまで学んでいれば、先の問題も「÷0.5」でなく「×2」で簡単にできる。
それで十分ではないか。
「÷0.5」で解かなければならない必然性はどこにもない。

「1あたり」を1より小さい分数から求めるときも同じことだ。
3/4(4分の3)mで6gなら、1m分は6÷3×4=8とすればよい。
そこから少し進んで6×(4/3)=8。
この方が6÷(3/4)よりよほど意味がわかりやすいだろう。

繰り返すが、こういう自在な発想ができるためには、小数だけでなく、分数の乗除や比などを十分に理解している必要がある。
これら6年で習っている内容をもっと早めに学習することも含め、小数・分数以降のカリキュラムを「割合」という概念で再編成すべきではないか。
それが無理なら、5年までは小数も分数も計算問題と単純な文章題だけに限るべきであろう。


中学生でも、とにかくこの「割合」関係が苦手な子が多い。
春期講習用に作った「割合」のオリジナル教材、若干の改善を加えて中学生にも使ってみようと思っている。


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そろばんと暗算

2006年04月03日 | 学習一般
私が子供の頃は、習い事と言ったらそろばんと習字くらいしかありませんでした。
都会には学習塾もあったのかも知れませんが、父の転勤で地方都市に住んでいた時期が圧倒的に多かったので...。

私も例に漏れず、この両方を習っていました。
どちらもたいしたところまでは行きませんでしたが、そろばんは道具を扱う面白さがあって好きでしたね...。

ただ、暗算は苦手でした。
あの、そろばんの珠を頭に描いてハジく、という作業にどうしても馴染めなかったのです。

電卓の時代になっても、そろばんは習い事として根強い人気がありますね。
昔と違うのは、将来のために技を身につけると言うより、能力開発としての側面がクローズアップされていることでしょう。
確かに指先を動かすのは脳にいいと言われているし、計算力をつけるためには有効なのかも知れません。

ただ、そろばんはあくまでも算数の世界までですよね。
数学はそろばんではできません。
さらに、誤解を恐れず言わせてもらえば、普通の計算力とも異なると思うのです。

恥ずかしながらそろばんでの割り算のやり方は忘れてしまいましたが、足し算や引き算にしてもかけ算にしても、計算の原理は筆算と同じですが、それが器械の操作で終わっている気がするんです。
うまく言えませんが、数の概念や計算の仕組みなどと関係なく、ただ道具を操っているだけなのではないか?と思うんです。

もちろん筆算でも、やっていることの意味がよくわからずに機械的に計算している子も少なくないと思うし、ある程度慣れてきたらそれでも構わないと思います。
たかが計算程度で時間をかけて考えるのもどうか...とも思います。

ただ、そろばんでの計算って、筆算以上に「考えなくてもできる」ように思うのですが...。
手の方が勝手に動いて答えが出てしまうというか...。

小学生で、1ケタ同士の足し算でもすぐに指を動かして、頭の中のそろばんで答を求める子がいます。
で、ときどき間違います。
その作業に頼らないと簡単な足し算もできないって、これって計算力があると言えるのでしょうか?

私は今、暗算は苦手ではありません。
どちらかと言うと速い方だと思います。
でも、頭の中にそろばんは存在しません。
自分なりの経験で、速く計算できる工夫をしているだけです。

念のため言っておきますが、そろばんの批判をしたいのではありません。
ただ、わからないので教えてほしいのです。
そろばんで養うことができる力って何なんでしょう?


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間違ってもいいんだよ

2006年03月30日 | 学習一般
春期講習に来ている新小4の女の子...。
お母さんは、教育に対する関心がとても高そうな方です。

申し込みに来られたとき本人も一緒だったので、お母さんが手続きをされている間、ごく簡単なパズルをやらせてみました。
「たて・よこにたす」というパズルの入門編で、4マスだけ、使われている数字も3と4だけ...というシンプルなものです。→「たしざんパズル」

ところが、ルールを説明して理解したようなのですが、一向に鉛筆が動きません。
じっと紙を見つめて、鉛筆がかすかに揺れているだけです。
初めて塾に来た緊張感もあるのかな?と思い、何度も「こことここを足して3になるようにしてね」などとアドバイス...やっと1問できました。

難しすぎたのかな?とも思ったのですが、レベル的にはそうでもないし...。
ところが、そのあとお母さんと話していて、話の流れからふと気がついたのです。
で、その子に「間違ってもいいんだよ」と言ったとたん、彼女の顔がパッと明るくなったのです。
...これで大丈夫だと確信しました。

小学生や、中学生の女子にときどきこういう子がいます。
どちらかと言うと親に従順で、成績もよい子が多いようです。
正解しなければいけない、間違うのはいけないことという思いが強いのだと想像します。
だから、確実に正解とわかる「教えられたこと」以外には手が動きにくい、イコール頭が働きにくいということになるのではないでしょうか。

途中までの文の続きや、文中の空欄を自由な発想で書く形の問題に、ありきたりな答(模範解答的な答)ばかり書いてくる子もこの傾向があります。
「正解は決まっていないんだからできるだけ面白い内容にしてね」と言うのですが、大人が解いたときのようなつまらない答しか書きません。
もちろん想像力や生活習慣の不足に問題があるともいえますが、正解がないと不安なのかなぁ...という気もしています。

自分の頭で考える楽しさというのは、間違いを恐れず、試行錯誤を繰り返す過程からしか生まれません。
間違ったらやり直せばいいんです。

こうやったけど違ったのはどうしてだろう?
こう考えてダメだったんだから、今度はこうしてみよう...。
その繰り返しがきっと力になるからね!


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科学を疑え

2006年03月21日 | 学習一般
3月8日の記事で、疑問をすぐに解決せず考え続けることの大切さを書いた。
で、それからしばらく生徒を観察していてふと思った。
そもそも、学習の中でいろいろな疑問を感じている子が少ないのではないか...。

これはどういう意味だろうとか、なぜそうなるのだろうとか、幼い頃には見るもの聞くものすべてが疑問だらけだったはずである。
子どもの「なに?」「どうして?」の波状攻撃に音を上げた経験は、多くの親が持っているだろう。

それが大きくなるにつれ、質問が少なくなる。
大人が面倒になって適当な受け答えを繰り返しているうちに、あまりしつこく訊くのはいけないことなのだと思うようになるのかも知れない。
もちろん家庭や学校で様々な体験をし、知識も得て、「わかる」ことが増えてくることも一因であろうが、どうもそれは「わかったつもり」になっているだけのことが多いような気がする。

学校で先生に説明されて「わかりましたね」と言われると、本当はよくわからなくても、思わずみんなと一緒に「はーい!」と答えてしまう。
本や新聞を読んで「そうかな?」と疑問を感じることがあっても、みんながその意見に賛成しているようだと、自分もそう思わなくてはいけないような気になる。
そんな経験を積み重ねているうちに、いつしか疑問を感じたり疑ってみたり...ということ自体がなくなってくる。
そんなふうに考えられないだろうか...。

テレビや新聞の論調に簡単に染まってしまう。
誰かの意見を聞けば「その通り」とうなずき、正反対の主張の本を読めば「それもそうだ」と納得してしまう。
果ては、自分では全くいいと思わないのに、世の中で流行っているファッションや映画や本を、皆と同じように支持し絶賛する...。
これを「思考停止」と呼ぶ。
マスコミに簡単に洗脳されてしまう人間の増加は恐ろしい結果を生む...。

世の中で常識とされることを疑ってかかれ、本を読むときは批判的に読め、などはビジネスの世界では常識であろう。
ところが実は、もっとも疑問を差し挟む余地がないと思われている科学こそ、疑ってかかる必要がある...と訴える本がある。→竹内薫「99.9%は仮説~思いこみで判断しないための考え方」
私は新刊で新聞広告に載った日に即購入したのだが、現在までに18万部...結構売れているらしい。

帯のキャッチフレーズがまず衝撃的...「飛行機はなぜ飛ぶのか?科学では説明できない!」
え?!...と思った後に「やっぱり」とつぶやいてしまった。
私は飛行機大嫌い人間なのだ(会社勤めの頃、出張は札幌も熊本も前日から列車で行った...)。

「科学的にこうなる」と言われると無批判に「そうなのか」と納得してしまいがちだが、意外と「実はよくわかっていない」「別の説もある」という状況の方が多いのだという。
地動説に始まり、冥王星が惑星であるとか、麻酔はよく効くとか、マイナスイオンは体にいいとか、すべては仮説に過ぎないとのこと。

そう言えばトリノ五輪のときにも、「スケートがなぜ滑るかについては諸説があり、謎は解けていない」という新聞記事があった。
なぜ滑るかわからないんじゃスタッドレスタイヤも当てにできないと言うことか...。

科学は決して万能ではなく、むしろ「常に反証できるものであ」り、「決定的な証明などということは永遠にできない」のだそうだ。
だから、もっともらしい説明でも「本当にそうなのか」と疑ってみることが大切だと主張している。

新しく学ぶことすべてについて疑っていてはキリがないと思うが、絶対的に正しいものはない(数学以外)という視点を持って物事を考える姿勢は重要だと思う。
どんなに偉い専門家が発言しようが、どんなに大多数が賛同しようが、安易に丸め込まれることなく、自分の頭で相対的に考えたい。
そして「私はそうは思わない」(by佐野洋子)と主張できる人間でいたい。
塾で育てたいのもそんな人物である。


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究極の1教科入試

2006年03月16日 | 学習一般
数学1教科だけで5時間...。
東工大理学部が今秋からユニークな入試を実施するとのニュースがあった。
センター試験の結果は参考にせず、面接も行わないという。

午前と午後に2時間半ずつの制限時間を設け、それぞれ2問程度を出題。
ものごとを深く考え、じっくり課題に取り組む能力が落ちているとの見方から、公式や知識を問う難問ではなく考える力や解き方が重要な問題を出すそうだ。

こういう極端な制度については、それだけでトータルな学力が測れるのかとか、採点方法に公平性が確保できるのかとか、とかくマイナス面ばかりをあげつらう声が多くなりがちだ。
しかし、粘り強く考える力や解く過程の大切さを日頃から訴えている私としては、東工大の英断を高く評価したい。
注目する理由は2つある。

1つはよく練られた優れた入試問題が出題される可能性が高いこと。
「考える力や解き方が重要な問題」ということは、ただ単に計算が複雑だったり奇抜な発想が必要だったりという問題は出ないのではないか。
オーソドックスながら論理的な思考力や説明力(含・証明力)が問われる良問が期待される。

レベルは違うのだろうが、話題になった東大の「円周率が3.05以上であることを証明せよ」や東京理科大(違ったかな?)の「背理法とはどのような証明法であるか説明せよ」などを思い出す。
長野県トップクラスの長野高校でも、昨年の自己推薦入試で平行四辺形の定義を述べさせ、さらにその定理の1つを証明させる問題があった。
いずれも奇をてらった問題ではなく、どれだけ深い学習をしているかが問われる良問だと思う。
東工大が5月頃に発表するという想定問題と解答例が楽しみだ。

2つ目は数学の天才的な人物を発掘できる可能性が高いことである。
バランスのよい学力や一般常識も大事だが、今までの日本の教育はその面ばかりを追い求めすぎてきたのではないか。
義務教育の段階ならともかく、最高学府ではそんなことに捕らわれず、ある意味破天荒な人材を受け入れ、突出した能力をさらに伸ばす教育も必要ではないか。
と言っても「一芸入試」のようなキワモノには疑問を感じるが...。

先にも触れた長野県高校入試の自己推薦型入試(前期選抜)は、今年で3年目を迎えた。
試験の内容は高校により様々で、面接だけ、面接と作文、面接と小論文のところがある。
「小論文」の中味も実に多彩だ。
文章や資料を元に意見を書かせる基本形だけでなく、上位校ではそれに加えて数学、英語、あるいは理科、社会などそれぞれについて、ふつうのテスト形式で長目の記述式問題が出されている。
質、量ともかなり本格的だ。

私はこの自己推薦型入試が導入されたとき、これで暗記型の受験勉強が少しは改善されるのでは?...と大いに期待していた。
面接だけのところはともかく、特に小論文を採用しているところでは、ふだんの成績などには現れにくい力も積極的に評価してくれるものと思っていた。
ところがこの3年間を見る限り、若干の例外はあるが、結局は日頃の成績がいい生徒が合格しているように思う。
しかも、どちらかというとある教科に突出した学力を持つ子より、トータルなバランスの取れた生徒が受かっているようだ。
つまり、後期の一般選抜でも受かるであろう子が、早めに受かっているにすぎないのだ。
これでは前期選抜の意味がないのではないか。

長野県では前期選抜について様々な意見が交わされている。
特に多いのは「合格の基準がわかりにくい」という声だ。
でも、私はこの制度はそれでいいと思っている。
後期選抜のように試験の点数が良かった順に受かる、あるいはこれまでの学校推薦のように、日頃の成績が良かったり部活動や生徒会活動で顕著な活躍をした子が受かる...という「わかりやすい」制度では前期選抜の存在意義はない。

むしろ前期選抜ならではの観点をもっと強く打ち出すべきではないか。
1教科でも90点以上なら合格とか、試験官と議論をして勝ったら合格とか、そんな観点をアピールする高校があってもいいのではなかろうか。
高校入試の段階ではいささか冒険的に過ぎるのかも知れないが...。

東工大の試みが全国の大学入試、高校入試に波紋を投じ、制度や問題の見直しが広がることを期待したい。

(追記)中学入試でも、全国的に有名な学校は、やはりそれなりの問題を出す。知識の暗記や公式丸覚えだけでは、到底太刀打ちできない。そう言えば、あの灘中は入試教科に社会がないという話を聞いて調べたら、灘高の入試にもなくて驚いた(数・英・国・理)。覚えればいいという勉強に対する無言のアンチテーゼであろう。


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疑問は即解決すべきか?

2006年03月08日 | 学習一般
最近よく生徒にパズルをやらせている。
パズルと一口に言ってもいろいろなものがあるが、塾で使うのはいわゆるペンシルパズル...紙と鉛筆だけで解くシンプルなものである。

使うのは、以前にも少し触れた宮本哲也氏作のもの、ネットで探したもの、新聞から拾ったものなど。
小学生はもちろん、中学生にもウォーミングアップ用に使ったりしている。
もっとも、ときに妙に難しい問題があり、ウォーミングアップに時間を食いすぎてしまうこともあるのだが...。

パズルをさせる狙いは3つある。
1つは集中力をつけること。
勉強だと10分も集中力が続かない子でも、パズルとなるとけっこう長い時間一つのことに取り組んでくれる。

2つ目は試行錯誤の体験を積ませること。
算数の勉強で、わからないと何もせずボーッとしている子がいる。
見かねた大人(=私)が救いの手を差し伸べてくれるのを待っているのだ。

こういうとき、私は放っておく。
「何か書け」と言う。
何でもいいから手を動かさない限り、決して教えない。
まずは見当はずれでもいいから、自分で「ああでもない、こうでもない」「こうやってみたらどうか?」と考えてほしいのだ。

これを実践させるのにパズルは最適だ。
初めは当てずっぽうでいろいろやってみるしかない。
考え方をつかむまでは試行錯誤あるのみだ。
もう一歩で完成というところまで行って、やっぱり違っていて一からやり直し...。
机には消しカスばかりが山のように溜まっていく...。
これがいいのだ!

3つ目は、この試行錯誤にも関連するが、粘り強さを養うこと。
何回も消しては書き、書いては消しを繰り返し、何分も何十分も格闘しても解けない...。
悔しいからと家に持って帰ってやる子もいる。
次の学習日に回す子もいる。
で、次のときにやってみると案外あっさりできたり...。

教科の学習ではなかなかこうは行かない。
どの教科でも、知識や理解度は、少なくとも小中学生よりは私の方が上である。
どうしても彼らは「生徒」の立場になってしまう。
意識するとしないに関わらず、正解なり、やり方なりを教えてもらう立場に立ってしまうのだ。

もちろん私は、上にも書いたように簡単に教えることはしないが、正解もそこへ至る解法も模範的なものがすでに用意されている。
教科書や参考書、辞書を見ればすぐにわかる問題も多い。
最後まで自分の頭で考えなくても、逃げ道はいくらでもあるのだ。

パズルではそれがない。
正解はあるが、何かを参考にすればわかるわけではない。
私に助けを求めても無駄である。
第一、ちょっと難しくなると私だってすぐには解けないものばかりなのだ。
せいぜい一緒に悩むくらいしかできない...。

「わからない」のは決して悪いことではない。
むしろこれは大切な体験であろう。
これがなければ「わかろう」とする気持ちも起こらない。


わからない状態を経験させまいと、先回りして手取り足取り教えるのは最悪である。
助けを求めてきたからといって、すぐに教えるのも禁物。
結局は一人では何もできず、すぐに人に頼る人間を育てることになる。

問題はそのあとだ。
今まで私は、「わからないときになんとか自分の力で調べることができる」ということを指導目標の大きな柱の一つにしてきた。
しかし最近、それは少し違うんじゃないかと思い始めた。

疑問は本当にすぐ解決するのがいいのだろうか?
ずっとそれについて考え続けることも必要なんじゃないだろうか?
たちどころに答が見つかってはつまらないんじゃなかろうか...?


もちろん自力で調べられる力があることは素晴らしい。
自分で調べもせず、人から聞いたことを丸飲み込みするだけの輩よりはずっと好ましい。
しかし、だからといって、難問にぶつかったらすぐに調べればいいではいけないのではないか...。
特に、大した労力をかけずとも何でも即座に疑問を解消してくれるインターネットは曲者(くせもの)である。
ホイホイ調べてわかったつもりになり、スイスイ忘れてしまいそうだ。
それなら、わからない状態のままずっと考え続けている方が、まだマシではないか...。

懇切丁寧な参考書やフォローたっぷりの問題集なども、使い方を誤ると危険な気がする。
そんなことまで書いちゃったら自分で考えるところないじゃん!という代物も存在するのだ。

教材作りでも、丁寧に説明すべき所とヒントに留めておく所、答だけ書かない所、中には答も載せない所など、微妙な匙加減で調整する必要がある。
誰でも使えるようにという「親切」な教材は、自分であれこれ考えたり、これはなぜ?という疑問を持ったりする貴重な機会を奪う教材でもある。
あえて不親切な部分を残す教材を作ってみたいと思う。



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なつかしの筆記体

2006年02月20日 | 学習一般
私は小6の一時期、英語教室に通っていた。
そのせいか、中学の早い時期から英語は筆記体で書いていた記憶がある。

ノートを少し傾けて(右側を上げて)スラスラと書き、最後にtの横棒やiの点をチョンチョンと付けてできあがり!
...こうやって書く英語は好きだったし、我ながらきれいに書けていたと思う。
私は日本語の字が汚いので、英語の方がよほどうまいと言われたものだ。

この筆記体、今の子どもたちのノートにはほとんど見られなくなった。
私の塾では、4年前の卒業生に1人いたのが最後である。
英語塾で身につけたということで、同級生の中でも特異な存在だったらしい。

学校で筆記体を教えなくなってどれくらいになるのだろう。
教科書では一応紹介されてはいるが、その練習はしていないようだ。
教えないどころか、筆記体の使用を禁止している中学校もあると聞いた。
「筆記体でもいいが、教科書のお手本と少しでも違ったら×」という馬鹿げた話もある。

学校での扱いが縮小された理由は様々あるだろう。
土曜休みでただでさえ時間がないので、余分な指導や練習は省く...。
ブロック体でさえまともに単語が書けないのだから、まずそちらを徹底すべき...。
教えても、下手に筆記体で書かれると読みにくい...。

ワープロがこれだけ普及している現状では、手書きで大量の文を書くことは日本語でさえ稀である。
まして英文を、筆記体でなくてはやっていられないほど多く書くなど、一般人は想定しなくていいことなのかも知れない。
それでも、テストの答案を書く程度でも、筆記体の方がずっと速くきれいに書けると思うのだが...。

さらに困るのが、数学などで文字を扱う場合である。
方程式のエックスは断然筆記体がいい。
xでは掛け算記号と紛らわしいし、教科書の活字を写して「)」と「(」をくっつけたようなエックスを書こうとすると、時間がかかるかエックスに見えないかのどちらかになる。
筆記体なら速くて正確だ。
これは小学校でエックスが出てきたときから教えている。

B,L,Qの小文字も、ブロック体だとそれぞれ6,1,9と区別がつきにくい。
自分で自分の字を見まちがえて、ミスを起こす可能性が高くなる。
筆記体なら一目瞭然なのに...。

中学校では、全員に徹底させることは難しくても、興味のある子にはもっと積極的に筆記体を薦めてもらいたい。
禁止など言語道断である。
筆記体を自在に操れるようになることで、さらに英語が好きになる子も出てくるだろう。

そしてそれ以外の子にも、上記の数学で使う文字のような最低限の筆記体は教えてもらいたいものだ。
第一、少なくとも自分の名前くらいは筆記体でスラスラ書けないと、サインの時に恥をかきますよ。


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道案内の力

2006年02月16日 | 学習一般
以前の記事で、地図を見て特定の場所までの道順を説明するオリジナル教材について触れたことがある。
駅を中心に南北に広がる町の地図があり、その角の方に「ココ」がある。
初めて来る地図を持たない人に、駅を降りてから「ココ」までの道を教える
という想定である。
もちろんそんなに複雑な道ではなく、主要箇所には目印も描いてある。

ところが、この教材を一発で合格する生徒(主に中学生が対象)は少ない。
そして、普段の教科学習の様子を見ていると、ほぼこのプリントの出来が予測できてしまうのだ。

論理的思考力や説明力を養成することの重要性を著書で訴え続けている芳沢光雄氏(東京理科大教授)が、こんなことを書いている。

「2004年2月に行われた千葉県立高校入試の国語で、地図を見ながらおじいさんに道案内するという記述問題が出題された。200字以内で作文する問題であったが、なんと受験生の半数が0点だったという。」(from「数学的思考法」)

塾での現状を見ている身には、さもありなんと思われた。

千葉県の問題は「おじいさんに配慮して」という条件が付くものの、私の作った教材とほぼ同じ内容である。
道筋が示されている点では、むしろ易しいとも言える。
私の教材では、どの道をどう教えるかも採点ポイントの一つなのだ。

それにしても「半数が0点」は驚きであり、ショックでもあった。
いくら記述式が苦手と言っても、この問題は専門的な知識や技量はほとんど必要とされていないのではなかろうか。
いったいどんな力の不足が、この悲惨な結果を招いたのだろうか。

実は芳沢氏も指摘している通り、地図を説明するのは数学の証明問題に似ている
ここには単に道案内が上手、下手というレベルを超えた、大きな課題が隠れているのではないか。
以下、私の塾での例を元に少し考えてみたい。

先日もこのプリントに苦闘する中3生の姿があった。
書き出しでまず大切なのは、駅をどちら側に降りるかということである。
北側に出ないといけないのに、それに触れずいきなり道案内を始めては、へたをすると全く違う場所に導いてしまう。

地図には「北口」などの表示はないので、模範解答は「電車の進行方向右側に降りて」であるが、都会と違って普段電車に乗る機会が少ない当地の子どもたちには、
この表現は難しいようだ。
従って「北側に降りて」でも良しとする。

多いのは「交番がある側に降りて」という記述。
地図では交番は次の道の角にある。
駅から見えるかどうかはわからない。
しばらく歩いてみないと、正しいかどうか判断できない(かも知れない)のだ。

仮に駅から交番が見えたとしても、もし初めに出た側になければ、また反対側の出口まで戻らなければならない。
大きな駅では何分も歩かされる。
親切な道案内とは言い難い。

駅を出ても、とりあえずそこからどちらに進めばいいかの指示がない。
曲がる箇所の目印がない。
そして目的地近くまで行っても、道のどちら側(右?左?)を探せばいいのが書いていないのでわかりにくい...。

すべてがこんな調子の解答が少なくないのだ。
一言で言えば、相手の立場に立っていないということになろう。
自分は地図を見ながら説明しているのだからいいが、それを持たない人への配慮が感じられないのだ。

道案内に必要なのは、第一に、この相手の立場に立ってみる想像力であろう。
次に多くの情報から大切なものだけを選び出す力(要約力)
そしてそれらを元に、筋道立ててわかりやすく説明する言語表現力ということになるだろう。
教えるのがすぐ近くのわかりやすい場所であれば、身振り手振りで「あそこをこっちに曲がって...」式で十分だが、目的地が遠かったり込み入った所なら、これらの力が不可欠になる。

言葉だけでなく、相手に地図を描いて教える場合ももちろん同様である。
上記の中3生は昨日、逆バージョンの「道案内の文を元に地図を描く」プリントでさらなる苦戦を強いられていた。
ランドマークとなる大切なポイントが、あるべき場所に描かれていないのだ。

そう言えば、彼は国語の要約問題でも苦労していた。
数学の証明、社会や理科の記述問題でも然り...。
本人が避けたがるので強制はしてこなかったが、やはりもっと文章を読み、書く作業を多くさせるべきだったと反省している。
次回は塾から自宅までの地図を描き、さらに文章で説明させるプリントである...。


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同じことなのに

2006年02月05日 | 学習一般
英語の書き換えで、よく次のような問題があります。

It snowed a lot last winter.
→We had much snow last winter.

同じことを2通りの言い方で表現しているわけです。
どちらで表現されても頭の中に同じ情景が広がらなければなりません。

日本語でももちろん、似たような例はいくらでもありますね。
難しい表現と易しい表現、抽象的な言い方と具体的な言い方、あるいはちょっと視点を変えた物言いなど....。

文章を読むときに頭の中を整理するためには、これとこれは同じことを言っているんだとか、この具体例がこの部分だということを分析しながら読むことが大切です。
自分の中でこの作業がうまくできない文章は、その人にとって「難しい」文章ということになるのでしょう。

ところが実は、長い文章ではなく簡単な文でも、言い方を少し変えるとわからないという例が結構あるのです。
以下、塾で生徒を観察していて気づいたことを書いてみます。


例1:(算数)「あさみさんは300円持っています。れいこさんはあさみさんの3分の2のお金を持っています。れいこさんはいくら持っていますか。」だとできるのに「あさみさんは300円持っています。あさみさんとれいこさんの持っているお金の比は3:2です。れいこさんはいくら持っていますか。」だとわかならい。

例2:(数学)「2点(-1,2)、(2,5)を通る直線の式を求めなさい。」だとできるのに「x=-1のときy=2、x=2のときy=5である一次関数の式を求めなさい。」だとわからない。

例3:(理科)気温と飽和水蒸気量が書かれた表を見て、「気温○℃で湿度△%」とあれば空気中の水蒸気量(1立方メートル当たり)が出せるが、「露点が□℃」だと求められない。(ずっと簡単なのに....)



例1の場合だと、「比」の部分の理解がたりないということもあるかも知れません。
また、例3なら、「露点」の意味がわかっていないと言うことも考えられるでしょう。

ただ私が気になるのは、たとえば「割合」を習ったときはそれなりに理解していた、「比」のときも教わった通りにやって行けば何とかできた、なのに例1のような問題が実は同じことを言っているということに気づかない....そんな子が多いのでは?ということです。

つまり、学習したことが細切れになっていて、相互の結びつきがほとんど成されていない。
「割合」は「割合」、「比」は「比」の単元で完結してしまっているのです。

中3でも、たとえば二次関数の問題を解くときに、二次方程式や因数分解が十分使いこなせない例が見受けられます。

以前にも少し書きましたが、私は学習するということは、新しく仕入れた情報を既存の知識に照らし合わせ、これは全く新しい情報だとか、これはあれと同じことだとか、今までのこれとこれの上位概念であるとか、頭の中を整理することだと思っています。
これができないと頭の中は断片的な情報だらけになり、スペースばかりいっぱい取って機能的な働きができなくなるのだと思います。

出題する方は手を変え品を変え、同じことを様々な角度から、いろいろな表現で問うてきます。
その手にまんまとはまって、少しでも違う表現の問題の解法を一つ一つ丸覚えしていたのでは、いくら勉強しても非効率極まりないものになります。
初めて見るような問題でも、今までに学習したどういう問題と同じパターンなのかを落ち着いて考えれば何ということはありません。

そんなことを考えて、今、小学1年生の学習にこんな自作プリントを採り入れています。


「上の ぶんと おなじ いみに なるように (   )の 中に ことばを  いれましょう。

 ・たかしは けんじより せが たかい。
  けんじは たかしより せが (       )。

 ・おかあさんは きのう ほんやで かいものを しました。
  おかあさんは きのう (      )を かいました。

 ・おとうさんは 中がっこうで えいごを おしえています。
  おとうさんは 中がっこうの えいごの (       )です。 

 ・ともこの まえに 5人の 子どもが ならんでいます。
  ともこは まえから (   )ばんめです。

 ・きょうは 4がつ 11にちです。あした おじいちゃんが うちに 
  きます。
  おじいちゃんは 4がつ (   )にちに うちに きます。 



これから多くのことを学ぶ中で、彼がどれだけ「同じことを言っている」に気づき、どれだけ頭の中を整理してくれるかに注目し続けたいと思います。


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聞くは一生の損

2006年01月26日 | 学習一般
私はめったに人に道を聞かない。
地図を見るのが好きということもあるが、初めての場所でも近くまで行ったらあとは勘で何とか目的地にたどり着く。

対して、すぐに誰かに道を聞きたがる人もいる。
妻もそうだ。
初めて行く場所が私の知っている所だと、まず出発前に念入りに私に道を聞く。
現地で少しでも迷ったら、道行く人に尋ねる。

この違いはどこから来ているのか?
社交的とか人見知りしないとか、性格的なことなのだろうか?

それもあるかも知れないが、私はとにかく自分の力で行きたいのである。
人に教えてもらってたどり着いたのでは達成感が乏しい。
地図というのは普通の理解力と方向感覚があれば迷わないようにできているはずである。
その地図に負けるのは甚だシャクなのだ。

「聞くは一時の恥」ということわざがある。
後に「聞かぬは一生の恥(or末代の恥)」と続く。
礼儀作法や仕事の進め方などがわからなければ恥を忍んで人に聞け、間違ったままでは一生恥をかくぞという意味である。

作法とか慣習などについては確かにその方がいいかも知れない。
失敗を重ねることにあまり寛容でない世界だからである。
しかし、こと学習に関しては、これは必ずしも薦められるべきものではないのではないか。
壁にぶつかるたびに人を頼っていたのでは、いつまでたっても地力はつかないのではないだろうか。

宮本哲也という人がいる。
中学受験の算数塾を主宰し、毎年8割以上の生徒を首都圏トップクラス高(開成、麻布、筑駒、フェリスなど)に合格させているという。
しかも入塾時の選抜試験はなく、無試験先着順で受けつけているそうだ。
決して初めから優秀な子どもたちのみを選んでいるわけではないのだ。

彼の著書「強育論」の中にこんな記述がある。
「聞くは一生の損」
「人に質問して説明を受け、わかったような気になった問題は「済」の引き出しに入るので、頭はそれ以上その問題について考えようとはし」なくなる。
いくら考えても解けない問題は「未済」の引き出しに入り、頭の隅で常に考えているので、ある時ふとその答がひらめくと言うのだ。
だから「頭の中を疑問符でいっぱいにする」ことが大切だと説いている。

これには全面的に賛成である。
ちょっと考えてわからないからすぐに人に聞くとか答を見るという学習ばかりを続けていては、いくら勉強しても思考力は養われない。
考えて考えて考え抜いて、それでもわからない問題を抱え続けるという体験を多くの子どもにしてほしいと思う。

一般的に、質問をたくさんすることがよいこと、そしてその質問にたくさん答えてくれる先生がよい先生という誤解があるように感じる。
学習している内容が全くわかっていなければ質問のしようがない。
質問が出るというのは理解が深まり、さらにそのことを知りたいという積極的な姿勢の現れであろう。
だから上記のような思い込みが生まれるのだ。

学習の過程で疑問が生まれるのは当たり前である。
何の疑問もなく教わったことを丸飲みするよりは、ずっと好ましいことである。
常になぜ?だから?などと問う姿勢を持ち続けてもらいたい。
ただ、だからこそ、その疑問を大事にしてほしいのである。
正解をすぐ知るよりも、的外れでもいいから自分なりに考えて自分なりの答を出してほしいのだ。

もちろん疑問のレベルにもよる。
基礎にあたる部分で疑問だらけでは一向に進めない。
基本的な問題に関しては十分な理解ができるまで、ある程度助け船を出してあげることも必要かも知れない。

宮本氏の塾は質問は一切禁止だそうである。
私はとてもそこまでは徹底できないだろうが、質問に対してはできるだけ自分で考えさせるような受け答えをするよう心がけたいと思う。

もっとも、今は人に聞かなくてもネットで検索をかければたちどころに答が得られる。
これなら「一時の恥」もかかなくて済む。
で、そこから得た答を自分で消化することなく安易に「わかったつもり」になってしまう。
これが一番問題かも知れない....。


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頭の中を整理する

2005年12月23日 | 学習一般
今週は毎日雪かきで疲れ果て、やっと更新できました。
今晩からまだ降るって?.....もうイヤッ!

さて、私の塾では問題集の答は直接記入させず、ノートに書かせている。
問題集に書いてしまうと二度と使えなくなるからだ。
従ってノートはいくらでも無料で支給する。
その分、ノートの使い方にはうるさい。

子どもたちは毎日新たなことをたくさん学ぶ。
自らが主体的に「学んだ」ことは身につく率が高いが、問題は習った(教えられた)ことである。
いくら若い脳でも容量には限りがある。
教わったことをそのまま覚えようとしていては、脳はたちまち満杯になってしまうだろう。
そこで、新たに仕入れた情報を「これはつまりこういうこと」「これはこう考えればいいだけだ」とか「これはあれと同じことを言っているんだ」「これとこれは逆の関係だ」など、要約したり分類・整理して重要な部分のみをインプットすることが必要になってくる。

これがうまくできているかどうかはノートを見ればすぐにわかる。
たとえば数学なら、例題と解き方、解説、ポイントといった重要事項と単なる計算が整理されているか否か。
解答に至る途中のたし算やわり算を、同じページ内の隅っこや余白でコチョコチョとやっている、しかも計算が終わったらそれを消してしまう。
そういう子の頭の中は、ノートと同じように雑に散らかっているはずだ。

極端な場合は複数教科を1冊のノートで済ませている例もあった。
理科で前回のでき具合を見ようとページを遡ったら、歴史の答が書いてあって役に立たない。
復習もできないノートでは、その場凌ぎの勉強にしかなっていない。

数学のノートなら、見開きの左ページに問題から解答に至るまでも過程を書く。
問題集のページ番号、問題番号も見やすく書くこと。
解く際の注意事項、ポイントなどは色を変えて書き込む。
右側のページは計算用紙として使い、計算もそのまま残しておく。
右側が少し残っているからといって、決して左側の続きを書いたりしないこと!


もちろんこれはノートの使い方の第一歩に過ぎない。
わからなかった問題にどう対処するか、もっと進んで自分なりのまとめノートをどう作るかなどまで工夫するところに醍醐味がある。
しかしこの第一歩が疎かなようでは、そんなレベルまで至ることは到底期待できないのである。

繰り返すが、散らかった頭の中には新しい情報は入れることはできない。
まず今の脳内を整理すること、そして新たな情報に接したとき、整理された棚のどこにそれを収めるか、既存の情報とも照らし合わせて分類する。
場合によっては新しい棚を設けたり、以前の情報と統合したり、フォルダの中にさらにファイルをつくって階層化したりという作業も必要になろう。

図書館の蔵書やパソコンの情報の管理と同じである。
必要なときにいつでも取り出しやすい、検索しやすい状態にしておかなければならない。

論理的な思考を進めるためにも、説得力のある文章を書くためにも、情報の整理は欠かせない。
頭の中を整理する手始めとして、まずはノートを見直すことをぜひ実践してほしい。


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サボりたがる脳

2005年12月16日 | 学習一般
脳というのは基本的に怠け者であり、楽をしたがるようにできているそうだ。→「フリーズする脳~思考が止まる、言葉に詰まる」
できていたことがうまくできなくなると、苦手意識が出てさらにやらなくなる。
やらなくて済むようになれば、体と同じように脳もどんどん退化していく。
こうして、やがてボケの症状が致命的になってしまうと言う。

私の父も喜寿を迎え、ボケが進んできた。
もちろん90歳、100歳でも頭の働きが衰えを見せない人もいるが、年を取ればある程度のボケは仕方ないと思う。
ところが最近では40代、50代といった働き盛りや、20~30代の若者に至るまでボケが広がってきているそうだ。
病気ではなく、器官としては健全な脳を持つ普通の人たちがである。

一見精力的に仕事をしているように見えても、実は本人は「うわのそら」状態で、半ば無意識のうちに毎日のパターンをなぞっているだけのことも多い。
たとえば歯を磨いたり風呂で体を洗ったりするように、何も考えなくても体が勝手に動いている状態で仕事をしている。
セールストークもクレームに対するお詫びのセリフも、特に考えなくても自動的に口から出てくる。
こんな毎日を送っていると、脳はどんどんサボり始めるようだ。

さらにテレビやパソコン、インターネットやカーナビなどの文明の利器が、若年層のボケに拍車を掛ける。
インターネットで検索すればほしい情報はすぐに手に入る。
何をどうやって調べればいいか考える面倒もなければ、入手した情報を記憶しておく必要もない。

車に乗れば地図を読まなくてもカーナビが案内してくれる。
どこで曲がるか周囲の情景に気を配っていなくても、音声が教えてくれるままに従っていればいい。
最近では暗くなると自動的にライトが点いたり、雨を感知してワイパーが勝手に動いてくれたりという車まである。
極論すれば、ドライバーはほとんど何も考えなくてもいいのだ。

こんな生活に慣れていくと、機械が故障したときに的確に対処できなくなるのではないか。
自分で判断すべきことを機械任せにしていては、脳の機能は明らかに低下する。
センサーが感知していないからまだ大丈夫と、暗くなっても点灯しなかったり雨が降ってきてもワイパーを作動させなかったりでは危険である。
今さかんに宣伝されている「歩行者を感知するシステム」も、そういう意味では怖いと思う。
自分で危険を判断できない人間がますます増えるのではないか。
人間のための機械がかえって人間を不幸にすることになりかねない。

(信号のない交差点やセンターラインのない道路の方が事故が起こりにくいのと同じである。)

そして、私がもっとも危惧しているのが、この傾向が子どもたちの学習面にも広がっているように思えることである。
自分から考えようとはせず教えてもらうのを待っている子、教わったことの何の疑問も持たずひたすら覚えようとする子などなど.....。
大人が手取り足取りめんどうを見てやる教育では、こういう子が増えるばかりであある。
考えないことに慣れれば、そのうち考えようとしても考えられなくなる。
.....それが怖い。

少し頭を使えばできることまですべて機械や他人に任せ、楽な方向ばかりへ流れている現在の日本の行きつく先は、一億総思考停止であろう。
ロボットが人間を支配する世の中はSFの世界だけで勘弁願いたいものだが.....。


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歴史教育を考える

2005年12月13日 | 学習一般
歴史の苦手な子は多い。
覚えなければいけないことがたくさんある。
全体の流れや因果関係を考えればわかることもあるが、人名・事件名を始めとする最低限の用語は覚えなければどうしようもない。
おまけに難しい漢字も少なくない。

歴史に全く興味を持てない子に、ただ「興味を持て」と言っても難しい。
「そんな昔のことを知ってどうする?」としか考えられない生徒に、歴史を学ぶ意味を説いても大した変化は期待できないであろう。

そう言えば、今ベストセラーになっている「佐賀のがばいばあちゃん」(by島田洋七)にこんなセリフがあった。
歴史苦手と言う洋七少年にばあちゃんが言った一言。
「過去にはこだわりませんと書いとけ!」.....いいなぁ.....。

そもそも、人類の誕生から現代までを通史的に追って行くという、今の歴史教育のあり方に問題があるのではないか。
これだけ長期間の内容を限られた授業時間内でこなそうとすれば、表面的かつ無味乾燥なものにならざるを得まい。
世界史となればそこに地理的な広がりも加わるのだから尚更である。

さらに、小学校で一通り流れを学んでおきながら、中学校でまた同じ内容を少し詳しく学習する
高校でも同様にすべての時代のことをもう一度学び、今度はかなり詳しくなる。
高校で世界史を取る場合は多少違うだろうが、何とも能率の悪い学習法に思えて仕方がない。

他の国の歴史教育も同じようなものなのだろうか。
最近読んだイギリスの教育に関する書物によると、「シックス・フォーム」と呼ばれる公立の学校(16~17歳対象)では、歴史の授業は近代ヨーロッパ史のほんの一部とイギリス史の17世紀前半20年ほどを扱うだけだという。
そのかわり、この限られた地域、時代に関しての様々な見方のテキストを読み、考察を深め意見を書くそうだ。
他の地域や時代については、ここで体得した学び方、考え方を元に各自が興味のあるものを学習すればいいという捉え方だ。→「教育とは-イギリスの学校からまなぶ」

日本でもこんな歴史の授業ができないものか。
小学校で通史を学んだら、中学ではある特定の時代いくつかに絞って、様々な観点から総合的に学ぶという方法は取れないものだろうか。
その時代に対する異なった評価の意見を読んだり、庶民の生き様がありありとわかる資料に共感したり.....。
そんなわくわくする授業を実現するためには、カリキュラムの大胆な改革が必要であろう。

中学で無理なら高校からでもいい。
大学になって初めてそういう学習が可能になる現状では、結局歴史の真の面白さを知らないまま、「暗記科目」という印象だけで学生生活を終えてしまう人も多いのだと思う。
もったいないことだ。
単なる知識の詰め込みでは「ものしり」人間を増やすだけである。

さらに言えば、単にもったいないだけでなく、歴史に学ぼうとしない人間の増加は危険なことでさえある
NHKの「その時歴史が動いた」のような、感動を伴う学びを多くの子どもたちに体験させたいと切に思う。


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