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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

「考える」を考える

2005年12月04日 | 学習一般
私が生徒に身につけさせたいのは知識よりも思考力である。
「わからない」と言ってくる生徒にはまず「考えろ」と答える。
10月からは「考える学習をすすめる会」のメンバーにもなった。

ところでこの「考える」とはいったいどういうことだろう?
気軽に使うわりに、具体的に説明しようとすると難しい。
「思う」との違いはどこにあるのか?
英語では両方ともthinkだし、「思考」という言葉もあるし.....。
それこそ、考えれば考えるほど「考える」がわからない。

とりあえずgooの辞書を引いてみると、実にたくさんの意味が載っていた。→「かんが・える」
教育や学習の場面では、
 (1)物事について、論理的に筋道を追って答えを出そうとする。思考する。
 (2)さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする。

あたりが妥当な解釈だろうか.....。

教科学習を通して「考える力」を養うのが一般的な方法だが、私はそれ以外に「考え方」を学ぶ教材を作りたいと思っている。
従って「考える」についても私なりの定義を確立したいと、ずっと模索しているのである。

イメージすること、図化すること、計画すること、推理すること、仮定&検証、抽象化&具体化、特殊化&一般化.....どれも「考える」ことと言えるが、その一面でしかない。

今のところ私の中では、「考える」とは「ものごとを分析して関連づけ、まとめたり分類したりして整理すること」であるという意識が強い。
新しい知識や情報を得たら、自分が今持っているそれらとどう関係するのか、しないのか判断する。
これはあれと同じこと、これとこれは逆のこと、これがあれの原因などと頭の中を整理することこそ、「考える」ということなのではないか。
その過程で、イメージしたり仮定したり抽象化したりという作業が必要になるのだと思う。

もう一つ、先日絵本作家の五味太郎氏が「考える」を一言で表している言葉に出会った。→編集長の直球コラム
いわく「それはよく見るってことだな。それもいろんな角度から見る」
分析する段階の「考える」として、ぜひこれも採用したい。

もちろんこれだけで「考える」を定義することは無謀であろう。
これは一つのたたき台である。
ぜひみなさんの考える「考える」をお聞きしたいと思っている。

ご意見をお待ちしています!


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教えない「教育」

2005年11月28日 | 学習一般
「教育」とは「教え育てる」ことである。
それを「教えない」とはどういうことか?
「教えない」塾なんて存在できるのか?
今回はそんな話である。

今日の信濃毎日新聞教育欄に、数学者の秋山仁氏の寄稿が載っていた。
「教えすぎる日本」というタイトル。
副題として「効率優先より試行錯誤を」とある。

秋山氏の教育論には共感する部分が多い。
特に「教えない」こと、試行錯誤を重んじることについての主張には全く同感である。
私のブログの記事の根底に共通してあるのは、効率優先より手間暇かけてじっくり勉強し、ゆったり生活することを良しとする考え方なのだから.....。

氏は記事の中で、元横浜ベイスターズ監督の権藤博氏が大リーグにコーチ修行に行ったときのことに触れている。
右方向に打つ練習を課された新人選手が一向にうまくできないので、権藤氏が見かねてコツを教えたら簡単にできるようになった。
ところが、それを知ったアメリカのコーチに怒られたというのである。

「教わったことはすぐに忘れるんだよ。彼は何となくできているだけなんだ。調子が悪くなったら行き詰まる。だけど、自分で試行錯誤してコツをつかめば、技術は彼のものになる。」
これを聞いて権藤氏はハッとしたそうだ。

秋山氏は日本の今の教育を、権藤氏の「コツの伝授」と同じだと批判している。
「生徒たちが自分で取り組んで自分で何かをつかむまで待っているのはジレッたいと、大人がおぜん立てし、「こうすればいいんだ」と教え込み、あとはテスト。」
「日本の学校では〝なぜ、そうなのか〟〝他に方法はないのか〟をあまり考えさせていない気がする。」


多くの学校や塾がこのパターンに陥っているのではないだろうか。
たくさん教えてあげるのがいいこと、時間をかけさせないで速く処理できるようにすることが善だと信じて実践している。
解き方のコツや便利な「公式」などを教えることが親切だと思っている。
そんな教師、講師が多いのではないか。

そういう教育を受け続けていると、やがて子どもの側もその方が楽だと考えるようになる。
自分で苦労してあれこれ考えるより、大人に楽なやり方を速く教えてもらいたい。
以前にも書いたが、考えるのを面倒がり、すぐに解法を知りたがる子が増えている気がする。
親も「たくさん教えてくれる先生」や「手取り足取り指導してくれる塾」を求める傾向が強いようだ。

実は教える方にとっても、はじめから丁寧に一つ一つ教え込んでしまった方が楽なのである。
秋山氏の指摘のように、子どもに試行錯誤させるには十分な時間、待ってやれる姿勢が必要だ。
その過程で正しい考え方に至る道からそれてしまった子を、もとの道に戻すにもその子に応じた対応が必要で手間がかかる。
だったら最初からすべて与えてしまった方が手っ取り早い。
そう考える教育者が圧倒的に多いのが現状であろう。

だが私は非効率でも泥臭くても、教えない教育を追究したい。
この子にはどういう課題を与えれば自分で道を切り開いて行けるか、一人ひとりに応じて考えていきたい。

そのためには、それを実現できる教材が欠かせない。
市販の教材も利用しているが、なかなかこれといったものがないので自作教材で補っている部分も多い。
体系化はまだできていないが.....。

全く説明がなければ講師に聞かなければ試行錯誤さえできないし、かと言って説明を詳しくしすぎれば、自習はできるかも知れないが「なぜ?」「他の方法は?」を考える機会は大きく奪われる。
その兼ね合いが難しい。
万人向けのものなどできないのかも知れない。
私自身も試行錯誤の森の中を歩き回っている最中である。


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スポーツ信仰

2005年11月21日 | 学習一般
前回、小学生がプロテインを飲んでまで強くなろうとするスポーツ指導のあり方に疑問を投げかけました。今日はその続きです。

「スポーツ」の語源を調べてみると、もともとは「気晴らし」「楽しみ」など、日常生活からちょっと離れて息抜きすることを指していたようです。
従ってハイキングはもちろん、カードで遊ぶこと、食事会をすること、果ては女性を口説くことまで「スポーツ」だったとのこと。

今国語辞典を引いてみたら、「スポーツ」は「余暇活動・競技・体力づくりのために行う身体運動。陸上競技・水泳・各種球技・スキー・スケート・登山などの総称。」とありました。
多少狭い意味になったとは言え、現在でも「スポーツ」という言葉自体は原義のニュアンスを保っています。

ところが、なぜか日本では「競技」の部分のみが必要以上にクローズアップされています。
日本人ほどオリンピックが好きな国民は珍しいと聞くし、さらにメダルの数にまで一喜一憂する。
お年寄りの親睦、健康のためのゲートボールでさえ、勝敗を巡って殺人事件まで起きるお国柄です。

特に青少年に関して、スポーツを楽しむことより強くなること、勝つことに重きが置かれている状況は憂うべきことだと考えています。
もともと彼らにスポーツを奨励した目的からして、不良化を防止するためや思春期のモヤモヤを「健康的に」解消させるため、あるいはチームワークを大切にする人間を作るためという「不純な」ものも含まれるのですが、今はそこには触れません。
(ここに踏み込むと、競うことや根性論が好きで和を重視する国民性を巧みに利用しようとする国家の思惑まで読みとれて、話が怖ろしい方向に進むので.....)

それにしても、部活から地域クラブまで、なぜあんなに子どものスポーツ指導に「熱心な」(←もちろん皮肉です)大人が多いのか.....。
みんなが一流選手を目指しているかのように、量的にも質的にもハードな練習が課されることが少なくありません。
高校生ともなれば、朝練から始まって放課後も7時、8時まで練習し、家では暇さえあれば寝ているという子がいかに多いか.....。
授業中さえ疲れでボーッとしていては、本来の責務である勉強がわかるわけがありません。

どうも「勉強よりスポーツ」という価値観が、大した根拠もなく世の中に蔓延している気がします。
真面目に勉強することが悪であるかのようなムードはいったいいつ頃から生まれてきたのでしょう?
二宮金次郎の銅像がなくなって行くのと並行して、寸暇を惜しんで勉学に励むことが「ダサく」なってきたのかも知れません。
学校でモテる男子は学年一番の秀才よりもサッカー部のキャプテン。
「ガリ勉」という言葉には馬鹿にするニュアンスが含まれているし、テスト前には「全然勉強してない」とうそぶくのが仲間外れにされない知恵だったりします。
そして企業でも、理屈をこねる文化系より、素直で「根性」のある体育会系の学生を好んで採用するところも未だにあるようです。

親も、「うちの子は全然勉強しない」「成績が上がらない」と言いながら、スポーツでがんばっているのだから仕方ないという思いがどこかにあるようです。
特に父親にその傾向が強いのではないでしょうか。
勉強ができるよりたくましく育ってほしいという思いが.....。
親に少しでもそういう思いがあれば、子どもは面倒な勉強から逃げてスポーツに打ち込みます。
少々練習がきつくても、勉強よりは楽しいので平気です。
かくして、本格的に勉強もしないまま、すなわち勉強の楽しさに触れもせず、「頭を使うより体を使う方が向いている」などと安易な自己診断を下す子が出てくるのです。
10年早い!と言いたいところですが、大人も結構すんなりと受け入れたりするのが驚きです。

健康が第一なのはもちろんです。
そのためにスポーツをやるのは大賛成!
でも、上にも書いたように、今の青少年スポーツは明らかにやりすぎです。
楽しむため、気晴らしのため、健康のための範囲を超えています。
健康の次に考えるべきは、勝つことや強くなることよりも、広い意味で学力をつけることではないでしょうか。
少なくとも学校の部活はそうあるべきだと思います。
部活で疲れて勉強ができないというのは、どう考えても本末転倒です。
部活は「楽しみ」「健康」の範囲でとどめるべきです。
その上で、やっぱりスポーツが向いている人、そしてもちろんその才能がずば抜けている人は、学校外の地域クラブなどで練習を積むという形が一番だと思います。

中3で、1・2年の範囲にあやしいところが山積みの子については、正直「部活なんかやってる場合じゃないだろ」という思いが強くあります。
でも親は「悔いの残らないように最後までやらせたい」と、疲れて休みが多くても、塾に来て寝ていても容認している.....。
では勉強には悔いを残してもいいのでしょうか?
スポーツや部活は無条件に是とする根強い信仰、もう一度考え直してみませんか?


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算数に電卓をつかうこと

2005年11月06日 | 学習一般
今の小学校算数の教科書には、問題番号の横に電卓マークが付いているものがあり、ここでは電卓の使用が認められ、と言うより使用することが義務づけられています。
非常に大きな数の概数を見積もりの学習をし、その確かめのために実際の計算は電卓でするわけです。

それ以外にも教師の裁量で「ここは電卓使用可」とされることもあるようですが、算数に電卓を使うことに関しては、誤解も含め圧倒的に反対意見が多いようです。→小学生の算数に電卓?

電卓を使うと言っても、それ以降すべての計算に使用するわけではないですよね。
基本となる計算方法は四則すべてについて、小数や分数も含めて手書きで十分に練習するはずです。

だったら大人でもうんざりする複雑な計算は、電卓を使っても一向に差し支えないのではないでしょうか?

円周率=3で計算する」ことについても、マスコミの過剰な反応によって「とんでもない」という声が支配的になっていますが、「3である」と断言しているわけではなく、本当は3.1415.....ことも教えています。
その上で面積を出すときなど、計算に使うときは3と考えていいと言っているだけです。

中学に入ればπを使って簡単に計算できるのに、小学校でわざわざ面倒な計算をするのは大いなる無駄だと以前から思っていました。
だいたい、もともと円周率は無限なのですから、どこで切ったって不正確なわけです。
では3.14で切る理由は何でしょう?3だとなぜいけないのでしょう?
面積の出し方を考えることが目的なのですから、計算で余計な労力を使わせる必要は全くありません。

どうも、小学校ではひたすら計算力をつければいいと考えている大人が多いようですね。
反復練習を重ね、億や兆でも小数でも、とにかく桁数の多い同士の四則計算を筆算でできるようにする。
そのことが中学から数学を学ぶ上での土台になるという考え方です。

本当にそうでしょうか?
計算力は単なる技術です。
技術だけをいくら伝授しても、習ったことから先のことは自力ではできません。
なぜそうなるのか原理を理解し、考える力を育てる必要があります。


3桁×2桁は習わなくても、2桁×2桁の筆算の原理がわかっていれば応用が利くはずです。
3桁×2桁まで学習させないと基礎学力が.....という発言は、子どもの考える力を過小評価していることから生まれるものだと思います。

結合法則や分配法則を使った「工夫して計算する」箇所も、機械的にやり方だけ覚えて解いている子が少なくありません。
「工夫」などどこにも見られない.....。
一方、意味を本当に理解している子は、教わったこと以外にも自分で工夫して計算を楽にしているものです。

小学校での計算練習は、たし算・ひき算なら3桁同士、かけ算は2桁×2桁、わり算は3桁÷2桁までで十分ではないでしょうか。
小数の計算も基礎だけわかればOKです。
中学以降はめったに使わない小数を、なぜあそこまでしつこく練習するのでしょう?

むしろ分数計算の比重をもっと高めてほしいくらいです。

大きな数や小数の複雑な計算は電卓に任せ、浮いた時間で分数や割合、「単位あたり」の考え方、図形などをさらに深める.....。
それこそが中学以降の数学的な思考力に繋がる王道だと強く思います。


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「1週間は7日です。」

2005年10月27日 | 学習一般
いきなりですが、この記事のタイトルの文を英語にしてみてください。

そんなのカンタ~ン!..... A week is seven days.でしょ?.....ブーッ、残念!
.....正解は A week has seven days.です。

この問題、ほとんどの中学生ができません。
「です」を見ると自動的にbe動詞を使いたくなるようです。
単純に「1週間は です 7日」の順に並べて英語にすればいいと考えるんですね。
では、A week is ~だと何が問題なのか、検討してみましょう。

ほとんどの教材にbe動詞は「=」の意味だと書かれています。
a week と seven days は果たしてイコールでしょうか?
一瞬その通りと答えたくなりますが、よく考えると違うような.....。
たとえば日曜日ばかり7日間集めても seven days ですが、これを1週間とは言いませんよね。

ん?でもこれだと「7日は1週間です。」がおかしいことの説明にしかなってないか.....。
1週間は必ず7日間ですもんね.....。

seven days を主語にすると Seven days are ~になります。
さっきは is だったのに.....。
そもそも単数と複数をbe動詞「=」で結ぶことに文法的な無理があるということかな?
そうすると Two weeks are fourteen days. ならOKなんでしょうか.....?


などといろいろ考えていたら、疑問が湧いてきました。
be動詞って本当に「=」なんでしょうか?
当たり前のようにそう言われていますが、どうも納得できません。

数学で使う「=」を厳密に解釈すれば、左辺と右辺を入れ替えても式は成り立つはずです。
I am Kiri. は Kiri is me. とも言えますが、He is a doctor. は逆にしたらおかしいですよね。
be動詞の後に happy や from China が来る場合は文自体が成立しません。

日本語で考えてもそうです。
「私は医者です。」と「医者は私です。」は違う意味です。
「○○は××です。」というとき、決して○○=××ではないですよね。
なのになぜ、英語ではbe動詞を「イコール」と定義したがるのでしょう。

「イコール」の場合もあるでしょうが、むしろそうでない場合の方が多いと思います。
勤務時間中はShe is a teacher. でも、家に帰れば She is a mother. だったり、またある時は She is a volleyball player. だったりするわけです。
She is happy. の日もあれば、She is sad. の夜もあるでしょう。
すなわち、be動詞で表現しているのは、ある時・ある場面での主語の一面でしかないと思うのです。
これを「イコール」と言ってしまうのは少々乱暴な気がします。

「イコール」と言うより、「存在している」という意味を主に考えてはどうでしょう?
ある時は教師として存在し、ある場面では母親として存在している。
嬉しい状態で存在している日もあれば、悲しい状態の存在のときもある。
「イコール」のような矛盾は出てきません。

ただ、事物が主語になって真理を表すときには「イコール」の方がふさわしい場合もありますね。
Twice two is four.(2×2=4)は twice two の一面を表しているわけではなく、four以外になりようがありません。

要は、be動詞はみな「イコール」という短絡的な解釈は危険ではないかと言いたいだけです。
もっとも、どう解釈しても A week is seven days. が誤りである説明には説得力がたりません。
これってやはり意味的な理由ではなく、上記のような文法上の理由ですか?
どなたか教えてください!


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発音より大切なこと

2005年10月19日 | 学習一般
小学校から英語が必修になることについて、前回の続きです。

小学校での英語は「英語に親しむ」ことが目標だそうです。
歌を歌ったり、ゲームをしたりするわけですね。
そんなチイチイパッパを何年もやって、精々あいさつくらいができるようになって.....だから何だと言うんでしょう?
その程度のことなら中1で英語に初めて触れた子でも、2学期には追いつけます!

そもそも、語学教育において、早期から始めた方が効果が高いという明確なデータはないそうです。
発音は多少よくなるかも知れませんが、ネイティブのごとく流暢にしゃべることがそんなに重要ですか?

今世界を舞台に働いている人(日本人に限らず)の英語だって、ひどい発音のものも少なからずあります。
でも彼らは自信を持って話している。
そして何より訴えたい意見があり、伝えたい思いがある。
だから通じるのです!
綺麗な発音だからコミュニケーションが取れるのではありません。

どうも今の日本人の英語学習はそのあたりを勘違いしている人が多いような気がします。
小学校から、あるいは幼児から英語を学べば発音が良くなり、会話もスラスラできるようになる....それも怪しいですが、百歩譲ってその通りになるとしましょう。
でもそれだけです。
それだけのために、ただでさえ少ない小学校の授業時間を奪うのですか?

極論を言えば、日本で普通に生活している限り、英会話ができなくて困ることはありません。
本にしても映画、ネットにしても日本語に翻訳されているものは多いし、どうしても困ればできる人に頼めばいいことです。
仕事上、日常的に英語が必要な人はほんの一握り....。
残りの大多数の人にとって、英会話が少しでも役立つのは精々海外旅行に行ったときくらいです。
そんな程度のことに小学校からの長い時間を費やす必要性が、私には全く理解できないのです。

外国語教育の目標とは何でしょう。
ただ話せるようにすることですか?気のきいたジョークを言えるようにすることですか?
私は、言語そのものも含めて異文化を知り、外国人との相互理解を深めることだと思います。
あいさつや通りいっぺんの会話で薄っぺらな交遊をすることではなく、中身のある話を通して互いの文化を認め合うことです。

そのために、特に高校生くらいまでは、ネイティブ並の発音や会話の上達を目指すより他にやるべきことがあるのではないでしょうか。
一つは前の記事にも書いたとおり、大量の英文を読み、聴き、日本語を介さずに理解できるようにすること。
二つ目は、あたりまえのことですが国語力をつけること。
そして三つ目は歴史、地理、政経、科学(数学含む)などの他教科を、特に自分の国についてきちんと学ぶことです。


あいさつはできても少し専門的な話になるとお手上げの人は、英語力よりも国語力や一般教養が貧弱であることが少なくありません。
たぶん日本語でも、これを訴えたい、これは絶対伝えなければというほどの、整理された意見は持っていないのではないでしょうか。

綺麗な発音で英会話だけできても、ほとんど役には立ちません。
外国人と他愛ない話を交わして、それで「グローバル・コミュニケーション」などと言ってもらっては困ります。
趣味の一つとしてなら大いに結構ですが、それと「英語ができる」とは全く別のことです。
一見華やかな英会話を追い求めるよりも、まずは地道なインプット作業に励むことが真に「できる」ことへ通ずる道なのです。

そして国語力を高め、教養を深め、世界を知ることです。
英語ができるから世界を相手に仕事ができるのではありません。
世界を舞台に功を成している人物は、日本語で日本人相手に主張を訴えても、十分成功する可能性がある人です。
英語さえできたら留学も外資系への就職も楽になるなどと考えるのは、とんでもない幻想です。
英語はあくまでも道具にすぎないということを忘れてはならないと思います。


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使える英語?

2005年10月17日 | 学習一般
下記の報道を知って英語について書いていたら、ずいぶん長くなってしまったので2回に分けます。
今回は会話重視の英語教育への意見です。



早ければ2年後から、小学校での英語指導が義務化されるそうです。
文科省がそれに向けて具体的な検討を始めたというニュースを聞きました。
「総合的な学習の時間」を削って英語に充てるようです。

周知のように、今の日本の学校教育には問題が山積しています。
学力低下、他国に比べた読解力や応用力の不足、そして最も大きな問題と思われる子どもたちの学習意欲の減退....。

それらの問題を等閑にして、世の中の英会話ブームに迎合するかのような方針を打ち出す文科省に、将来への確たるヴィジョンがあるとは到底思えません。
「何となく」英語ができた方がいい、くらいのことでしょう....。

いつの頃からか、日本人は何年も英語を勉強しているのにまともに会話さえできないという批判を多く耳にするようになりました。
文法にこだわるより「使える英語」を教えることを求める声が高まってきたのです。
どうも文科省は、あまりにも短絡的にそれに応える方向で動き出しているような気がします。

中学の教科書は改訂のたびに絵が多くカラフルになり、昔の面影はありません。
短いやり取りの会話文が多く、ストーリーを楽しむような長文はすっかり少なくなりました。
全体的に、ぶつ切り的な内容ばかりで体系化できていないように思います。
空港での会話、レストランでの会話など、場面別にお決まりのフレーズを並べているだけの「お手軽トラベル英会話」の本とたいして変わりません。しかもネイティブが「そんな言い方しない」と言う不可思議な英語もずいぶんあるようです。

そんな会話のパターンをいくら覚えても英語ができるようになるとは思えません。
相手がお手本と違う言い方をしてきたら、そこで終わりです。
だいたい、日常会話の、母国語であれば幼児でも話せるような内容をたくさん覚えることにどんな価値があるのでしょう?
あいさつに毛が生えた程度で、ちょっと突っ込んだ話になるともうわからない....。
それでは、お題目のように使われる「グローバル・コミュニケーション」など実現できるわけがありません!

いわゆる「学校英語」が役に立たないからと言って、「実践的」な会話を増やしても所詮その程度です。
母国語と違い、自然に目や耳に入ってくる量が圧倒的に少ないので、当然の成り行きでしょう。

「学校英語」から脱却して一歩上を目指すには、まずはインプット量を増やすことです。
お手軽会話にかける時間があれば、それを読む(黙読&音読)練習、聴く練習にあてましょう。
ただし、高校の文法のように少量の難しい文を重箱の隅をつつくように分析するのではなく、やさしいレベルのものを楽しみながらたくさんこなすことです。

英語を英語のまま理解できるという経験を多く積むことで、日本語から英語へのモードへの切り替えがスムースにできるようになります。
会話はそれからでも十分。
極端に言えば、話し言葉の代わりに書き言葉を使っても、少々ぎこちなくても言いたいことは伝わります。
だから今度は丸暗記しなくても、必要な会話表現だけを余裕を持って学べばいいのです。

中学生、高校生の皆さん、教科書の英語は会話の部分も含めて「学校英語」だと割り切りましょう。
まちがってもあれだけで英語ができるようになる、ペラペラ話せるようになるなどとは思わないこと。
本当に英語に強くなりたい人は、絵本から始めてとにかく英文をたくさん読んでください。
CDやテレビ、ラジオなどで英語をたくさん聴いてください。

英会話教室に通うより、あとで効果が実感できますよ。


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ニーズを作り出す

2005年10月10日 | 学習一般
内閣府がネットを通じて、小学校から高校までの子どもを持つ親に、学校制度に関するアンケート調査を実施したそうです。
それによると、学力向上面で学校より「学習塾・予備校の方が優れている」と答えた人が7割に上ったということです。

学校の先生が予備校の講師から授業の仕方を教わるという現象も起きている中、これはそんなに驚くべき結果とは言えないでしょう。
他の方のブログを見ても、みなさん冷静に....というより冷ややかな目で捉えていらっしゃるようです。

よく言われるように、学校に比べると塾や予備校の方が目標がはっきりしている、合目的性が高いのは間違いありません。
学校教育(特に義務教育)の目的には、頭だけでなく心や体の面を育てることも含まれますが、塾や予備校は成績を上げる、志望校に合格させることだけが使命です。
保護者のニーズがはっきりしていて、それにきちんと応えていると言っていいでしょう。
ニーズに合わない所には通わせないし、効果が出なければ別の塾などに乗り換えることも簡単です。
満足度が高いのは当然ですよね。

だからと言って学校も保護者のニーズに合わせろと言いたいのではありません。
すぐに効果が現れる、目に見えやすい学力だけでなく、将来自分から自分の力で学んで行ける力、人生を切り拓いていける力をじっくり育てるのは、本来学校の役目です。
営利を求めない公教育でこそ、そういうスローな教育が可能なはずなのです。

ところが少子化が進み、いまや学校も選ばれる時代だそうです。
学習塾のように目に見える「学力」を向上させる学校が「よい」学校ということになり、すぐに点数に現れやすい反復型、丸暗記型の指導がもてはやされています。
学校の学習塾化、予備校化がどんどん進んでいるのではないでしょうか....。

一方で私の塾のような、成績やテストの点を上げることを第一目的としない中小塾も各地で生まれています。
テスト対策に走るより、読む力、考える力、書く力などを時間をかけて育てたい。
遠回りでもその方が真の実力がつき、結果的にはテストや入試でも高い成果を上げることができると考えているのです。 
塾の学校化というより、学校教育の優れた面の一部を特化した教育と考えてもらえると嬉しいですね。

覚えることが勉強だと思っている子は、初めはじっくり考えること、試行錯誤することを面倒がります。
すぐに解き方や答を知りたがります。
筋道の通った文章を書くのも苦手な子が多い。
でも、そういう学習を根気強く続けているうちに変わってきます。
人に言われていやいや勉強するのではなく、学ぶことの楽しさに目覚めてくるのです。
そうなれば放っておいても自分でどんどん成長していきます。
自分で考え、自分で解決し、人生を楽しむことができるはずです。

私が目指しているのはそんな塾です。
世の中の多くの人が「塾」に対して持っているイメージとは全く違うと思います。
冒頭のアンケートでもそうだと思いますが、「塾」と言えばやはりテストや入試対策という固定化したイメージを持つ人が多いでしょう。

だから、塾に対する多くの親のニーズも今のところその域を出ないと思います。
高い月謝を払って塾に通わせる目的は点数のアップ。
期待したとおり上がらなければ、また別の塾か家庭教師....。

そういったニーズに合わせた方が生徒は増えるでしょう。
私も以前にはテストや入試をターゲットにした募集もしたことがあります。
でも、もうニーズに合わせるのはやめにしました。
自分の信念を信じて、潜在的なニーズを掘り起こす、あるいは新たなニーズを作り出すことにしました。

物を売る商売でも、客の嗜好に合わせて商品を揃える販売方法だけでなく、提案型ショップとかこだわりの店というのがあります。
そういう、経営者のコンセプトを前面に打ち出した訴えをかけをしていきたいのです。
ニーズを作ると言っても、通販によくあるような「あれば便利」商品とは違います。
ウチの主力商品は、なくてはならない本質的なものばかりです。

幸いなことに、私の考えに共感して子どもを通わせてくれる保護者も少しずつ増えてきました。
とても大きな勇気をもらっています。

因みに、自分の塾を「学習塾」と謳うと一般的なイメージで捉えられて誤解を招くので、今のところ極力「私塾」ということばを使っていますが、本当は「塾」も使いたくないのです。
「子どもに考える力をつけさせたい」という新たなニーズを発掘する教室として、Swimming school に対抗して Thinking school とでも名乗ろうかと思っています。
何年後か何十年後かに時代が追いつき、「ニーズに応える」教室になっていることを夢見て....。


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a=a+1

2005年09月28日 | 学習一般
a=a+1....数学ではこんなことあり得ないですね。
でもプログラミングの世界ではしょっちゅう出てくる式です。

数学の「=」は言うまでもなく左辺と右辺が「等しい」ことを表します。
両側に△ABCのように図形があれば面積が等しいということになりますね。
ところがプログラミングにおける「=」は右辺を左辺に「代入する」ことを示しているのです。

次のようなプログラムで考えてみましょう。
わかりやすいように専門用語は使わず、普通の文で表します。
やっていることは単純なことなので、苦手な方もがんばって読んでみてください。

① aに適当な整数を代入する。
② a=7なら⑧へ進む。
③ a<7なら④へ、a>7なら⑥へ進む。
④ a=a+1(aに1を加えてそれを新たなaとする)
⑤ ②へ戻る。
⑥ a=a-1(aから1を引いてそれを新たなaとする)
⑦ ②へ戻る
⑧ aを画面に表示する。


このプログラムを実行すると①で代入した数が7なら②から一挙に⑧へ行って、「7」と表示しておしまい。
7未満なら②から⑤の間を何回も繰り返し、aが7になった段階で⑧に飛んで終わりになります。
同様に、最初の数が7より大きかった場合は②③⑥⑦を繰り返し、aが7になったら⑧へ行く。
つまり、初めに打ち込んだ整数がいくつであろうと、画面には「7」と表示されることになります。

おわかりいただけましたか?
プログラミングの第一歩は、このような条件分岐の考え方です。
少し勉強すれば小学生でも十分理解できるはずです。

私は論理的思考力を育てるために、プログラミングの練習は最適だと思っています。
自分がコンピュータにさせたいことをどう命令するか。
何をどう判断させたら思い通り動いてくれるのか。
まず全体の流れを考え、それをプログラミング言語に直していきます。

少し複雑なことをさせようとすると、初めのうちはうまく動いてくれないことがほとんどです。
でもそこがまた思考力を鍛えるチャンス!
構成(流れ)自体に無理がある場合もあるし、単なるスペルミスのときも....。

人間相手なら、少しくらい言い方がおかしくても言葉が足りなくても、相手がこちらの伝えたいことを察してくれるので不都合はありません。
よくわからなければ質問もしてくれるでしょう。

ところがコンピュータはそうはいきません。
1文字間違えただけでも絶対動いてくれません。
前後関係から「これはちょっとミスしただけだな」と類推してくれることは期待できないのです。

だからこそ、試行錯誤を重ね、ミスを修正し、思い通りに動いてくれたときのうれしさは格別です。
融通の利かない、だけど高速かつ正確に仕事をしてくれるコンピュータをどう動かすか。
プログラミングの過程では様々な「学習力」が養成されます。
「考え方の練習」教材にもぜひ簡単なプログラミングを採り入れたいと思っています。

ついでに、これやっているとセンター試験でも有利ですよ。


p.s.タイトルの「a=a+1」を見ていたらこんな連想が....。何かに行き詰まったらどこかまで戻ればいいんですね。戻ったときにはそれまでの経験の分だけ大きくなっている、つまりaだったのがa+1になっているはずです。それでも目標に届かなかったらまた+1して戻ればいい。そうすればいつか目標に到達する。....そんなこと考えました。蛇足ながら....。


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器用貧乏

2005年09月24日 | 学習一般
このブログのタイトルには「ことば」が入っていますが、私は決して国語教育の専門家ではありません。
数学や英語が特に得意なわけでもありません。
教員免許は「社会」を持っていますが、世界史や倫社に関してはメタメタです。

一言で言えば総合力はあるけど、突出した教科がない....。
このことはずっと抱えているコンプレックスの一つです。

「器用貧乏」という言葉がありますね。
広辞苑には「なまじ器用なために、あれこれ気が多く、また都合よく使われて大成しないこと。また、その人。」とあります。

私はモロにこれに当てはまるような気がします。
何でも一通りのことはできるけれど、どれも一流にはなれない。
趣味の世界でもそうです。
競技かるた、写真、切り絵、釣り、今はまっている投扇興....。
もちろん段を持っているものもあるし、一般の人と比べたら大違いですが、
これだけは人に負けない!と言いきれるものがないんですよね....。

何をやらせてもソツがない、いわゆるオールラウンドな人間は、使い勝手はいいけど「便利」なだけで終わってしまう。
「何でもできる」は「何もできない」と同じではないか....。
それより、全く役に立たない分野もあるけど、「これはあいつでなければできない」という職人的な得意分野を持っている人間になりたいと思ってきたのです。

オールラウンドなのも個性の一つではあるでしょう。
でもたとえば野球でも、ただすべてが人並みにできるというレベルでは、なかなか一軍には定着できませんよね。
求められるのは「3割・30本・30盗塁」のようなすべてに卓越した選手です。
そうでなければ、むしろ「守備は一流」「足はとにかく速い」という一芸に秀でた選手の方が、すべてに平均的な選手より長く活躍できるはずです。

まあ自分のことに関しては、今さらどうしようもない部分もあるので、そういう面を自覚しながら成長し続けるしかありません。
ただ、これから大人になる塾の生徒たちには一人の先輩として、とことんこだわる得意分野を見つけてほしいと強く願っています。

どの教科もバランスよくという親の思いもよくわかります。
中学レベルまでは、確かにある程度の学力は平均的に身につける方がいいでしょう。
ただ、よく言われる「得意教科を伸ばし、苦手科目を克服する」が実践できれば理想的ですが、時間的になかなか難しいのも事実です。

だとすれば、塾では原則的にその子の得意科目を伸ばすことをメインにした方がいいのでは....と考えています。
学校ではすべての教科をバランスよく学習しているのですから。
もちろん、ある教科が極端にできていない場合は話が別ですよ。

という思いの一方で、つまらない、苦手だと思ってきた教科の魅力に気づかせること、潜在能力を引き出すことが塾の役目だという考えも....。
ドイツのように早くから将来の道を決めすぎてしまうのもどうかと思うし....。

高校によって、進路を文系、理系に決めなければいけない時期もずいぶん違うようです。
大学でも一般教養の比重は格差が大きいですね。

みなさん、どう思われますか?
「広く」と「深く」、両方できれば一番いいのはわかっていますが....。


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証明に強くなる

2005年09月17日 | 学習一般
2002年の学習指導要領改訂以来、中学校の各教科の教科書は、ご承知の通りさらに薄くなりました。
数学の図形では、それまで高校入試の証明問題の花形であった接弦定理や「円に内接する四角形」の定理がスッポリと消え去りました。

それ以来、証明問題に関しては、出題する方もかなり苦労しているのがわかります。
高校入試のレベルに耐え得るような問題を作ろうにも、「円」関係で使える定理は円周角、中心角に関するものだけで、せいぜいそれに平行線の同位角、錯角や三平方の定理を絡めるくらいしかできません。
当然の結果として、今の証明問題は入試でも定期テストでも、以前より数段易しくなっていると言えます。

簡単でしかも配点が高いのですから、これを見逃す手はありませんが、生徒は驚くほどに証明が苦手です。
サービス問題と思える初歩の証明でも、全くの白紙か、1行目からおかしな答案のオン・パレード....。
証明は初めから捨てている子も多く、もったいない限りです。

ひとり一人に確認してみると、証明のルールがわかっていないだけという軽傷の子もいますが、大半はそもそも証明って何なのか、何のために証明するのか、その意義と目的からよくわかっていないようです。

証明は民主主義の前提という言葉を聞いたことがあります。
ボスが言ったことに対して誰もが「その通り」と従う社会には証明は必要ありません。
「なぜだ?」と問いかけ、納得行く答が得られるまで質問を繰り返す。
一言で説得できる(証明終わり)場合もあるし、質問と説明が延々と続く場合もある。
説得できなければ(証明失敗)ボスの負け....。
これが民主主義の原点だという話でした。

確かにそうですね。絶対主義なら証明はいりません....。
ということは、民主主義を守るためにも証明に強い子を育てなければ....。

考えてみれば、中学生でも日々の暮らしの中で、今までにたくさんの証明問題を解いているはずです。
何も「仮定」や「結論」「定義」「定理」などの用語から入らなくても、いきなり三角形の合同から始めなくても、証明の考え方自体をわからせることは可能です。

たとえばケーキを食べた犯人を捜すには証拠が必要です。
状況証拠でも説得の技術があれば証明できるでしょう。

定番の三段論法は証明そのものだし、算数や数学の計算だってそういう部分はあります。
三角形の底辺が10,高さが6のときは「三角形の面積=底辺×高さ÷2」という定理を使って30という面積を出しますね。
a=4,b=2のときab=8になることを証明するには、「abはa×bのことである」と「4×2は8である」という2つの定理を使えばいいわけです。

そう考えると、パズルやクイズまで含めて、いろいろな題材が証明の導入に使えそうです。
証明は論理的思考力や正確な文章表現力をつけるためにも理想的!
さっそく証明入門の独自教材を作ってみることにします。
最終的に開発したいと思っている「考え方の練習」教材にも流用できそうなので楽しみです。


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和算に触れてみる

2005年09月13日 | 学習一般
関孝和で有名な和算、以前から興味があったのですが、偶然面白そうな本を見つけました。→「和算で遊ぼう!~江戸時代の庶民の娯楽」

おなじみの「鶴亀算」から始まって、「ねずみ算」「百五減算」「油分け問題」など、思わず解いてみたくなる問題が並んでいます。
各章の終わりには原文での出題もあり、昔の単位についての詳しい説明もあって楽しめます。

当時の和算の本は巻末に、解き方や答の載っていない読者への挑戦問題があり、多くの人がそれを解こうと挑んだようです。
みごと解けたらその解法を記した本を出し、新たな難問を載せる。
そんな風にして200年くらい、「数学がブームになった時代」が続いたというのですから驚きです。
副題にあるように和算が「庶民の娯楽」になっていたなんて、ちょっとワクワクしませんか...?

難問が解けたときはまた、「算額」に問題と解法を書いて神社に奉納したということで、多くの算額が各地に残されています。
現在著者が中心になって、小中高生を対象に現代の算額を募集しているのですが、これはなかなか面白そう...。
自分で難問を作るところから始まるので大変ですが、掲載されていた作品例には思わずうなってしまいました。

さて、そのような難問は別として、小中学生でも挑戦できる和算の問題を一つ、前掲書の中からご紹介しておきます。
本の中では「石」や「升」といった単位になっていますが、ここではわかりやすいようにtやkgを使います。
算数でも解けるし、方程式の応用問題として、ワンパターンの問題に飽きた中学生にも使えますよ。


問)3tの米を江戸から大坂まで舟で運びます。運び賃は現物払いで、運ぶ米100kgにつき5kgの米です。運び賃は前払いなので、その分は舟に乗せません。3tの中から運び賃も払うことにすると、どれだけの米を大坂まで届けることができるでしょう?


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考え抜く体験

2005年08月26日 | 学習一般
学校で習ったことを使う問題だと多少難しくても解いてしまうのに、初めて目にするタイプの問題に接すると途端に「わかりませーん」を連発する子がいます。
考え方を説明すればするほどパニックになり「わからない」の繰り返し...。

中学では連立方程式で解く文章題を代数を使わずに考えるので、「仮定」の概念が小学生には難しいのかも知れません。
そのうち、例題の解き方だけをそっくりまねて、数値だけを置き換えて正解を出してきました。
意味をわかって解いているわけではないので、当然条件が少しでも変わると間違えます。
それでも足し算の部分を引き算に変えたりしてなんとか答を導き出しました。

でもね...できればいいというものではないのです。
と言うか、この問題、できるかどうかより考える過程の方が大切なのです。
本人にもそう話しましたが、今一納得していないようでした。
たぶん、彼女にとっては「できる」ことが最も価値のあることなのだと思います。

難しい問題を前にし、こうでもないああでもないとひたすら考える。
何日も考えて考えて、考え抜いて、ある日突然解き方がひらめく。
アルキメデスの例を出すまでもなく、立派な業績を残した人のエピソードにはそういう話が多いですね。
そこまで行かなくても、勉強でも仕事でも、似たような経験がある人は大勢いると思います。
私は特に図形問題にその類が多いですね...。

そういう考え抜く体験を、私は小学生のうちからもっと積んでほしいと思うのです。
習っていないから教えてもらう、少し考えてわからないとすぐ訊く...ではなく、自分の考え方を信じて、粘って粘って考えてほしい...。
それでもできなかったらそれでもいいんです。
初めから解き方を教えてもらって正解を出すよりずっと大切なものを、苦しんで考えている間に身につけているはずです。

別に勉強に限らず、クイズでもパズルでもなんでもいいから、とにかく考え抜く練習をしてほしい...。
テレビゲームやるのもいいけど、どうせなら「攻略本」に頼らず、できるだけ自力で試行錯誤してほしいものだと思っています。


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宿題代行サービス

2005年08月22日 | 学習一般
ライブドアのニュースで「宿題代行サービス」なるものを目にしました。
1問500円からで、30万円で卒論も書いてくれるそうです。
当然のことながら、夏休みには問い合わせが普段の3倍に増えるとのこと...。

どのくらい依頼があるものなんでしょう...。
大学生がレポートを頼むのは結構ありそうな気も...。
高校生が宿題を代行してもらって自分は受験勉強に専念...なんてのもありそうです。
まさか小中学生はいないと思いますが...。

別に宿題に限らず、世の中何でも代行業が流行っていますが、これってどうなんでしょう。
ちょっと知らない分野だったり手間がかかりそうだと思うと、自分で調べたり動いたりせず、すぐに人に頼む。
金で人に任せ、自分は頭も手も足も使わない。
これが文化的、現代的な生活ってやつでしょうか...。

なんだか、自分では何もできないというひ弱な人間がますます増殖しそうな風潮です。
前にも書きましたが、便利になればなるほど「生きる力」は失われて行きますね。

医学用語で「廃用性症候群」というのがあるそうです。
「心身の機能を十分に活用しないことにより、本来低下すべきでない機能が低下する状態」のことをそう称するとのこと。
寝たきりになると手足の筋肉が衰えたり関節が固まり、やがて動けなくなる...という現象がわかりやすい例です。

怖いのはこの用語の説明に「心身の機能」とあることですね。
使っていないと体も心も、もちろん頭も衰えるということでしょう。
たくさん動いてたくさん考えて、心身共にさび付かせないようにしたいものです。
私の年齢になると多少の活用では、衰えを少し遅らせるくらいの効果しかないかも知れませんが...。

もっとも、冒頭の宿題代行、大量の計算問題や漢字書き取りの宿題なら任せてもいいかも知れません。
それをやらなくて済む分、考える問題をじっくりできますから...。
でも、もし子どものために頼むとしたら、逆に難しそうな「考える問題」を任せて計算や漢字を自分でやらせる親が多いような気がしますけどね...。

いやはや、おかしな世の中になったものです...。


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テレビは想像力の敵か?

2005年08月03日 | 学習一般
前回の「イメージする力」の記事にテツさんからこんなコメントをいただきました。

 >想像力の欠落は、溢れる情報量によって、幾らかの想像がつくからでしょうか?私は決してそうは思いません。より想像が豊かにふくらむと考えています。

これに関連したことを私も記事を書きながら考えていました。
溢れる情報の中でも想像力とは対極に位置するであろう映像について...。
特に悪名高きテレビについて、よくあるような「テレビやビデオは想像力の発展を阻害する」と書こうとして、待てよ...と思ってやめたのです。
テレビも想像力にプラスの面もあるのではないかと...。

私は野球中継をラジオで聴くのが嫌いではありません。
長野では阪神戦をなかなかテレビでやってくれないからという事情もあるのですが、ラジオ特有の緊迫感が好きです(雑音と戦いながら大阪のABC聴いてます)。
ホームランや3塁打が出たとき、サヨナラヒットのときなどは、選手の動きや球場の様子が目に見えるように伝わってきます。

でも、野球を生でもテレビでも一度も見たことがない人は、いくら想像力が豊かでもラジオを聴いただけで絵が浮かぶことはないですよね。
「...大きいぞ!...ライトバック、ライトバック...見送った...入った、ホームラン!」
という実況を聴いて目に浮かぶ映像は、よほど球場に日参している人でない限り、テレビで見たことのあるそれだと思います。

戦国時代の戦いのシーンにしてもマグマやプレートの動きにしても、動く映像を見たことがある方が、その話を聞いたり読んだりしたときに、よりリアルなイメージ化が可能です。
そして頭の中の映像が鮮明であればあるほど、さらなる想像を膨らますことも容易になるのではないでしょうか。

ただ、だからと言って映像ばかりに頼りきっていては、もちろん思考力も想像力も育まれません。
基礎知識として視覚から得た情報があって、あとはむしろ視覚を遮断して思いを巡らすのが最良なのでしょうか...。

結局、映像にしてもその他の種種雑多な情報にしても、自分がどれだけ能動的に積極的に関われるかが、想像力を働かせることのできる余地を左右する気がします。
受身ではそれらの情報に表面的に現れていることを直接的に、発信者の思惑通りに受け取って終わりになってしまいます。思うつぼです。
映像情報は特にそうなる危険性が高いので要注意!ということですね...。

テレビを「ああ、そうなんだ」とボーッと見ているだけでなく、「なるほど」と納得しているばかりでなく、「あそこに見えるあれは何なのか」「この表の説明はおかしいのではないか」、さらに「なぜここでこの映像を出したのか」などまで考えながら見れば、そこから想像力も広がると思います。
もっとも、いつもこんな風にテレビ見てたら疲れるだけですけどね...。


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