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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

秋深まる

2005年10月02日 | ことば・国語
信州の秋は駆け足です。
ついこの間まで「暑い、暑い」と言っていたのが嘘のように、日に日に空気が冷たくなっていきます。
朝晩は涼しさを通り越してすでに「寒い」の領域へ....。
まるで今のジャイアンツのようです(また野球ネタで失礼....)。

ところで、よく「秋が深まる」とか「深まる秋」と言いますが、秋以外の季節には「深まる」という表現、ほとんど使いませんよね。
少なくとも私は「春が深まる」「深まる夏」なんて、一度も使った記憶がありません。

Yahooで検索してみたところ、「秋深まる」と「深まる秋」でヒットしたのが合わせて12万件に対し、春と冬が90件、夏は60件。
秋の0.05~0.075%という結果でした。

なぜなんでしょう?
因みに歳時記にはおなじみの「秋深し」と同じように、「春深し」など他の季節のものも季語として載っていますが、例句はほとんどありません。
どうして秋だけに決まり文句のように使われるのでしょうか....。

秋になると木々の葉の色が深まる、空の色が深まる....なども関係しているかも知れません。
でもやはり、秋分を過ぎて夜がだんだん長くなっていく状況が「深まる」にしっくりくるからということではないでしょうか。
「秋の夜長」ってやつですね。
一日の中で見ても、夜が一番「深まる」にピッタリのような気がします。

「更ける」という言葉もおそらく「深くなる」から生まれたのでは?と考えています。
これも秋や夜について使うのが最もふさわしいと思いませんか?
だからの、おまけにとなったら、もう深まりっぱなし、更けっぱなしです!
「♪更けゆく秋の夜....」の感傷は春や夏でも、朝や昼でも味わえませんね。

ところで、他の季節が進行する様子には何が一般的なのでしょう。
「行く」だともう季節の終わりという感じだし....。
特に夏の終わりには「過ぎゆく」がピッタリだと思います。
一抹の寂しさも含めて夏を惜しむ....。
他のどの季節よりも「過ぎゆく」は夏です。

でもやはり、秋の「深まる」のような、他の季節の中盤から使える表現は思い浮かびません。
どなたか思い当たる言葉があったら教えてください。


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気になる日本語・小ネタ集(その2)

2005年09月26日 | ことば・国語
そろそろまたネタがたまってきたのでパート2です。

①今日の信濃毎日新聞、県信濃美術館の特別展の紹介記事の一文、
 「特別展「○○○」が開いている」

展覧会が自分の意思で「開いている」んですか?
開いているのは人間なんだから、ここは当然「開かれている」ですよね....。


②これも新聞(朝日or信毎)のスポーツ欄の記事。
 中日の連敗を受けて、

「わずかに残る優勝の可能性をあきらめてしまったのか、....」

「可能性をあきらめる」っておかしくないですか?
あきらめるのは「優勝」なのですから、「わずかに可能性の残る優勝をあきらめてしまったのか、....」が正しい表現ではないでしょうか....。


③これは、実は私も最近までまちがえて使っていました。「リンクを貼る」

「コピー&ペースト」の意識が影響するためか、つい「貼る」を使いたくなりますが、正しくは「リンクを張る」ですね。
「張る」には「1点から伸びたものの先が広がる」という意味があります。
因みに英語ではmake linksと言うそうです。
詳しくはこちらを参照してください。→ことばの素朴な疑問を素朴に考えるぺーじ


④ヤマト運輸のノボリに書いてあるキャンペーンの文句、
「ストップ・ザ・交通事故ゼロ運動」

おいおい、どっちやねん....。
「交通事故ゼロ運動」をストップしたらあかんでしょ!
決まり文句的なものをとりあえず繋げてみた結果、わけのわからないものになっています。
「ゼロ」を取るか、「ストップ」をなくすかしないとね....。
でも、もう何年もずっと使われてますよ。
大量に作っちゃって、どうしようもないんでしょうね...。


では、またそのうちにパート3を....。お楽しみに!


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午後12時30分?

2005年09月22日 | ことば・国語
小学生用の問題です。

新幹線のぞみ号が東京駅を午前10時に出発し、2時間30分かかって新大阪駅に着きました。新大阪駅には何時何分に着きましたか。午前、午後をつけて答えなさい。

ほとんどの子どもは「午後12時30分」と答えます。
さて、この答をどう評価しますか?

日常会話ではもちろんこれでも十分正解ですが、厳密に言うと誤りですよね。
正午から後、日付が変わるまでを「午後」と言いますが、午後○時×分という「時刻」は正午から○時間×分経過したという「時間」で表しているわけです。

そうすると「午後12時30分」という時刻は正午から12時間30分経った時ということですから、日付が変わった深夜に新大阪に着くことになってしまいます。各駅停車を乗り継いでもこんなにはかかりません....。

こういった時刻と時間の概念をわかりやすく説明すると、小学生でも4、5年生ならきちんと理解して「午後0時30分」という正解を出してくれます。
こちらからは絶対に「0時」という考え方は提示せずに気づかせるのが、手間はかかっても面白いところです。
3年生以下は事例がないのでわかりませんが....。

正確さという観点からすれば、午前や午後の区別のない24時間制表示の方が望ましいのでしょう。
交通関係はすべて24時間制ですよね。
しかも聞き間違いによる誤解も生じないよう、17時は「じゅうななじ」と言っています。
まあそれでも私には昔、14時を午後4時と勘違いして覚えていて、駅に着いたらとっくに列車は出発していたという経験がありますが....。

24時間制が主流なのは、あとはコンピュータ関連くらいでしょうか。
日常生活では意外と少ないような気がします。
デジタル時計にも12時間制に切り替えられる機能を持った物、ありますね。
電話の117も「ただいまから午後○時×分をお知らせします」だし....。
公の催し物案内でもビジネス文書でも、12時間制の方が主流ではないでしょうか。

ふだんから主に24時間制を使った生活を送っているという人はどのくらいいるのでしょう?
世代によっても違うかな....。
私は自分の予定は24時間制で管理していますが、他人に対する通知では12時間制を使うことの方が多いですね。
何となく12時間制の方が庶民的な感じがするのは私だけ....?

話がそれました。
結局言いたいのは、12時間制の12時、24時間制の24時というのはイコール0時であり、実際には存在しないと考えた方がわかりやすいのではないかということです。
ただし、12時(or24時)ジャストという時刻に限っては、話者の意識の問題で存在することがあります。
正午ちょうどに着いたときには0時より12時と表現した方が気持ちにピッタリするような....。(ただし「午前12時」です!)

すなわち、1日の終わりという意識が強ければ午後12時、新しい日の始まりという捉え方なら午前0時ということになるでしょうか....。
因みに時刻表は24時間制ですが、到着時刻の場合は24:00、出発時刻のときは0:00と使い分けています。(従って到着時刻も載っている大きい駅の場合、24:00着、0:00発という例があります。)

いっそのことアナログ時計の文字盤、12の代わりに0を使うというのはどうでしょう?
その方が「午後12時30分」というわかりにくい言い方もなくなるし、何よりリセットされて新たな半日が始まるという前向きな気持ちになれるのでは....?


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数字の読み方(追記あり)

2005年09月20日 | ことば・国語
突然ですが1から10までを声に出して数えてください。

今度は10から1までを逆に数えてください。
カウントダウンの要領です。

さて、それぞれの場合で4と7はどう読みましたか?

これは昔テレビでやっていたのですが、無意識に読むとほとんどの人は、増えるときは「いち、に、さん、、ご、ろく、しち...」なのに対し、減るときは「じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん...」になるようです。
私も声に出してみたらやっぱりそうなりました。

試しに続けてみたら、14や17でも同様の現象が起きます。
なぜそうなるのか、前後の数字の発音を考えてもよくわかりません。
どなたか解説お願いします。

もう一つ、数字の読み方で以前から不思議なのが日付です。
「ついたち、ふつか、みっか...ここのか、とおか」と10日までは特殊な読み方をしますね。
問題はそのあと....。
20日(はつか)は別として、それ以外に独特の読み方をする日を探してみてください。(30日=みそかは12月以外は死語なので除外ね....。)

どうですか?
14日と24日だけ「じゅうよっか」「にじゅうよっか」になりますよね。
12日や23日は「じゅうふつか」「にじゅうみっか」と読まないのに、なぜ4の付く日だけこうなるのでしょう?

もしかして地域によっては違う現象が起きるのでしょうか?
全国の方に情報をいただきたいところです。
そう言えば、関西では7月を「なながつ」と読む印象があるのですがどうですか?

....と、今回は「?」だらけの記事でした....。


<追記>日付の件は、14や24のときは「じゅうよん」の「よ」から「よっか」へ乗り換えやすいからかな?12や23だと「じゅうに」から「ふつか」、「にじゅうさん」から「みっか」へと繋げるのが難しいので、そのまま普通に読むということでしょうか....。


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水を「あげる」?

2005年09月15日 | ことば・国語
花に水を「あげる」、水を「やる」、どちらを使いますか?
自分の子におもちゃを買って「あげる」?「やる」?
犬の餌の場合はどうですか?

文化庁の調査では若い層ほど「あげる」の使用が多く、特に女性で目立つそうです。
また、信州大名誉教授の馬瀬氏によると、学生の「あげる」の使用率は、

 ①「子どもにおやつをあげる」88%
 ②「花に水をあげる」     70%
 ③「先生に花をあげる」   66%
 ④「犬に餌をあげる」     62%
  であったということです。

私は実際には「あげる」も使いますが、正しくは花や犬には「やる」だと思っていました。
ただ、なぜかと聞かれれば、人間じゃないものに「あげる」では丁寧すぎるから....くらいの感覚でした。

ところが、「あげる」はりっぱな謙譲語なのですね....。
従って「先生」にこそ使われるべきで、他の3つに使ってはおかしいというのが本来のようです。


ではなぜ、こんなに「あげる」が連発されるのか....。

「やる」という言葉には「くれてやる」的な、どこか不遜な態度が感じられます。
高い立場から恵まれない者に「ほらよ!」と投げつける印象が拭えません。
そんな語感と「動物も植物も同じ生き物」的な過保護精神(?)によって、「あげる」派が増えてきたのではないでしょうか。
私はそんなに偉そうな態度はとらない、犬も花も大切にする心やさしい人なんだと自分で納得したい....そんな意識が垣間見えます。

おそらく、馬瀬氏も指摘しているように、「あげる」は謙譲語から丁寧語への道を歩んでいるのでしょう。
だから、先生に対して使うと敬意が不足している感じがするのだと思います。

因みに信州では、花に水を「くれる」という所が結構あります。
ラジオ番組の調査では県の北部から中部に多く、南部では「やる」が多いとのこと....。
私の地域の学校でも「水くれ当番」は標準語のように使われているし、松本の近くの美ヶ原には、牛に塩を与えた「塩くれ場」という地名が残っています。

「水くれ当番」や「水やり当番」も、やがて「水あげ当番」に変わって行くのでしょうか....。

みなさんは上記の①~④、どこまで「やる」を使いますか?
犬じゃなくて金魚やカブトムシならどうですか?



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気になる日本語・小ネタ集

2005年09月07日 | ことば・国語
「暴風」のアクセントについて8月30日に記事にし、同日NHKにも問い合わせのメールを送りましたが、今のところ回答がありません。
昨日の台風のニュース中でも、気になって気になって...。

さて今日は、日頃からメモしておいた「おかしいんじゃない?」という日本語の4連発です。
私が気にしすぎなのでしょうか...。


(その1)図書カードの広告のフレーズ 「もらって喜ばれる...」

この「喜ばれる」は尊敬じゃなくて受身を表しているんですよねぇ...。
すると「もらう」の主語(相手)と「喜ばれる」の主語(贈る側)が違うので、並べて使ってはおかしいと思うのです。
正しくは「贈って喜ばれる」あるいは「もらって嬉しい」ではないでしょうか。


(その2)朝日新聞の自社広告の文句 「受験に出るから...」

試験を受けることを「受験」と言うんです。
「受験に出る」はおかしいでしょ..。
正しくは「試験に出るから...」ですよね。
「受験に出る英単語」(じゅけたん)なんてなかったぞ!


(その3) 「募集」 「応募」 の区別ができていないアナウンサー

ラジオを聴いているとときどきいます。
「協力してくれる人を応募します」
「(プレゼントに)じゃんじゃん募集してください」などなど...。


(その4)少し前の新聞のスポーツ欄、中日が勝った記事があってその下の阪神戦の見出し 「阪神ピタリ1.5差」

あのー、阪神一応 首位 なんですけど...。
「ピタリ」という表現は後ろから付いていくときに使うんだとばかり思っていました。
こんな使い方あり?


みなさんのご見解をお聞かせください。


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リンゴが「ぼける」

2005年09月01日 | ことば・国語
(はじめに)りんごさんへ。
 この記事中の「リンゴ」はりんごさんとは一切関係ありません。ご了承のほど...。

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学生時代、よくユースホステルを渡り歩いて一人旅をしていました。
若い人はユースホステルなんて知らないかな...。

津軽へ行ったとき、おばあさんに道を尋ねてしまい、言葉が全くわからなくて困りました。
これが同じ日本語かと思うくらい違いますね...。
せっかく親切に教えてくれているので理解しているふりをして頷きながら、ジェスチャーだけでとりあえずの方向のみ確認して歩き出しました。
あとで若い人に道を聞き直したのは言うまでもありません。

私は子どもの頃、親父の転勤に付き合わされて全国各地で育ちました。
北海道から宮崎まで、小学校5つ、中学校3つ...。
自分が勤めてからも転勤やIターンで引っ越しを繰り返し、生まれてから現在までの転居回数は21回を数えます。

当然それぞれの土地にそれぞれの方言があり、引っ越した瞬間から否応なくその洗礼を受けることになります。
初めはイヤだった転校もそのうち慣れ、今度は新しい土地でいかに早く方言を覚えるかが課題になりました。
他の子どもたちの会話を聞いていて、使えそうだなと思った方言は積極的に使ってみる。
そうすることで、スムーズに新しい仲間に溶け込むことができたような気がします。

今では信州弁に染まり、出雲弁も博多弁もすっかり縁遠いものになってしまいましたが、その土地の人と会話すれば自然に出てくる方言もあります。
どれも独特の味わいがあって好きですね...。

方言の中には、五感で納得し共感できる素晴らしいことばがたくさんあります。
標準語に言い換えてしまうと微妙にニュアンスが異なる...一言では言えない。
たとえば信州で使うリンゴが「ぼける」という表現。
以前、安曇野出身の乙葉ちゃんがTVで、「ぼけたリンゴが好き」と話していたそうです。
新鮮なシャキシャキした食感がある状態から時が経過して、噛みごたえがなくなったというか、スカスカになってきたというか...。
「しなびた」とはちょっと違うんです。
そこまで行かないし、何より見た目でなく食感を表すことばなのです。

宮崎の「よだきい」も好きな言葉ですね。
「かったるい」に近いですが、もっと気持ちの重さ、実感がこもっています。

日本全国を調べたら、こういう方言はいくらでも出てくるでしょう。
民俗学の観点から言うと、昔は標準語的に全国で使われていたことばが、今は方言として一部の地域に残っているという現象も多くあります。
いわば、日本人の生活史が方言に残っているのです。
「わにる」(恥ずかしがる、人見知りするなどの意)などがその類。
元はみんな使っていたので辞書にも載っています。

方言を「恥ずかしいもの」と捉える風潮は昔ほどはなくなってきていますね。
関西弁など標準語より人気ありますもんねぇ...。
何もかも標準語に変えてしまうのではなく、方言独特の味わいを残していきたいものです。
子どもたちにも、自分が住む土地の方言を見直してもらいたい、その表現の豊かさを誇りにしてほしいと思っています。



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「暴風」のアクセント

2005年08月30日 | ことば・国語
台風シーズンになるといつも気になる言葉があります。
テレビやラジオでアナウンサー、レポーターが口にする「暴風」のアクセントがどうにも耳障りで、肝心の台風情報に注意が向かないのです。

(注)これから書くことは、あくまでも「標準語」としての読み方と解釈してください。関東と関西ではアクセントの位置が正反対になる例も多いのは承知しています。私自身も大学時代まで「坂」や「サンダル」は関西式に「さ」を高く読んでいましたから...。

「ぼうふう」の読み方は「口上」や「向上」と同じ平板なものになるはずです。
ところが、NHKのアナウンサーでもほとんどが「ぼ」にアクセントを置いた読み方をするのです。「工場」と同じです。
(こちらのブログにわかりやすく書いてあります。→「暴風」のアクセントが気になる

「暴風雨」と言うときは「ぼ」にアクセントが来ます。
「暴風域」でもそうですね。
たぶん、それと同じ意識で読んでいるのでしょうが、「暴風」だけのときは違うはず...。

地元FM局にも疑問をぶつけましたが、スッキリしない回答しかもらえません。
先日の台風12号でも、私が見聞きしたニュースの中で、正しいアクセントで読んでいたのは民放のレポーター1人だけでした。

「そんなのどっちでもいいじゃん」とか「言葉は変わるもの」といった声が聞こえてきそうですが、この場合はそう簡単に収めることはできません。
ニュースは必要な情報を的確に伝えるのが使命だからです。

「暴風」を「暴風雨」と同じアクセントで読まれては、どちらも「ぼーふー」に聞こえて区別がつきません。
風だけに注意すればいいのか、大雨に対する備えも必要なのかが音だけで判断できないのは不便です。
不便だけならまだしも、誤解を招くおそれもあります。危険です!
本来のアクセントで正しく読めば回避できる危険を、あえて放置していることになりませんか?


と、最後は少し大袈裟になりましたが、せひ改善してほしいものです。
NHKにもこの記事を送って回答を得たいと思います。


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「女王」の読み方アンケート

2005年08月24日 | ことば・国語
私は一度も見たことがありませんが、「女王の教室」というTVドラマがいろいろ物議を醸しだしているようです。
学校の先生関係のブログでは結構採り上げられているようですね。

さて、この「女王」、みなさんは何と読んでいますか?

以前ラジオで話題になって、私は「じょおう」だと主張したのですが、アナウンサー(同年代・千葉県出身)は「表記はそうかも知れないけど、実際読むときには『じょうおう』ですよね」と強引に結論づけてしまい、その後もはっきり「じょうおう」と読んでいます。

辞書ではほとんど「じょおう」でしか載っていませんが、中には「じょうおう」を引くと「じょおう」を参照するよう指示があるものもあります。
ワープロの日本語変換システムによっても違いますね。
「じょうおう」でも変換されるものもあれば、「じょおう」しか受け付けないものも...。

どちらにしろ「じょおう」の方が優先的に採用されているのは間違いないので、自分の感覚に自信を持っていたのですが、いろいろなHPやブログを検索してみると、「じょうおう」派が予想以上に多いことがわかりました。
たとえばココ

そこで、「ことば」をテーマの一つの掲げているこのブログでも、みなさんの声を聞きたいと思います。
表記と読み方では違うという方もいらっしゃると思うので、選択肢は4つ作りました。

Q.「女王」に仮名を振るとどうなるか、また声に出して読むとどうなるか、番号でお答えください。

 ①表記も読みも「じょおう」
  
 ②表記も読みも「じょうおう」

 ③表記は「じょおう」、読みは「じょうおう」

 ④表記は「じょうおう」、読みは「じょおう」


私は間違いなく①です。
かすかな記憶では、子どもの頃は「じょうおう」と言っていたようにも思いますが...。
さすがに④はないかな...。

ご協力よろしくお願いします。


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「へ」と「に」

2005年08月20日 | ことば・国語
少し前の朝日新聞、作文の添削コーナーでこんなコメントがありました。

助詞の使い方について、「醸造学科入学した」は誤りで、行動の帰着点を表す「に」が正しいという指摘です。

なるほど...。
そこまで意識したことはありませんでしたが、言われてみれば...。

ということは、合格して入学する前、つまり受験勉強中は「醸造学科入ることを目指す」で、その結果「醸造学科入学」でいいんですかね...。

同様に、「駅へ行く」の結果「駅に着いた」、「彼女へ愛を送った」結果「彼女に愛が届いた」というのが正しいのでしょうか...。

どの例も、後者の「に」を「へ」にすると確かに若干の違和感がありますが、前者の「へ」を「に」にしてもそれは感じません。
前者でも「行動の(未来の)帰着点」を表しているのだから「に」でもいいのかなぁ...。

日本語の助詞は奥が深い...。

英語のfortoも同じように使い分けるのかと思って辞書で調べたら、確かにforは「~に向かって」の意味でtoは「到着点を表す」とありました。
でも、leave for New York go to New York の使い分けが今一わかりません。
しっくりくる組み合わせが動詞によって決まっている面もあるようです。

う~ん...英語の前置詞も奥が深い...。


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「察し」に期待するな

2005年08月12日 | ことば・国語
先日読んだ本(田村秀行「だから、その日本語は通じない」青春出版社)にこんな話が載っています。

日本文化は「察し」で成り立っている。日本語も「察し」の言葉である。「察し」とは「言葉の上ですべてが言い表されていなくても、また語法的にかなりの揺らぎがあったとしても、相手の言いたいことを汲み取ることができる能力」のこと。俳句のような極端な省略詩が成立するのも、日本人にこの精神的特性があったからで、逆に、言わなくてもわかることまで念を押すように話す人は「しつこい」と思われる。(要約)

いわゆる「皆まで言うな」とか「真意を酌み取る」という類のコミュニケーションですね...。
女性に対する愛情表現をなかなか口にできない古き日本男児の性も、ここに原因を求められるかも知れません...(言い訳...)。
そう言えば、昔、会社勤めしていたとき、お詫びの文章の最後には「何卒事情をお察しいただき...」という決まり文句を便利に使っていました。

田村氏はこの「察し」の文化が国際間ではマイナスに働いていることも認めた上で、なお、日本人同士では「正直な」やり取りより「察し」を念頭に置いた話し方をすべきだと主張しています。

確かに日本文化にはこういう面があると思いますし、その良さも理解できますが、私は「察し」の力は情報を受信する際にこそ活用すべきものであって、発信する側に立ったときにはすべてをきちんと言葉にすべきだと思います。

家族や友だちとの他愛のない会話ならともかく、多少なりとも公的な要素がある場では、「これくらいは言わなくてもわかっているだろう」と省略した一つの言葉が、後々「言った」「言わない」「そんな意味とは思わなかった」などのトラブルを引き起こすことになりかねません。
特に世代を越えた相手とのコミュニケーションでは、常識や価値観などの違いから「察し」の対象や基準も異なってくると思われるので、なおさら注意が必要ですね。

やはりここは、相手の「察し」を勝手に期待せず、言うべきことは明確に言う方が誤解を招かずに済みそうです。
(そうは思ってもやはり「愛してるよ」は言えませんが...)

(さらに、意図的に相手に「察し」を求める手法もありますね。
上記の「事情をお察しいただき...」のように相手に甘えていたり、責任を半分相手に預けたりするような使い方です。
後者の場合、何かことが起こったときにも、自分は断言していないのに相手が勝手にそう取ったと...いう逃げ道が作れます。
ただ、こうした計画的な「察し」への期待は記事の趣旨と異なるのでここでは除外し、話の対象は「良心的」(?)なものに限ります。)

書き言葉の場合はさらに「察し」を期待してはいけません。
田村氏もこの点に触れ、「話すように書くから文章が伝わらない」という一章を設けて詳しく説明しています。
文章では相手が特定できないし、言語外情報(身振りやアイコンタクトなど)に頼ることもできないので当然ですね。

従って書くときには話すときに比べて格段の量の言葉が必要だし、だからこそ「書き言葉は、習得のために訓練しなければならない」という氏の主張には私も大賛成です。

とにかく文章を書くこと、それも自分のメモや日記、ケータイのメール程度のものではなく、不特定多数の読者がいることを意識して正確に伝わるように論理的に書くこと
この練習をすべての教科で実践していきたいという思いを改めて強くしています。
数学の証明問題などはこの練習に最適ですね。
論理を飛ばして独りよがりの説明を書いている子は、それを読む相手の存在を全く考えていないということです。

どうすれば伝わるかを考えながらきちんとした文章が書けてこそ、受身に回ったときの「察し」の能力も高まると考えるのは、あまりに都合良すぎるでしょうか?

p.s.情報を受信する場合には「察し」の力が重要と書きましたが、塾の講師として生徒に向かうときは話が別です。話し言葉でも、相手に頼らず自分の言いたいことを正確に伝える練習を生徒にしてほしいからです。生徒が単語だけで何かを伝えようとしても「それが?」「だから?」と聞き返します。ということで、塾ではものすごく鈍い「察し」の悪い先生になっています。


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著作権について思うこと

2005年08月10日 | ことば・国語
以前から子どもたちの言葉を豊かにするための教材を作ろうと、いろいろ工夫を重ね試行錯誤しています。
英単語なら身近な具体語を覚えるために機械的な暗記も有効でしょうが、小学校高学年や中学生が日本語で語彙を広げるときの対象は主に抽象語になります。
従って、一つ一つの語句の意味を文脈と切り離して学ぶのでは分かりにくく、また実用的でもありません。
そこで、最も映像が浮かびやすい小説を読みながら、その中に使われている言葉をイメージごと身につけようという教材を製作中です。

ここでどうしてもネックとなるのが著作権の問題です。
塾というのは著作権を無視している代表的存在だという話を聞いたことがあり、自分の経験でも否定できない部分が少なからずあります。
正直、コピーで教材費節約したり、教科書の文章を無断借用したりしてますもんね...。          (↑私だけ?

ただ、自分の塾の幹となる教材を作るにあたっては、できればどこからも文句のつかないものにしたい...ということで著作権フリーの題材を探してみました。

今のところ、青空文庫というサイトが充実しています。
小説、児童文学から随筆まで、実に多彩な多くの作品が保管されていて、ほとんど自由に利用できるのでとても助かります。

ただし、ご存知のように今は著作権が消滅するのは、原則として著者の死後50年経ってから...。
2005年では1955年までに亡くなっている作者ということですから、主に昭和初期生まれまでの人の作品に限られます。

生徒の親しみやすさを考えれば、本当は現在活躍している作家や少なくとも戦後生まれの作家の作品を使いたいのですが、それは望むべくもありません。
まあ、考え方を変えれば名作に触れるいい機会だと思い、今のところ漱石や太宰を利用していますが...。

ところで今、この著作権の保護期間を死後50年から70年に延長しようという動きがあるのをご存知ですか?
死んだ後のことですから、もちろん著者本人の意向というより遺族や子孫の意見だったり、存命中の作家が先々のことを考えての発言ということになりますが、皆さんはどう考えますか?

言葉による作品に限らず、作者の権利が保障されなければならないのは当然ですが、一方でそれが行き過ぎれば文化の自由な発展を阻害することになります。
子どもたちの学習に使える素材を選択する幅が狭められることは、後世のためにプラスとは言えないと私は考えています。

「青空文庫」でもこの著作権70年化に反対しています。
著作権が20年延びると、ざっと見ただけでも新たに太宰治や岡本かの子、泉鏡花などの作品が自由に使えなくなります。

外国では70年が一般的との意見もあるようですが、だから日本もそれに合わせようというのではあまりにも短絡的...。
延長によるプラス面とマイナス面を十分検討し、幅広い層の声を集約して考慮すべき問題だと思います。

参考:なにゆえの著作権保護期間70年延長か


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同じ文字なのに...

2005年08月08日 | ことば・国語
以前どなたかとのブログ上のやりとりで考えたことです。

私も多くの方と同じように本が好きです。
決して読むのは速くありませんし、内容もメモしておかないとすぐに忘れます。
衝動買いでほとんど手つかずの本もチラホラ...(でも、いいと思ったときすぐ買っておかないと、次に探したときにはもうないんですよね...)。
それでも凝りもせず、常に3~5冊の本を並行して読んでいます。

もちろんネットでHPやブログを見ていても、この文章はいいこと書いてあるなぁと思うこと度々ありますよね。
そんなとき皆さん画面で読むだけで気が済みますか?
リンク貼ったり、お気に入りに登録するだけで満足できますか?

私は特に、気合い入れて読もうとする文章や参考にしたい文章は、モニター上の文字を読むだけでは何か心もとなく、プリントアウトしてしまいます。

ネットだって、聴くときのように情報が瞬時に消えて行ってしまうわけではなく、文字として何度も読み返すことができる。
検索機能を駆使すれば、データベースとしてはむしろITの方が優れている。

そんなことは十分承知の上で、それでもやはり紙の上に印刷された文字を読まないと読み込んだ気がしない...物足りないのです。
画面の文字を追っているだけでは頭に入ってこないし、考えもまとまらない...。

これはなぜなんでしょう?
こんな思いを感じているのは私だけですか?

小さいときからパソコンが身近な最近の子どもや若い人たちは、こんなこと感じないのかも知れませんね...。

たぶん私は未だに無意識のうちに、ITの世界をどこか刹那的で怪しげな、浮き草的存在だと感じているのだと思います。
だからもっと確かな形に残しておきたいという...。
あるいはモニター上の文字は、「読んでいる」のではなく「見ている」状態に勝手に脳が切り替えているのか...。

どうも理由ははっきりしませんが、活字中毒はやはり紙の上の文字を読まないと癒されない...ということだけは間違いないようです。


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国語のリスニング

2005年08月05日 | ことば・国語
このところのイメージする力、想像力の話題に関するやりとりの中で、madographosさんが「子どもたちの聴き取り能力の低下」を指摘されていました。

これについては私も常々考えていました。
「読んでわかる」の前段階として、あるいはそれと並行して、「聴いてわかる」力の育成にもっと関心が向けられる必要があると...。

イメージする力を育てる練習には、読む素材よりまずは聴く素材の方が馴染みやすいのではないでしょうか。
自分で本を読むより人に読んでもらったのを聴く方が想像が膨らむ...子どもに対する読み聞かせの効用の一つもこれですね。
大人になっても、プロの読んだ朗読を聴くと独特の心地よさに浸れます。
文字を追う必要がないので視覚を遮断できることが、想像力の広がりにプラスに働きます。
さらに、文字のように読み返すことができず聞いたそばから言葉が消えて行ってしまうので、その分集中して聴くことが想像力にもいい結果をもたらすのかも知れません。

madographosさんはまた、落語、講談などの「語りの文化」を味わうことを子どもたちに体験させては?...と提案されています。
これはいいですね...。
朗読の鑑賞と共にこれらもぜひ国語学習に採り入れたいと思っています。

で、ここからはまたテツさんのコメントから考えたこと。
ラジオの野球中継のアナウンサーも、落語や講談の演じ手も、もちろん本の著者やその朗読者も、映像がない分、その情報を受け取る人たちのイメージが膨らむよう表現に工夫を凝らしますよね。
同じような場面の描写なのにこの人の話は絵が浮かびやすいとか、細かいことまでわかるとか、発信者によって微妙な違いがあるはずです。

聴き手の立場に立った気配り...いわば話し手、書き手側の想像力とも言えると思います。
それを体感することも勉強になるのではないでしょうか。
以前書いた、絵や図形、マンガのあらすじや地図をわかりやすく説明する力を高めるためにも有効なのではないかと期待しています。

ともあれ、お盆休み明けからいろいろなジャンルの作品を対象に、しばらく国語のリスニングを実践してみることにします。
また随時経過をご報告したいと思います。お楽しみに...。


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climb down

2005年07月27日 | ことば・国語
今日は言葉と言っても英語のお話。

2~3年前、私は英語の多読学習にハマっていました。
「SSS多読学習」という方法、ご存知でしょうか?
電気通信大学の酒井教授が提唱&実践されていて、秘かな広まりを見せている英語学習です。(←SSS英語学習法
基本は簡単な英文から始めて、とにかくたくさん読むこと。
読む本はGraded Readers(英語学習者用段階別読み物:oxfordなどのシリーズあり) のほか、ネイティブ向けの絵本やペーパーバックなど何でも...。

教科書英語と違って生きた表現が多いので、幼児向けの絵本でも知らない単語が結構あります。
でも、この学習法は

1.辞書は引かない (引かなくてもわかる本を読む)
2.分からないところは飛ばして前へ進む(わかっているところをつなげて読む)
3.つまらなくなったら止める (1、2の原則で楽しく読めない本は読まない)

...が3原則なのです。
いちいち辞書を引いたり日本語に訳していると流れが止まってしまう、それよりストーリーを追うことを優先して楽しく読もうということです。

100万語読もうというのが一つの目標なのですが、私は2年で200万語を越えたところで現在は休止中。
一時生徒にも読ませて、塾には200冊以上の「原書」があるのですが、こちらも今は余裕がなくてできていません。

辞書を引きたい気持ちをグッとこらえて原則通り実践してみると、確かに経験を積むにつれ、知らない単語や表現でも「何となくこんな感じかな?」という類推が働くようになります。
それが楽しくて続くんですね...。

そんな中で初めてお目にかかったとき面食らったのが climb down です。
climbは「登る」とばかり覚えていた私は、なぜそこにdownが付いているのか、どういう意味なのか見当もつきませんでした。

でも例によって辞書を引かず保留にしておいたら、その後いろいろな本のいろいろな場面で、同じ表現や似たような言い方に出会うことになりました。

塀をclimb down、はしごをclimb down、車にclimb into...。
で、ある日、ボートにclimb down intoを読んで、「あっそうか!」と納得しました。

はしごを登るときの、手と足を使って「よじ登る」イメージ、這いつくばってしがみつくイメージ...これがclimbではないか...?
車やボートに乗り込むときも同じような姿勢になりますよね。
climb自体はそういうイメージの単語で、そこにupやdown、intoが付いて動作にバリエーションが出てくるのではないかと...。

その後英和辞典や英英辞典で調べても今一つすっきり解決はできていないのですが、少なくとも私にとってのclimbはそういう単語になりました。

とすると、山に登る場合も、よじ登る必要のないハイキング程度のときはclimbは使わないんでしょうか?
ネイティブに確かめてみようと思いつつ、機会を逸しています。
もしご存知の方がいらしても、教えないでくださいね!
...自分で解決するのが楽しいので...。

生徒たちにもまた多読勧めてみようかな...。
以前3万語くらい読んだ子は「日本語を介さずにわかる」感覚が少しつかめたと言っていたので...。
因みにいまの中学の教科書は3年分でやっと1万語くらいだそうです。
この量で新たな言語を学ぼうというのは、ずいぶん無謀な試みだと思いませんか?

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