先日読んだ本(田村秀行「だから、その日本語は通じない」青春出版社)にこんな話が載っています。
日本文化は「察し」で成り立っている。日本語も「察し」の言葉である。「察し」とは「言葉の上ですべてが言い表されていなくても、また語法的にかなりの揺らぎがあったとしても、相手の言いたいことを汲み取ることができる能力」のこと。俳句のような極端な省略詩が成立するのも、日本人にこの精神的特性があったからで、逆に、言わなくてもわかることまで念を押すように話す人は「しつこい」と思われる。(要約)
いわゆる「皆まで言うな」とか「真意を酌み取る」という類のコミュニケーションですね...。
女性に対する愛情表現をなかなか口にできない古き日本男児の性も、ここに原因を求められるかも知れません...(言い訳...)。
そう言えば、昔、会社勤めしていたとき、お詫びの文章の最後には「何卒事情をお察しいただき...」という決まり文句を便利に使っていました。
田村氏はこの「察し」の文化が国際間ではマイナスに働いていることも認めた上で、なお、日本人同士では「正直な」やり取りより「察し」を念頭に置いた話し方をすべきだと主張しています。
確かに日本文化にはこういう面があると思いますし、その良さも理解できますが、私は「察し」の力は情報を受信する際にこそ活用すべきものであって、発信する側に立ったときにはすべてをきちんと言葉にすべきだと思います。
家族や友だちとの他愛のない会話ならともかく、多少なりとも公的な要素がある場では、「これくらいは言わなくてもわかっているだろう」と省略した一つの言葉が、後々「言った」「言わない」「そんな意味とは思わなかった」などのトラブルを引き起こすことになりかねません。
特に世代を越えた相手とのコミュニケーションでは、常識や価値観などの違いから「察し」の対象や基準も異なってくると思われるので、なおさら注意が必要ですね。
やはりここは、相手の「察し」を勝手に期待せず、言うべきことは明確に言う方が誤解を招かずに済みそうです。
(そうは思ってもやはり「愛してるよ」は言えませんが...)
(さらに、意図的に相手に「察し」を求める手法もありますね。
上記の「事情をお察しいただき...」のように相手に甘えていたり、責任を半分相手に預けたりするような使い方です。
後者の場合、何かことが起こったときにも、自分は断言していないのに相手が勝手にそう取ったと...いう逃げ道が作れます。
ただ、こうした計画的な「察し」への期待は記事の趣旨と異なるのでここでは除外し、話の対象は「良心的」(?)なものに限ります。)
書き言葉の場合はさらに「察し」を期待してはいけません。
田村氏もこの点に触れ、「話すように書くから文章が伝わらない」という一章を設けて詳しく説明しています。
文章では相手が特定できないし、言語外情報(身振りやアイコンタクトなど)に頼ることもできないので当然ですね。
従って書くときには話すときに比べて格段の量の言葉が必要だし、だからこそ「書き言葉は、習得のために訓練しなければならない」という氏の主張には私も大賛成です。
とにかく文章を書くこと、それも自分のメモや日記、ケータイのメール程度のものではなく、不特定多数の読者がいることを意識して正確に伝わるように論理的に書くこと。
この練習をすべての教科で実践していきたいという思いを改めて強くしています。
数学の証明問題などはこの練習に最適ですね。
論理を飛ばして独りよがりの説明を書いている子は、それを読む相手の存在を全く考えていないということです。
どうすれば伝わるかを考えながらきちんとした文章が書けてこそ、受身に回ったときの「察し」の能力も高まると考えるのは、あまりに都合良すぎるでしょうか?
p.s.情報を受信する場合には「察し」の力が重要と書きましたが、塾の講師として生徒に向かうときは話が別です。話し言葉でも、相手に頼らず自分の言いたいことを正確に伝える練習を生徒にしてほしいからです。生徒が単語だけで何かを伝えようとしても「それが?」「だから?」と聞き返します。ということで、塾ではものすごく鈍い「察し」の悪い先生になっています。
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日本文化は「察し」で成り立っている。日本語も「察し」の言葉である。「察し」とは「言葉の上ですべてが言い表されていなくても、また語法的にかなりの揺らぎがあったとしても、相手の言いたいことを汲み取ることができる能力」のこと。俳句のような極端な省略詩が成立するのも、日本人にこの精神的特性があったからで、逆に、言わなくてもわかることまで念を押すように話す人は「しつこい」と思われる。(要約)
いわゆる「皆まで言うな」とか「真意を酌み取る」という類のコミュニケーションですね...。
女性に対する愛情表現をなかなか口にできない古き日本男児の性も、ここに原因を求められるかも知れません...(言い訳...)。
そう言えば、昔、会社勤めしていたとき、お詫びの文章の最後には「何卒事情をお察しいただき...」という決まり文句を便利に使っていました。
田村氏はこの「察し」の文化が国際間ではマイナスに働いていることも認めた上で、なお、日本人同士では「正直な」やり取りより「察し」を念頭に置いた話し方をすべきだと主張しています。
確かに日本文化にはこういう面があると思いますし、その良さも理解できますが、私は「察し」の力は情報を受信する際にこそ活用すべきものであって、発信する側に立ったときにはすべてをきちんと言葉にすべきだと思います。
家族や友だちとの他愛のない会話ならともかく、多少なりとも公的な要素がある場では、「これくらいは言わなくてもわかっているだろう」と省略した一つの言葉が、後々「言った」「言わない」「そんな意味とは思わなかった」などのトラブルを引き起こすことになりかねません。
特に世代を越えた相手とのコミュニケーションでは、常識や価値観などの違いから「察し」の対象や基準も異なってくると思われるので、なおさら注意が必要ですね。
やはりここは、相手の「察し」を勝手に期待せず、言うべきことは明確に言う方が誤解を招かずに済みそうです。
(そうは思ってもやはり「愛してるよ」は言えませんが...)
(さらに、意図的に相手に「察し」を求める手法もありますね。
上記の「事情をお察しいただき...」のように相手に甘えていたり、責任を半分相手に預けたりするような使い方です。
後者の場合、何かことが起こったときにも、自分は断言していないのに相手が勝手にそう取ったと...いう逃げ道が作れます。
ただ、こうした計画的な「察し」への期待は記事の趣旨と異なるのでここでは除外し、話の対象は「良心的」(?)なものに限ります。)
書き言葉の場合はさらに「察し」を期待してはいけません。
田村氏もこの点に触れ、「話すように書くから文章が伝わらない」という一章を設けて詳しく説明しています。
文章では相手が特定できないし、言語外情報(身振りやアイコンタクトなど)に頼ることもできないので当然ですね。
従って書くときには話すときに比べて格段の量の言葉が必要だし、だからこそ「書き言葉は、習得のために訓練しなければならない」という氏の主張には私も大賛成です。
とにかく文章を書くこと、それも自分のメモや日記、ケータイのメール程度のものではなく、不特定多数の読者がいることを意識して正確に伝わるように論理的に書くこと。
この練習をすべての教科で実践していきたいという思いを改めて強くしています。
数学の証明問題などはこの練習に最適ですね。
論理を飛ばして独りよがりの説明を書いている子は、それを読む相手の存在を全く考えていないということです。
どうすれば伝わるかを考えながらきちんとした文章が書けてこそ、受身に回ったときの「察し」の能力も高まると考えるのは、あまりに都合良すぎるでしょうか?
p.s.情報を受信する場合には「察し」の力が重要と書きましたが、塾の講師として生徒に向かうときは話が別です。話し言葉でも、相手に頼らず自分の言いたいことを正確に伝える練習を生徒にしてほしいからです。生徒が単語だけで何かを伝えようとしても「それが?」「だから?」と聞き返します。ということで、塾ではものすごく鈍い「察し」の悪い先生になっています。
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学校のベテランの先生に話を伺うと、子どもはもちろん、その親でさえ昔とは違うという感想をお持ちです。そんな環境で察しの文化は成り立たないのでしょうね。l
これも想像力、イメージする力に関係してきますね。Amanoさんが言われるように「察し」は「日本人の自慢できる文化」だと思いますが、残念ながらその力が乏しい人間が増えているような気がします。自分ではその力を向上させつつ、相手には期待しないで言葉を多くして伝えるというのが、一番現実的かと思います。
私も察するところにあるのは日本の良き文化だと思いました。
ついこの間での相手先のブログの回答で、相手から言いにくい返答がきており、横柄な命令口調の態度の書き口調でしたので、あえて穏やかにするつもりが、その一点だけとられて、怒ってました。私も悪いのですがと思い素直に謝りましたが....立候補に関して「担ぐ→信任する」を指摘されました。誉めた言い方ではないと....言葉を勉強せねば....(爆笑)。難しいですねえ、実際に実行委員として動いたので、信任では物足りなさから、あえて担ぐと言ったつもりが...。こういうのも察して欲しいわけですが。
また伺いますねえ。
ブログはモロに書き言葉の世界ですから難しいですね。年齢も性別も環境も違う不特定多数相手ですから、「察し」は期待しない方がいいのでは?誤解が生じないよう、くどいくらいの方がいいと思います。
私も、塾ではあえて「いじわるおじさん」を演じています。答が合っていても「どうして、ここはこの式になるの?」「この答になった理由を説明して」と。「いじわるおじさん」のせいで、例えば数学などで、少なくとも勘で式をでっちあげることは少なくなったように思います。
私も全く同じです。
生徒が問題を解き終わったら「質問は?」と訊き、「ない」と言ったらこちらから質問します。
「じゃこれ、なんでこうなるか説明して」
「どういう計算したの?」
「なんとなく...」という返答がなくなるまで「いじわるおじさん」を続けて行かねばなりませんね。