「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

大人のための文学―『お伽草紙』

2010年03月06日 | Arts
☆『お伽草紙』(太宰治・著、新潮文庫)☆

  恥ずかしながら何度でもいうが―『人間失格』のところでも書いたように―太宰治のことは、彼の作品を含めて、国語教科書程度の知識しかなかった。松本侑子さんの『恋の蛍』をきっかけに、太宰の人間性や文学について少しは知るようになり、教科書の枠を超えた作品もぽつぽつと読み始めているところだ。
  新潮文庫版『お伽草紙』は「お伽草紙」の他に「新釈諸国噺」なども収録されている。今回は「お伽草紙」を中心に「新釈諸国噺」も少し読んでみた。「新釈諸国噺」もなかなかのものだと思うが、それにしても「お伽草紙」である。読み始めて、あれっと思った。社会風刺というか、辛辣な人間観察というか、この作風にどこかで会ったような気がした。そう、大好きだった星新一のショートショートに通じるところがあることに気がついた。
  星新一の作品も人間の可笑しさを短い掌編で描いている。星のショートショートはたいてい乾いた明るいタッチなので、さらっと読めてしまうところがある。ところが、太宰の「お伽草紙」はもっと重厚な感じがする。けっして湿っぽいわけではないが、読む者の心に直接触れてくるような感じがする。ショートショートでは星自身が前面に出てくることはなかったように思うが、「お伽草紙」では太宰が自らの主張を堂々と語っている。直接的に読者に語りかけている、といったほうが正確かもしれない。
  「お伽草紙」はよく知られた昔話に取材しているのだから、まったく初めて読んだという気はしない。とはいえ、子どもの頃にどこかで聞いたおとぎ話を太宰風に解釈を施したという程度のものではなく、まったく別の話へと“創作”されている。一つだけ例を挙げれば、「カチカチ山」の兎をギリシャ神話の処女神アルテミスに例えて物語を創りあげている。中年醜男の狸が美少女兎に翻弄される姿はぞっとするところがある。
  太宰の文学は青春の文学などとよく喧伝されている。太宰文学の自虐的な一面が、青春時代特有の内向的なベクトルと共鳴するところがあるのかもしれない。しかし、はるか彼方の青春時代に教科書の外で太宰を読んだことのない人間にとって、いまその実感を抱くことは雲をつかむようなものだ。
  この歳になって初めて「お伽草紙」を読んでみると、4編のどれもこれもが設定といいプロットといい、鋭い知性に裏打ちされた残酷な人間観察に溢れている。若い時代に読んでもそれなりの面白さはあるだろうが、くたびれながらも少々人生の時を過ごしてきた者―とくに中年や初老の男性―にとっては、それこそ実感として胸に迫るものがあるのではないかと思う。(本書の解説で奥野健男さんもほとんど同様のことを書いている)
  かねがね作家の想像力や創作力は見事のものだと敬服している。太宰治もまた然りである。太宰文学が青春文学であるかどうか、少なくとも“わたしは知らない”というべきだろう。しかし、「お伽草紙」は大人のための文学であることを、いま“わたしは知った”といえそうだ。いまさら何をと太宰ファンからは嘲笑されるだろうが、太宰治はやはり只者ではない。
  

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