「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

フォスフォレッセンス―『恋の蛍』

2009年11月01日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『恋の蛍―山崎富栄と太宰治』(松本侑子・著、光文社)☆

「人は生前、その意識はなくとも、後生の人間がその生涯を俯瞰してみると、まぎれもなく時代の潮流のなかで生きている」(本書「あとがき」より)

  『恋の蛍―山崎富栄と太宰治』は『小説宝石』2009年3月号~8月号の連載に大幅な加筆をされたものであり、連載最終号の続き(結末編)の意味も持っている。連載を読んできたものにとっては待ちに待った出版だが、さらな気持ちで初めからゆっくりと読みなおした。
  山崎富栄、太宰治、富栄の夫である奥名修一をめぐる多くの人たちが登場し、その人間関係はかなり複雑な印象を受ける。連載で読んだときは1カ月の間があくため、前月号を読み返すこともたびたびあった。あらためて初めから読み通すと、連載での下敷きがあるとはいえ、かなり整理されたかたちで頭に入ってきた。
  いうまでもないが、評伝小説に登場する人物は実在した(する)人たちである。その人物像や人間模様を描くにあたって、作家の想像力が働く余地はあるだろうが、基本的には取材に基づいているはずである。評伝の成否は取材にかかっている。
  作者・松本侑子さんの取材は緻密であり、徹底している。「赤毛のアン」シリーズの翻訳や関係書の執筆で、すでに定評のあるところだ。富栄や太宰の生涯に関係した国内の地―たとえば滋賀や津軽―のみならず奥名修一が戦死したフィリピンにも足を運んでいる。本書にはモノクロながら8ページに及ぶ写真が付けられている。その少なからぬ枚数は松本さん自身が撮影したものであり、取材に対する意気込みが感じられるように思う。巻末に記載された参考文献も膨大である。文字どおり労作といえるだろう。
  連載が始まったとき、この評伝はスキャンダルに彩られた山崎富栄を正当に再評価する意図があるものと思っていた。実際、太宰と知り合うまでの富栄は明るく快活で、理知的ですらある。実際の富栄は、情死後にスキャンダラスな扱いを受けた富栄とは程遠いことに、松本侑子さんは繰り返し言及している。



  本書でも多く引用されている山崎富栄の日記(6冊のノート)は本として出版された。その文庫化されたもの(『太宰治との愛と死のノート』―山崎富栄・著、長篠康一郎・編、女性文庫)を、連載が始まってから購入して目を通してみた。太宰に対する感情表現もさることながら、分析的な知性を感じさせる文章に驚かされた。松本さんの言葉を自分の目で確認した思いだ。



  連載が進むにつれて、そしていま結末までを通読してみて、本来のモチーフは戦争にあるのではないかと思えてきた。奥名修一が戦死することなく富栄との結婚を全うしていたなら、富栄は太宰とともに死を選ぶことはなかった。太宰も文壇での地位に悩み、自滅の道を歩みはじめたのも戦争と無関係ではあるまい。戦争を身近に感じない時代に生きるわれわれには想像しがたい深い喪失感が、富栄と太宰とを結びつけたのかもしれない。
  富栄の父である山崎晴弘の美容の普及にかけた一代記にも関心をもった。12年前NHKで放映されていたドラマ「あぐり」が好きだったこともあって、美容教育や美容器具の細かな描写がとても興味深かった。世間の無理解や震災にも負けず、何度も立ち向かっていく晴弘の情熱には心打たれた。最愛の娘を失った父親の心情を描く松本さんの筆致に、自然と涙をさそわれた。晴弘はほとんど主役級の扱いだなと思っていたら、松本さん自身も「あとがき」で「本当の主人公は(中略)父晴弘だったかもしれない、とも感じている」と書かれていて驚いた。「日本の戦争についても考える長い旅となった」とも書かれている。
  山崎富栄と晴弘、そして太宰治や奥名修一が生きた時代は、いまから見れば波乱万丈ともいえる。日本が国際社会へとデビューし、華やかな文化も開花した。しかし、やがて海外への野望とともに軍国主義が闊歩しはじめ破滅的な戦争へと導かれていく。戦後は大きな喪失感とともに価値の転換も迫られた。松本侑子さんは、富栄や太宰たちの生き方を描きながらも、良くも悪くも時代に翻弄される人間の在り方こそ表現したかったのではないだろうか。
  『恋の蛍』の構想を初めて聞いたのは、昨年秋「憲法9条の会つくば」での松本侑子さんの講演だった。ただ『恋の蛍』というタイトルはまだ聞かなかったように思う。恥ずかしながら、太宰治と情死した女性の名が「山崎富栄」であることもそのとき初めて知った。日本ペンクラブの理事として、平和を希求し表現の自由を標榜するペンクラブについてもかなり詳しく話されていた。いま思えば、戦争や時代を軸とした人間ドラマの構想がすでにあったのかもしれない。ちなみに、本書の帯に「国際ペン東京大会2010」のロゴマークが付いていることも記しておきたい。



  松本侑子さんによれば、「フォスフォレッセンス」とは「燐光を発する」という意味の英語であり、実在しない花の名前であるという。太宰の掌編のタイトルになっていて、「死者の霊を祀る儀式との関連を匂わせて書いている」 フィリピンで朽ち果てた奥名修一の遺骨は燐光を発し、弔いを待っているにちがいない。玉川上水に消えた富栄と太宰の上を飛びかう蛍が発する光も、時代に翻弄された死として見れば「フォスフォレッセンス」と同じではないだろうか。玉川上水の情景と異国の山野とが、ひと知れずつながっているように思えてならない。
  一ファンとして松本侑子さんの著作を読み継いでいるが、この『恋の蛍』でまた新たな「松本侑子の世界」を見た思いがする。「赤毛のアン」ではアンの幸福の哲学を語ることで、読む者に勇気を与えてくれた。『恋の蛍』では時代の波に洗われる人間を描くことで、平和を希求する魂を伝えてくれたように思う。本書が「山崎富栄と太宰治」研究に新たな地平を開くとともに、一つの時代を証言する書物として長く読み継がれることを期待したい。
  

↓『小説宝石』連載中の感想は以下のとおりです。

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―最終回 恋の蛍』

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第5回 恋人、秘書、看護婦』

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第4回 戦争未亡人の美容師』

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第3回 銃後の妻』

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第2回 花嫁』

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第1回 父の愛娘』



↓玉川上水入水地点近くの太宰治の銘板(ブログ筆者撮影)
 「一九四八年(昭和二十三年)六月 太宰治は近くの玉川上水で自らその三十九年の生涯を終えた。」と記されているが「山崎富栄」の名はない。





 11月2日、本文他を若干修正。

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