「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『人間失格』

2008年08月22日 | Arts
『人間失格』(太宰治・著、集英社文庫)
  太宰治の名前を初めて聞いたのは、たぶん中学か高校の国語の時間だったと思う。教科書に載っていたのは『人間失格』ではなく『走れメロス』や『富嶽百景』だったはずだが、著者紹介欄のところにでていたのか教師の口から聞いたのか(あるいはもっと後だったかもしれないが)、『人間失格』とはずいぶん直截なタイトルだなと思ったような記憶がある。初めて見る太宰の写真は、いい男(恋愛事件をたびたびおこしたからか、太宰は「いい男」と言われることが多いようだ)かと聞かれると判断に困るが、少なくとも不細工な顔立ちには見えなかった。いまあらためて見直してみると、日活だの大映だのという邦画全盛期のころの二枚目スター(特定の誰というわけではないのだが)に似ていなくもない。太宰といえばやはり玉川上水での入水自殺(情死)だ。女性を道連れにしての自殺は、とくに若いころは扇情的に思え、太宰と真っ先に結びつくキーワードだった。ところが『人間失格』がこの事件の遺書のようなものだと言われているとは、恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。太宰治はそれくらい自分の読書の視野に入ってくることはなかった。先日読んだばかりの『草食系男子の恋愛学』で、この『人間失格』が「草食系男子の読書案内」の最後に載っていた。著者の森岡正博さんいわく、「恋愛を語るなら読んでおくべき名作」と。草食系男子の恋愛とどのような関わりがあるのか、その興味から太宰の『人間失格』を初めて手にとった。
  読み始めてすぐに感じたのは葉蔵の自虐さだ。ここまで自虐的になれるものだろうか。そんなに自分を虐めなくともと思ってしまう。ところが読み進めていくうちに、葉蔵の生きざまは自分と地続きかもしれないと思えてきた。ちがうのは葉蔵が、いや太宰があまりに繊細すぎるということだ。「恥の多い生涯を送って」きたのは自分のほうかもしれない。世間に対して自分を素のままで出して生きている人間などいるだろうか。他人に対して自分の本当の本心を語る人間がはたしているだろうか。たいていの人間は自分の素を出さずに欺き、本心を隠して生きていることが当たり前になっている。しかし太宰は自分に忠実であろうとする。だから葉蔵は「道化」を恥だと捉える。本当は「道化」を恥だとも思わない人間こそが恥なのだ。太宰の思いは理解できるが、葉蔵のように自分を破滅に追いやるほどの気力は持ち合わせていない。太宰と自分との間には深い溝か高い壁が立ちはだかり、その前で甘んじて恥を受け入れている自分がいる。
  世の中の誰もが「道化」を演じているのに、自分の「道化」が見破られることには大きな恐怖感がつきまとう。だからといって「道化」なしで世間を渡ることも葛藤をさけられない。父親の教えにそむくことでもある。父親にとって男の子は分身ではなく、いわばコピーなのではないかと思う。自分が女性(母親)に産ませた男の子は自らの胎内から出てきたものではなく、あくまで他者的な存在だ。他者であるならば、その白紙に自分をコピーすることで父親としての自尊心を満足させることができるのだろう。一方、そうであるならば男の子にとっての父親もまた他者である。父親からのコピーに反発することが男の子の成育にとって最大の課題であり、それでも徐々にコピーを受け入れていくことが大人になることなのだろう。もちろんコピーとは基本的に「道化」を身につけていくことだ。社会的地位の高い父親は、それだけ上手に「道化」を演じてきたともいえる。そのためコピーしようとする圧力も、同時に反発しようとする力も大きくなる可能性があるように思う。反発すればするほど男の子は自分自身を引き裂かれていく。太宰と父親との関係もまたそうだったのではないだろうか。
  『人間失格』にはほとんど母親というものが出てこない。次々と関係をむすんでいく女性たちが出てくるだけだ。女性たちは葉蔵のことを放っておけないという。世間一般から見れば生活破綻したような男だ。女性は葉蔵に何を見ているのだろうか。本当のところわからないのだが、大人でありながらコピーされていない男、自分が産んだ分身としての白紙の男の子を女性は見ているのではないかと思う。母性本能をくすぐられると言ったりするが、それよりももっと根源的な女性の本能に根ざしているのかもしれない。恋愛は男性と女性とが対等に関係することだとすれば、葉蔵と女性たちの関係は男と女の関係にちがいはないが、正確には恋愛とはいえないものだろう。葉蔵は男性よりも女性のほうが数倍難解だという。女は男を引き寄せて突っ放すともいう。女性にとって男の子が分身ならば、どのように扱おうと手の内の話だ。男性の「道化」もすでに見破られているし、女性には何の役にも立たない。だから男性にとって女性はむずかしくもあり、怖くもあるのだろうと思う。森岡さんは『人間失格』をどのような意味で取り上げたのかよくわからないが、反面教師としての恋愛的な関係を考える一つのきっかけにはなったように思う。父親と男の子の関係を見直すという意味ではさらに得るところがあったといえる。
  『人間失格』は平明な文章でつづられている。だから一見読みやすい。しかし正確な理解はけっしてやさしくない。人によって感じるところや得ることが異なると言ってもいいだろう。数年後に読み返せばまたちがった感慨を持つかもしれない。そのときどのような思いを抱くかによって、心を映しだす鏡にもなるだろう。

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