「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

教養とは「Dare to know」である―『教養の書』

2022年02月20日 | Arts
☆『教養の書』(戸田山和久・著、筑摩書房)☆

  本書の第21章「ライティングの秘訣」に文章を書く前に考えておくべきことがらとして8項目が挙げられている。その1番目が「これから書く文章の目的は何か」、2番目が「その相手は誰か、どういう人か」である。これから書こうとしている(いま現に書いている)この文章に当てはめると、1番目は、できるだけ多くの人たちにこの『教養の書』を読んでもらいたいからで、2番目は、この『教養の書』をまだ読んでいない人、あるいは読み始めたけど途中で投げ出してしまった人ということになる。付け加えておくが、ライティングと教養とがどう関係するのかと思う人は、ぜひ本書を読むべきである。さらに付け加えておくが、「読み書き」は教養を身につける前提となる重要なツールだからくらいの認識で、ライティングと教養の関係がわかったつもりでいるならば、やはり本書を読むべきである。
  さて、本書が想定している読者のメインは大学新入生や現役大学生である。しかし、著者も書いているように高校生や背伸びした中学生、そして大人も想定内である。とおに中年を通り越して、高齢者の仲間入りを果たしてしまったわたしからすれば、大人こそ読むべき本であると思う。昨今というより、昔から教養云々と言いたがる大人は多い。大人に比べれば、たぶん「tabula rasa」に近い状態である思われる大学生や子どもたちに、大人が誤った教養概念を植え付けることは害毒を与えるようなものだ。その根源を絶つには、やはり大人が真の教養について知るべきだろう。つまり大人には解毒剤が必要なのだ。解毒剤は時に劇薬だったりするので、苦痛を伴うことは覚悟すべきである。
  あなたが大人ならば、大人でなくても「教養がない」などと言われたことのある子どもたちも、自分なりに「教養とは何か?」について考えを持っているだろうと思う。わたしもそうだった。しかし、あなたが(そして過去のわたしが)考えていた「教養」は本書で説かれている教養とは、たぶんちがっている。あなたが考えていた「教養」は、本書で説かれている教養の部分集合であるかもしれないが、それ以上に本質的に異なっている可能性があるように思う。
  わたしたちは「教養がある人」「教養がない人」とよく言うが、「ある」「なし」の二分法で判断できる存在ではないように思う。いま「存在」と書いたが、教養とは「はい、これです」と言って見せることができるものではないし、そもそも固定的なものではない。固体のように凝り固まったものではないし、気体のようにとらえどころのないものでもない。こう書くと想像がつくと思うが、流れる水、それも高みへと昇っていく水のようなイメージ(≠実体)として、わたしは教養を捉えた。
  著者の戸田山和久さんは科学哲学を専門とする研究者である。もともと科学史や科学哲学に興味を持っていたので、戸田山さんの名前はずいぶん前から知っていた。知っているだけではなくて、戸田山さんの著書にもお世話になった。『科学哲学の冒険』は某所で授業をやったときのネタ本の一つだった。『論文の教室』(読んだのは旧版で、いまは新版が出ている)もネタ本になったが、それ以前に、自分が論文モドキを書くのに非常に役立った。
  ところで、二十年近く前のことだが、ある知人が戸田山さんを「傲慢で無礼な人間」(ひょっとしたら冗談半分で)のように言っていたことがある。わたしはもちろん戸田山さんにお会いしたことはないが、その知人は何らかのかたちで戸田山さんを知っていたのだろうと思う。知人の評価からすれば、戸田山さんは「教養がない人」ということになるのかもしれない。もしわたしが知人と同じ立場になって、同じ感覚、同じ気持ちになったとしても、戸田山さんの著書の評価を下げようとは思わない(知人も戸田山さんの著書については何も言っていなかったと思う)。
  著書は、その著者の人間性と結び付いているだろうが、人間性というものは一面的に捉え得るものではないだろう。多面的だし常に変化しているはずだ。人間性が多面的で常に変化しているならば、人間性と結び付いている教養もまた多面的で常に変化していると捉えるべきだろう。ところが、多くの人たちは、人間(とくに他者についての人間性の判断)であれ教養であれ、一面的に捉え、早く答えに辿り着こうとする。世が世だけに、その傾向は強くなる一方である。
  もし、この『教養の書』を読み始めて、教養に至る道があまりに迂遠に思えてきて、途中で読むことを放棄したとすれば、真の教養について知る機会(可能性)を自ら捨てたことになると思う。いや、それ以上に、その行為自体が教養のあるなしに関わるのではないだろうか。もちろん「教養の書」はこの『教養の書』だけではないだろう。しかし、本書は教養について最も的確に答えてくれた書物であった。わたしはそう思っている。
  最後は(そしてタイトルも)、戸田山さんが書いている「最高にカッコいい標語」で締めくくろうと思う。教養とは「Dare to know」である。高校生ならばすぐ訳せるだろうし、わからなくても辞書で調べれば簡単に訳せるだろう。でも、そんな訳では意味がない。そこで留まってしまうから「教養がない」と言われてしまうのだ。なぜかって? それを知りたければ本書を読むしかない!(戸田山さんから裏金をもらっているわけじゃないよ…それにしても、少なからず戸田山さんが憑依したような文章を書いているなと思う)

  



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