「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

真摯な愛情―『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』

2010年03月02日 | Science
☆『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』(遠藤秀紀・著、光文社新書)☆

  「愛を独り占めにした鳥」とは不思議なタイトルである。主語はもちろん「ニワトリ」だろうが、誰の「愛を独り占めにした」というのだろうか。そもそもタイトルだけ見たとき、どんなジャンルの本なのか迷うような気がする。著者の遠藤秀紀さんは「遺体科学」を提唱するれっきとした科学者である。本書も科学書の範疇に入るのだろうが、ニワトリの解剖学、形態学、生態学を切り口にして、話題は分子遺伝学、畜産学、民俗学、文化論など広範囲にわたる。ちょっとしたニワトリ百科の趣さえ感じられる。しかし、遠藤さんの思いはただ一つ、なにゆえにニワトリはこれほどまでに人に愛されたのか、その解明である。読者はまず、人の「愛を独り占めにした」ニワトリの祖先であるセキショクヤケイを求める旅へと誘われる。
  旅はロマンというが、ニワトリの「愛される理由」を求める旅は必ずしも感傷に浸るような旅ではない。鶏肉や鶏卵を直接的にしろ間接的にしろ口にしない日本人はほとんど皆無だろう。鶏肉や鶏卵はあまりに身近な存在であり、著者の言葉を借りれば「空気化」している。ところが一方でニワトリを目にする機会はほとんどない。スーパーの陳列に並ぶ前のニワトリの生死など、気に留めることもない。産卵のための強制換羽やブロイラーと総称される肉用鶏の寿命が50日であることなど、徹底した合理主義の生産現場を遠藤さんは淡々と描写していくが、筆致が安っぽい感傷に向かうことはない。日常的にニワトリを消費している現代人が知っておくべき現実を伝えようとする姿勢は、むしろ清々しく感じる。
  家畜は食用や人間の労力の代替として用いられるだけのものではない。愛玩や宗教儀礼、威信のための家畜もありうる。食用などの経済的合理性とは一線を画する家畜化を、遠藤さんは「心のエネルギー」という概念を想定して説明を試みる。「心のエネルギー」とは人の心の止むに止まれぬ動きとでもいうべきものだ。闘鶏や鳴き声の競演、優美な、あるいは物珍しい形態をニワトリに求めて育種する人の心の動きは合理的な理解を拒む。いわば趣味の世界である。以前『いのちの食べかた』という映画を見た目には、生産現場の合理性は推測できないものではなかった。しかし、非合理の育種は誠にもって新鮮な驚きの連続だった。
  セキショクヤケイはけっして家畜化に適した鳥ではなかった。それにもかかわらず、いまニワトリは世界で110億を数える。そこまで人間に愛された理由は、セキショクヤケイが人間の「多彩で高度で深遠で、時に理解不可能なほど繊細な精神的欲求に、唯一応え得る多芸さを持ち合わせていた」からだと遠藤さんはいう。しかし、話はそれで終わらない。ニワトリに対する保護施策の提言、家畜研究における分子遺伝学偏重の指摘、インフルエンザ騒動での行政や政治に対する批判など、話は尽きない。
  ここで「遠藤さん」を「遠藤先生」と言い換えさせていただく。ほんの数回、時間を合わせても10時間にも満たかったかもしれないが、遠藤先生から一種の講義を受けたことがある。講義自体は実に楽しかったが、プロをめざす学生に対しては厳しい姿勢で臨まれる方だった。とはいえ、無理難題を押し付けるような厳しさではなく、学生が真摯に対応すれば、厳しさの中に愛情を見て取ることができた。
  本書でのさまざまな批判も、批判のための批判ではない。ニワトリと人間との八千年の歴史を見据えた上で、ニワトリと人間との関係やニワトリ学の将来を憂い、ニワトリ(家畜)やニワトリ学(科学)に対する真摯な愛情の発露であるように思う。掲載写真の、セキショクヤケイを手の中に抱く遠藤先生は実に嬉しそうである。本書を手に取った人は、ニワトリに関するウンチクだけでなく、遠藤先生の表情に隠された真摯な愛情も読み取ってほしいものである。
  

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