「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

多様性の世界へと開かれていく中高生たちの夏―『この夏の星を見る』

2023年07月14日 | Arts
☆『この夏の星を見る』(辻村深月・著、角川書店、2023年)☆

  2020年の春のことを思い返してみた。ずいぶん前のような気もするし、ついこのあいだのような感覚もある。新型コロナウィルスが日本でも広がりはじめたこととはまったく無関係に、この年の3月で職から離れた。それ以来、コロナ禍とも呼ばれる波が繰り返されるのと相まって、買い物や散歩に出る以外、ほとんど家にこもって日々を過ごしてきた。
  時間に密度というものがあるとすれば、この3年間はとても薄い密度の時間を過ごしてきたような感覚になる。あるいは、時間の密度が変化することなく、のっぺりとした時が過ぎ去っていくのを見ていただけのような気もする。仕事もなく、人と会うこともなくなると、時間の経過も平板になってくるものだ。
  最初の緊急事態宣言が発出されたとき、ほとんどすべての学校が休校となった。そのニュースを見ながら、いつも通勤する列車内で見かける高校生たちの顔が思い浮かんだ。田舎の路線を走る1両編成の列車内で数十分だけ時間を共有した生徒たち。言葉を交わすこともないし、もちろん名前も知らない。それでも、今日もあの子がいるなと確認するだけで、少し安心した心持ちになる。
  通勤の必要がなくなり、顔を合わすこともなくなった高校生たちは、いまどうしているのだろうか。あれからどんな時間を過ごしてきたのだろうか。卒業式や入学式、授業や試験、部活のイベントや試合、そして進学や就職などなど、コロナ禍で思うに任せなかったことはさまざまあったはずだ。公的なイベントだけではない。家族や友だちとの関わり合い、人生の恋する季節さえこれまでとは様子が異なってしまった。本当ならばイベントにあふれている年代なのに、密度の薄い時間を強いられてきたにちがいない。
  この物語に登場する高校生や中学生たちも同じだ。茨城、東京、長崎の五島列島に住む中高生たちが、最初は緩いつながりでしかなかった輪をさらに大きく外へと広げていく。中高生たちがつながり、集う舞台は星空。舞台に登場する大道具は「空気望遠鏡」と「ナスミス式望遠鏡」。背後で支える大人たちのキャラクターも個性的で、大事な役回りを担っている。
  もちろん星の知識や望遠鏡の構造など知らなくても、物語は支障なく楽しめる。知らない方がおもしろいかもしれない。そもそも登場人物たちは、みんながみんな最初から星が好きだったり天文オタクだったりするわけではない。そこが、この小説のキモ(肝)だと思う。同じ趣味の人間が集まるだけでは、物語はここまで広がらなかったにちがいない。
  星空だけでなく、それぞれの郷土に特有な事物も輪を広げる手助けになっている。星空の世界は多様性に満ちているが、地域に住む人たちにとって見慣れた風景も、緩くつながることで外界へと広がり、多様性の世界へと開かれていく。そして最終的に人間の多様性へと物語は着地していくように見える。
  辻村深月さんの小説(著書)を読むのは今回が初めて。若い中高生たちの心理描写がとても細やかで、自らの想いと重ね合わす若い人も多いのではないだろうか。逆に、青春時代など半世紀も前の高齢者からすれば、いまの若者は物事をこんなふうに捉え、人間関係もこんなふうに築くのかと、とても新鮮に感じる。
  本書を読んでいて1カ所だけオヤッ?と思ったところがある。371ページ、真宙が天音に向かって言うセリフで「北斗七星にある1等星を確実に入れてから」という記述がある。しかし、北斗七星を作っている7つの星のうち6つが2等星で1つだけが3等星である。北斗七星に1等星はない。北斗七星を含む「おおぐま座」にも1等星はない。
  科学書ではなく小説なのだから、あまり目くじらを立てる必要はないかもしれない。しかし、天文部の活動や星の観測が重要なモチーフになっているので、北斗七星にも1等星があると、まちがって覚えてもらうのはちょっと困る。だから、天文や星空に興味を持つ一人として、この点だけは正しておきたいと思った。
  この件は辻村深月さんの思い違いなのだろうか。それとも、何らかの意図や伏線があったのに見落としてしまったのだろうか。いずれにしても、この一点を持って、この小説の価値が下がるものではないことを強調しておきたい。
  この物語のメインイベントである「スターキャッチコンテスト」は2020年8月21日に開催されたことになっている。たまたまだが、同年8月24日(19時38分)に「夏の大三角」と「アルビレオ」を撮影した写真があったので載せておこうと思う。この物語がきっかけとなって「この夏の星を見る」人が一人でも増えてくれることを願って。

          

  


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