脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

社会人になってからの住まい(^。^)少しずつ向上?

2017年09月12日 19時10分17秒 | 住む
子供の頃の住まいは親の影響しかありませんが大人になり社会人として働くようになると収入増加に比例して住まいの環境も良くなりました(^。^)
ヒラ社員の間は1DKの狭いマンション。風呂とトイレは別なものの着替えるスペースはありませんでした。設備も全然よくありません。暗い部屋。
支店長に昇進する少し前に3DKの部屋へ引越しました。未だヒラ社員でしたが、そこそこ年収も上がり妻も働いてましたので(^。^)
4階建鉄筋コンクリート造りの3階に移ったのです。少し通勤は遠くなりましたが近鉄国分駅徒歩3分(^。^)新築で入居したのです。やはり新築は気持ちいいですね。引越しした2、3ヶ月後に支店長昇進の内示を頂き私も漸く、まともな生活と環境を手に入れる?予定ではございました。が?中々、人生は厳しいのです。詳しくは後ほど。
この新築マンションは賃貸で家賃は昭和60年当時で65000円。公庫で建てていたマンションらしく敷金は家賃の3ヶ月分でした。当時の賃貸マンションの初期費用は数十万円必要でしたから割安感満載(^。^)26歳の秋でした。ダイニング、居間、和室と寝室全て六畳あり、お風呂も最新システム(^。^)
遮音性も良好(^。^)
ま、ただ国分駅周辺と八尾駅周辺では違いが大きく利便性は劣りました。静かな環境ではありましたが。それまで車も買えなく我慢し妻の兄から、タダで貰ったトヨタカリーナを下取りに中古ですがトヨタのクレスタという車を買ったのも、この頃です。確か150万円くらいしたかなぁ(^。^)
住まいとクルマ(^。^)そして少しずつ生活に潤いが出た頃に大きな出来事があったのです。
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小学校から団地ッ子(^。^)その2

2017年09月12日 15時38分17秒 | 住む
大阪市内から大阪府寝屋川市という場所へ引っ越した家族(^。^)京阪香里園駅からバスで15分ほど。
成田山を通り、当時は団地の中までバスは通りませんでした。『田舎やなぁ〜。』これが私の第1印象(^。^)たくさんの団地がありました。
府営、公社、公団。公団は賃貸と分譲があり団地と戸建が共に立ち並ぶ小さなニュータウンみたいな街でした。近くには竹山もあり小学生の時は筍を取りにも行きましたね(^。^)
当時は自然が豊かで野うさぎやイタチも見かけたり昆虫はクワガタや蝉、トンボはいっぱい(^。^)
子供の頃は親の状況で住まいは決まります。
小学校から社会人になり1回目の結婚をする23歳まで団地で住んでいました。
住み始めた小学生の頃の団地は中流家庭の象徴みたいでしてが日本が豊かにぬるにつれ脱、団地みたいな。周りはマンションや戸建へとステップアップして少しずつ入れ替わりが始まったのです。私の父も寿司店をするか?家を買うか?迷った時期があったのですが結局、自分の夢を優先しお店を始めましたが1年後、店は潰れ、そのまま団地住まいとなったのです。私が小学校六年生の頃でした。その頃から私は戸建持家を意識し始め新聞の不動産折込チラシの間取など興味深く見始めたのです。『大人になったら絶対に家を買う!』その思いは常に持ち続けていたのでした。
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社会人になってからの住まい(^。^)その1 昇進して少し綺麗な場所へ。

2017年09月12日 15時36分37秒 | 住む
19歳で経理専門学校を卒業(^。^)その後、フリーターから転職を繰り返し23歳で結婚と同時に親から独立(^。^)初めて借りたマンションは京阪萱島駅徒歩8分の場所にある古いマンションを借りました。
なんと、プロパンガス(>_<)家賃も安かったから当然です。マンションと言っても全く高級感どころか築古の小汚いマンション。1DKの小さな部屋での新婚生活をスタートしたのです(^。^)
しかし、数ヶ月で引っ越すことになりました。当時の妻が、どーしても実家の近くに!という事になり大阪府八尾市へと引越しました。余分なお金を使ったもんです。妻の実家は近鉄八尾駅の直ぐ南側。私達は山本高校近くにある、やはり1DKのマンションへ。ここのマンションの欠点は、とにかく暗いのです。窓はキッチンの前にある窓だけ。だから昼間でも電気を付けないと生活出来ません(>_<)家賃は32000円。隣はビンボーの子沢山。日曜日はギャーギャーと煩いし(>_<)
マンションの場所は割合も治安の良いところなので環境は悪くなかったのですが。
休みの日は、しょっちゅう妻の実家で晩御飯を食べる始末(>_<)ほんとお世話になりました。
義父も義母も人の良い方で、若い私達にはご飯くらいと🍚とにかく食べることには困る事はありません。夫婦で原付バイクで数分。
ここに約2年ほどでしたかね。八尾市堤町の1DK。
Googleマップで見たら、未だマンションはありました。近くの喫茶店から、よく出前も取りました。懐かしいなぁ。26歳の秋まで住んでいました。そして私が支店長に昇進して『少し広いマンションへ引っ越そう!』となり更に南下して柏原市国分へと引越したのです。
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小学校から団地ッ子(^。^)その1

2017年09月12日 12時51分45秒 | 住む
昭和40年4月 晴れて小学生になった私(^。^)
1年生の1学期の途中に転校とあいなりました。
市内の団地へ引っ越すことに。2Kの間取(^。^)
六畳二間にキッチンとトイレ。それも洋式!
『もう、寒い日に家から出てトイレに行かなくても済む!』それだけで幸せでした(^。^)
共同トイレは昼もなんとなく暗く、夜になると絶対に行きたくなかったから私は尿瓶で取ってもらってました。トイレが家の中にある!ホント、それだけで幸せ。お風呂はありませんでしたが団地の近くに銭湯が♨️ありましたから。公園もあり近くの田んぼや川へ行って、トンボやカエルを捕まえたり🐸(^。^)
小学校四年生の1学期の途中『引っ越すぞー!』父が一言。『1学期は今の学校やけど二学期から新しい学校や。また団体やけど部屋が3つに今度は風呂もあるぞ!おまけに新築や!』父は上機嫌に話すのでした。
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幼少期は四畳半一間のアパート(^。^)

2017年09月12日 12時43分16秒 | 住む
人生を振り返ると住まいは人生に大きく何かを刻んでくるんだと思うのです(^。^)
私は物心付いた3歳〜小学校1年の1学期途中まで
大阪市城東区のアパートに住んでいました。
四畳半一間(^。^)トイレは共同。お風呂は無し。
そんなアパートは二階建ての20室ほど。
私の家族は一階5号室。今でも部屋の号室を覚えているのは印象が深かったりんでしょね(^。^)
前後20年にもならない当時の日本は未だ未だ貧しく、そんなアパートの入居者の殆どは家族で住んでいました。今では中々、見ないです。
廊下には三輪車や、子供のおもちゃが置いてあったり(^。^)東京オリンピックが開催されてのは私が5歳の時でした。
これから日本は世界第2位の経済大国へと発展していくのです。
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