町工場 職人の声

職人と現場人間の想いを誰かに伝えたい!

トキのひな

2012年04月24日 | 自然や動物
【雄3歳、雌2歳のペアの巣で22日に1羽、23日に2羽が確認された。大きさなどから見て2羽は生後1週間程度、1羽は2~3日とみられるという。野生環境での十分な餌の確保が課題となるが、巣の周辺には餌場となる水田もあり、親鳥がドジョウなどを捕っているという。

 計3羽が同時に確認できたのは、23日に巣の近くに設置していたビデオカメラに映っていた約13時間に及ぶ映像の中で、最も小さなひなが首を上げたほんの一瞬だった。】

佐渡でトキのひなが生まれた。誕生と聞いてなぜか楽しくなりました。
この調子で順調に増える事を願います。トキも良いけど農業毒薬で小動
物が殺されないような農業が広がるとさらに嬉しい。

現代は昆虫や動物を程度を超えて殺しすぎていると思います。
セミの声さえ聞けないのは異常です。バッタやこおろぎが生きていても
良いと思うのです。死に絶えれば鳥さえ絶滅していく事になる。

工学的安全率と情緒的安全感

2012年04月24日 | エネルギー自立
エネルギー源の選択やエネルギー設備に対して単に安全という言葉を
使う人は二つを区別せずに混同しています。いくら論議を重ね考えて
もまともで適切な判断に基づく計画が策定されない理由なのです。

我々は二つの概念を明確かつ数量的に基本として認識する必要がある。
工学的安全率とは何か?力学による考察を例に上げれば設計で想定す
る外力に対して部品や設備が耐えられる数値に対する余裕の大きさ。

つまり想定応力が1トンの場合に部材強度が5トンなら安全率5となる。
部材強度が2トンなら安全率は2となります。力学以外の電気などの
考察も同じような計算に基づく安全率が決まります。工学的安全率と

いう概念で安全を確保できる条件とは何か?言うまでも無く想定応力
と部材強度が正しい事。部材強度については技術の進歩によりかなり
正確に測定できておりほぼ設計水準を満たしています。

問題は想定応力です。これを間違えると安全率が低下して場合により
部材や設備の破壊に至ります。想定応力を1トンと想定したのに6トン
の応力が加われば容易に破壊されます。自然から受ける応力を正確に

予想する事は難しい。そこに論争が起こり工学判断を後回しにした力
関係による応力数値の決定がされる。地震による応力数値の想定など
が良い例です。設備を安く作ろうと考えながら安全率を高くするには

数値の不適切を不問にし想定応力をどんどん小さい値とする。すると
当然、安全率は跳ね上がる。1トンで安全率5ならば100キロと想定すれ
ば安全率は50となるのです。現実の原発で行なわれたのはこういう

誤魔化しによる安全率。津波を3メートルと想定しているのもこう言
う理由です。原発計算は先に安全率を高く決める。しかし建設金額の
都合が在る。つじつまをどこで合わせたかと言えば30メートル津波

という想定応力を3メートルと変えた。これで安全率は10倍です。
30メートル津波を十分予想していながらも想定津波が3の理由です。
津波だけでなく地震や爆発に対しても同様の計算で安全率を高くした。

一般時の人達は安全率の数値を気にするかも知れないが想定応力を
気にする人は少ない。原発なら想定応力自体を秘密とする事も多い
ので外部の人間には安全率の適正を知る方法は無い・・・・

情緒的安全。言うまでも無く数値を根拠としない感覚的感情です。
たとえば暑さ15センチの鉄製容器だから安心と受け止める感情
の事です。普段の生活で見られないほどの強度を感じると安心する。

あるいは信頼している人だから安心するというものです。工学的
製造品をこれで判定したら正確どころか全く意味が無い。しかし
原発ではこういう情緒的安全を安全として説明してきた訳です。

三重の容器だから安全などと言うのは100%情緒的安全の例です。

エネルギー設備という現実の物体を考慮するには工学的安全率と
いう立場を取らねば正確で適切な判断はできません。
想定応力がつまり設計応力が正しいかを監視するべきなのです。

普通の言葉だと、その前提は正しいのか? これが安全の根本。

猫に餌

2012年04月24日 | 自然や動物
【22日午後10時25分頃、横浜市緑区東本郷の市道で、近くの無職浅野きくさん(74)が、同区の男子大学生(19)の原付きバイクにはねられ、搬送先の病院で死亡】

猫に餌をやろうとしゃがんでいたのですね。こんな夜中に餌を与える
理由はたぶん昼間だと周囲の人達が餌やり行為を非難するからでしょう。
猫を餓死に追い込み猫を周囲から居なくさせようとする人がいます。

いつも思うのは猫が居なくなればネズミが増えるという当然の結果
を誰も主張しないのか?猫の好き嫌いなど自分の敷地内だけで行なえば
良いのに権利のごとく他の人や地域に要求するのは傲慢と思う。

歴史上、我日本国で猫を絶滅しようとした事を私は知らない。
たとえ猫に火がついて家に飛び込み燃え尽きても。赤ちゃんが猫に
窒息させられても地域全体の猫絶滅を先人はしなかった。

我家の周囲でも猫絶滅運動?は在る。猫に留まらずあらゆる動物が
絶滅対象と思えるぐらい進んでいる。昆虫はほぼ姿を消し当然鳥は
滅多に来ない。昔聞こえたセミの声は何年も聞いた事が無い。

墓場の様に動物の居ない死の世界。人間だけが生きている・・・
人間だけを動物の音もしない世界で見ているのは圧迫感が在る。
自分の敷地外の猫ぐらい生かしていても良い。