サンパウロの庶民的生活

わたしの半径1メートル以内で考えたことや感じたことをつづってみようと思います。

心あるポルトガル語を伝えるために

2014-05-24 05:45:13 | Weblog
 普段、適当に今日は寒いですね~レベルの会話をするポルトガル語は特に問題ない。至って上辺だけの会話では、悩むこともない。伝えたいというよりは、独り言に近かったりする。
 それが、熱い思い入れのある個人的にお世話になったポルトガル語を母語とするブラジル人に対して、丁寧なお礼状を書くとなると、いざ、作文を書いてみると、なんて機械的なポルトガル語力しかないことに気づかされてしまった。
 意味は通じるけれど、ややもすれば機械の翻訳機レベル。
 日本語を母語、母国語とする人でも、ポルトガル語を母語とする人と毎日生活して、心ある会話をしている人なら、心あるポルトガル語表現も自然に身につくかもしれない。 でも、日本人の家庭で、ブラジルで生活しているとそうはいかない。磨けば比較的簡単に日本語力がアップすることはあっても、ポルトガル語は自発的な努力によってしか身につかない。
 多分、外国人と生活していてさえ、会話で交わされる言葉なんて言うのは、家族や慣れた人との暮らしの中では、ツーと言えばカー、お決まりの言葉でその場が流れていくものだから、会話だけで、心ある言葉、豊かな会話表現を身につけるのは、意識しなければ難しいかもしれない。ひとえに、近くで過ごす人に熱い思いがあるかに尽きると思う。
 お礼をしたい人は信仰深い人であると人から聞いた。それで、思い立ったかのように聖書の中に良い言葉の表現は見当たらないか、まずは日本語で探してみた。インスタント的にふと目に留まった言葉が、箴言17-22の一文だった。

 これをポルトガル語の聖書で見ると、下線部だった。

 特別に難しいポルトガル語ではないけれど、日本語でならともかく、ポルトガル語ですっと出てくる言葉でもない。でも、なかなか思いやりある豊かな表現で、ポルトガル語話者の人にも、心ある言葉として聞き入れられる表現のような気がした。
 結局、ヨーロッパの言葉や文化、表現のルーツには聖書は根深いものがあると思う。聖書を読まない人でも、生活の中でそこに由来する表現や様式が伝えられていると思う。日本人、日本語を母語、母国語とする人には骨の髄に身についていないものだと思う。
 心あるポルトガル語で伝える力を身につけるために、ポルトガル語の聖書を地道に読むのは必須かなとふと思った。
 高校生の時、なぜか一人の英語の先生が、個人的に英語と日本語の聖書をくれたことを思い出した。あの時の意味が今、ようやく分かるようになった気がする。
 

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