エホバの証人の下半身事情

厳格な性道徳を実践すると主張するエホバの証人。ほんとはどうなの?全部暴露しちゃいます。うらみつらみも全部ね。

血はあなたの命を救いますよ

2007-06-29 23:00:59 | 愚痴系
エホバの証人の「輸血拒否」という教義によって、救える命が救えなくなったり(医学的な意味で、)その結果に伴って家族を失う悲しみを受け入れなければならない人々がいたり、それを傍観する人たちに胸糞の悪い思いをさせたり・・・

「輸血拒否」によって得られるものはナニ???


清い良心???


楽園への切符???


殉教者としての名誉???


それらはすべてpriceless.お金で買えない価値がある・・・買えるものは○○○○カードで・・・




とまあ、凡人には理解不能な高尚な精神的な価値があるのかもしれませんね。




「命を賭してまで守るべき信仰の重さを知れ!


ある憲法学者の判例解説には、2000年の輸血拒否裁判の解説に上記の副題がつけられていました。

その判決は、「自己決定権」というものに関するものだったと思うんですが、その「自己決定権」とは、個人が一定の個人的事柄につき、公権力から干渉されることなく、自ら決定するコトが出来る権利をいうわけです。その中には輸血拒否の他に、自殺、家族の形成、避妊や堕胎、服装、髪型、喫煙、趣味・・・等が含まれています。

63歳のおばあさんが、どのような死に方を選ぶのか。
30年以上の「エホバの証人」としての歩みを全うするのか、それとも死に際に信仰を曲げて命根性の汚い卑怯者となるのか。

公判で、その63歳のおばあさんはこう言ったそうです。「無断で輸血されることは、レイプされるのと同じことです!!!」まあ、入れられたくないものを入れられるという意味においては同じかもしれませんね。その豊かな発想に「エホバの証人の下半身事情」的に感心します

確かに、「救命」(この件では延命)という大義の下に個人の信仰に基づく決定をゴミのように扱われ、「それだけはヤメテ!」という行為をされた末期がんの患者様は、かなりの精神的苦痛を味わったと思いますよ。しかも、別の病院で「無輸血手術」は出来ないと言われて転院した先での話しですからね。

このような事情の下では概ね判決には好意的な反応が出るでしょうね。

このおばあさんの判決に関しては、エホバの証人を忌み嫌っているelevenとしても妥当かなとオモイマス


さて


ここまでの話で、多くの読者は気付かれたかと思うのですが・・・

この判決は、エホバの証人としてというより、このおばあさんの個人的事情に依るところが大きいのではないか???という疑問がでてくると思います。

実際に前の記事の「輸血拒否による妊婦死亡」といった場合には、このおばあさんと同じ理屈が通用するとは限らないわけで、

子供を産める年齢の人が、「人はいずれ死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定できると言わざるを得ない」と言われても、死に様より大切な子育てという人としての義務が控えているだろ!!!と言うツッコミがいくらでも入ると思うんですよね。

さらに、手術しても治る保証のないガン摘出手術と、出産に伴う処置とでは、比較にならないのではないでしょうか。

そのようなわけで、ボクは2000年の判決を錦の御旗のようにして「輸血拒否」は法的に確立された権利なんだと主張する人々に強烈な違和感を感じるわけです。


確かに「輸血拒否」は法的に確立した権利ですよ。しかしそれは、前述のように自殺や避妊や堕胎、喫煙、趣味、服装、髪型といったものと同列のものなんですね。

つまり、人それぞれで、ある人には強烈な嫌悪感を抱かせて、決して人に勧められないもの。と言う感じでしょうか。

やりたいなら勝手にやれば・・・というものに過ぎると思います。


まあ勝手にやるのは構わないのですがね、あえておせっかいを焼くとすれば、「あなたは、本当にすべてを考慮したうえでそのような決定をしているのですか?」と訊いてみたいですね。


「命を賭してまで守るべき信仰の重さ」?????ハァ?????オマエハドコミテモノヲイッテイルンダ???

輸血拒否カード???医療上の免責証書???の記入風景を見ると、さすがの憲法学者も失笑を禁じえないと思いますよ

その記入はボクの知る限りでは、1,2月の書籍研究でやっていたと思うんですが、集会中に死んだ魚のような目をしている主婦とか、昼間はイッパイエッチしてきた女子高生の信者とか(集会中はもちろん爆睡)根性のひねくれた幹部とか、そんなのが集会終わったとたんに入り乱れて、「証人」になってね、とかいってハンコもらって歩くんですからね。ちなみにボクは、ひねくれた幹部に「証人」を拒否されましたよ(今となっては有難いですけど)

さらに継続的委任状(正式名称は失念)???となればさらに滑稽です。いろいろな項目に{うけいれる}{うけいれない}とサインする様式だったと思うのですが、ある女性信者は「eleven兄弟、どっちにサインしたら良いのでしょうか?」と尋ねてきました。「あなたの良心に基づいて決定すべきですよ」と言うと「わからないから聞いているんです!」だとさ・・・
また、初期の様式には「臓器提供」の欄があったと記憶しているんですが、ボクの母は「臓器提供?気持ち悪いからしない」と言ってサインしていました。

ほとんどの場合において、命がけで信仰を守るという気概が全く感じられない風景だと思います。

そんなのが、イザとなったら「輸血できません」とか、未成年の子供にでさえ「死んでも輸血はしないで!」なんて言うんですからね

トホホ・・・

ボクの知る限りでは「命がけで信仰を守る」という生き方を貫いている人は皆無ですね。知っている人いたら紹介してください。

2000年の裁判のおばあさんはよほど特殊な人だったのでしょうか???

とまあ、そんな特殊な人のマネをしてもせいぜい恥をかくのですから、素直にお医者様の言うことを聞きましょう。

生兵法はケガの元ですよ。

たぶん続く












エホバの証人の下半身事情的ユケツのススメ

2007-06-20 21:26:59 | 事件系
本日6月20日は、わたくしelevenにとって、人生で忘れてはならない日、最も記憶に残すべき日???いや、とっとと忘れた方がいい日????

つまりは記念日なわけです。

それは「エホバの証人の一員ではないことを公にした日」です。

あれから1/20世紀。いまはつくづく辞めて良かったとオモイマス。

特に帝王切開の妊婦輸血拒否し死亡などの記事をみると強くそうオモイマス。

本日の北海道新聞の朝刊にも、同様の記事が出ていました。すべての記事に共通ですが、最後には、2000年の最高裁判決のコトが出ていますね。

判決の要旨は「輸血拒否は、憲法13条で認められている幸福追求権の一部を構成する自己決定権の一つであり、権利として認められる」ということだと思います。(ボクは法律の素人ですので突っ込まないでね)

でも、この判決だけをもってして、エホバの証人の輸血拒否をすべて論じる事は出来ないと思うんですよね。ましてや上の事件のように、妊婦が出産の際に輸血拒否をし、その結果として生命が奪われることは、あってはならないことだと思います。

というのも、2000年の判決は、エホバの証人側に有利な状況が揃っていましたし、最高裁で勝つという算段が、エホバの証人側にあったからこそ提起されたわけで、なんとなく出来レースっぽい感じがしなくも無いんですね。

もし、今回の妊婦さんが輸血をされて、裁判にかけたら2000年判決と同じ結果が出たかは微妙なとこだと思います(おねがいだから突っ込まないで・・・)

例の2000年判決の原告のおばあさんは、当時63歳で、ガンで余命1年と診断されていましたし、ガン摘出の手術をしても、治癒を保障できるものではなかったわけでして、「まあどうせ死ぬなら自分の望む死に様を選びなさいよ、すべての権力はあなたの意思を尊重しますよ」と裁判所は言いたかったのだと思います。しかも、判決の中でそのような自己決定は、公序良俗に反するものでは無いとも言っています。

まあ、63歳のおばあさんが、ガンで死のうが生きようが、特に誰の迷惑になるわけでもありませんよね。何歳であろうとも、命の価値とが、生命の尊厳とかの重みは変わらないのでしょうが、社会全般の受ける印象や、具体的な損得の権利関係などからいうと、63歳のおばあさんは、死んでも誰にも迷惑かけない。と言えるかと思います。

そのように考えると、妊婦が出産時に出血し、輸血を拒否し死亡。ということとは、大分話がチガウとオモイマス。

妊婦の命が誰の命か?それはその腹の子のものです!!!胎児は母がいないと生きていけません。下界に出てもお乳が必要です。授乳に伴うスキンシップから愛着関係が形成されます。その愛着関係が、人としての社会に対する信頼関係の基礎となります。そうして、健全な社会人として育っていくわけでして、その人間の成長の基本中の基本の母子の関係を「輸血拒否」という「エホバの証人の教義」が奪ってしまったことについて、腹の底から煮えくり返るような思いがしています。

ですから妊婦の「輸血拒否」は、自己決定権の範疇に納まるものではなく、もっと公共性を帯びたものなのではないかと思っています。いわゆる公序良俗に反すると言っていいとオモイマス。

実際にエホバの証人の信者で、殉教者の残された子供の権利まで考えたことのある人がどれだけいるのでしょうか???「輸血拒否ばんざ~~~い」という熱病にやられて、現実から目を背けているだけではないですかね???

もし母がエホバの証人でなければ母のおっぱいを飲めた。
もし母がエホバの証人でなければ母にオムツを取り替えてもらえた。
もし母がエホバの証人でなければ手作りの離乳食を食べれた。
もし母がエホバの証人でなければ一緒に遠足に行けた。
もし母がエホバの証人でなければ入学式で喜んでもらえた。
もし母がエホバの証人でなければ卒業式に来てもらえた。
・・・
もし母がエホバの証人でなければ彼女を紹介できた。
もし母がエホバの証人でなければ結婚式で母への感謝の手紙を読めた。
もし母がエホバの証人でなければ可愛い孫を抱かせられた・・・。
・・・
・・・
もし母がエホバの証人でなければ母の顔を見れた。




なんと罪深い宗教でしょう「エホバの証人」

しばらくネタは尽きないようなので、このテーマで書きますよ~~~。



そういえばバプテスマ記念日

2007-06-07 22:43:00 | Weblog
5月26日は人生で最も記憶に残すべき日、神への献身を公にした日であります
1990年5月26日にわたくしelevenはいわゆる「バプテスマ」とやらを受けているんですね。当時16歳だったはずです。

若気の至りと言うか、親の半強制の元での決定でありまして、その決定が人生においてどのような意味を持つかなんて、ムラムラ盛りの16歳には知る由もありませんね。

バプテスマ会場は旭川市だったんですね。その帰りに美瑛の丘に登ってキレイな景色を眺めたんですけど、その景観を見ながら一番思ったのが、「大変なことをしてしまった!」と言うことです。ボクは根がマジメですから(笑)約束はなるべく果たそうとするんですね。それで果たしてボクはクリスチャンとしてちゃんとやっていけるのだろうか?と考えたわけです

ナゼそのような不安に駆られたかと言いますと、オナニーが止められなかったからです(爆)まあ、バプテスマの2週間前くらいから禁欲してましたがね。

再開したのが1週間後です


まあ、そんなノリで始まった正規信者の道ですが、ボクの尊敬する人のブログに「エホ2世は生まれつきバプを受けているのと一緒である」と言う意見が書かれていましたが、全くその通りですね

実際にその浸礼の儀式によって得たモノといえば親の満足感、優越感。だけですね。あと、それに伴う懲戒への現実的な恐怖感でしょうか。

しちゃいけないこととか、しなければならないこととかは、もう幼児の頃から知っているわけですし、それなりに強制されてしているわけですね。

ですから、浸礼の儀式なんて何の意味も無いですね。「排斥」とか「断絶」といった非人道的な懲戒制度が現実味を帯びる前提条件という意味合いしかないんじゃないでしょうか

もし今、バプをうけようかどうしようか悩んでいる人がいれば、(こんなブログ見ていないとオモイマスガ)受けない方がいいと思いますよ。どうしても受けたいんだったらそんなもん人生下り坂になってから受けてもいいわけですからね。

人生を楽しむ環境にあるのでしたら、こんなエホバの証人のようなくだらない宗教にかかわるよりも比べ物にならないくらいハッピーな世界が世の中にはイッパイありますからね。

くれぐれも早まらないで頂きたい

自分の経験上それは強く思いますね



こんな記事を2週間後に書く自分は・・・。ほとんどバプの記憶が薄れてるんじゃ・・・。


はい


只今、社会復帰に向けて精力的に励んでいるところでありまして、くだらない宗教にかかわっている暇などありません(笑)