エホバの証人の「輸血拒否」という教義によって、救える命が救えなくなったり(医学的な意味で、)その結果に伴って家族を失う悲しみを受け入れなければならない人々がいたり、それを傍観する人たちに胸糞の悪い思いをさせたり・・・。
「輸血拒否」によって得られるものはナニ???
清い良心???
楽園への切符???
殉教者としての名誉???
それらはすべてpriceless.お金で買えない価値がある・・・買えるものは○○○○カードで・・・。
とまあ、凡人には理解不能な高尚な精神的な価値があるのかもしれませんね。
「命を賭してまで守るべき信仰の重さを知れ!」
ある憲法学者の判例解説には、2000年の輸血拒否裁判の解説に上記の副題がつけられていました。
その判決は、「自己決定権」というものに関するものだったと思うんですが、その「自己決定権」とは、個人が一定の個人的事柄につき、公権力から干渉されることなく、自ら決定するコトが出来る権利をいうわけです。その中には輸血拒否の他に、自殺、家族の形成、避妊や堕胎、服装、髪型、喫煙、趣味・・・等が含まれています。
63歳のおばあさんが、どのような死に方を選ぶのか。
30年以上の「エホバの証人」としての歩みを全うするのか、それとも死に際に信仰を曲げて命根性の汚い卑怯者となるのか。
公判で、その63歳のおばあさんはこう言ったそうです。「無断で輸血されることは、レイプされるのと同じことです!!!」まあ、入れられたくないものを入れられるという意味においては同じかもしれませんね。その豊かな発想に「エホバの証人の下半身事情」的に感心します。
確かに、「救命」(この件では延命)という大義の下に個人の信仰に基づく決定をゴミのように扱われ、「それだけはヤメテ!」という行為をされた末期がんの患者様は、かなりの精神的苦痛を味わったと思いますよ。しかも、別の病院で「無輸血手術」は出来ないと言われて転院した先での話しですからね。
このような事情の下では概ね判決には好意的な反応が出るでしょうね。
このおばあさんの判決に関しては、エホバの証人を忌み嫌っているelevenとしても妥当かなとオモイマス。
さて
ここまでの話で、多くの読者は気付かれたかと思うのですが・・・
この判決は、エホバの証人としてというより、このおばあさんの個人的事情に依るところが大きいのではないか???という疑問がでてくると思います。
実際に前の記事の「輸血拒否による妊婦死亡」といった場合には、このおばあさんと同じ理屈が通用するとは限らないわけで、
子供を産める年齢の人が、「人はいずれ死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定できると言わざるを得ない」と言われても、死に様より大切な子育てという人としての義務が控えているだろ!!!と言うツッコミがいくらでも入ると思うんですよね。
さらに、手術しても治る保証のないガン摘出手術と、出産に伴う処置とでは、比較にならないのではないでしょうか。
そのようなわけで、ボクは2000年の判決を錦の御旗のようにして「輸血拒否」は法的に確立された権利なんだと主張する人々に強烈な違和感を感じるわけです。
確かに「輸血拒否」は法的に確立した権利ですよ。しかしそれは、前述のように自殺や避妊や堕胎、喫煙、趣味、服装、髪型といったものと同列のものなんですね。
つまり、人それぞれで、ある人には強烈な嫌悪感を抱かせて、決して人に勧められないもの。と言う感じでしょうか。
やりたいなら勝手にやれば・・・というものに過ぎると思います。
まあ勝手にやるのは構わないのですがね、あえておせっかいを焼くとすれば、「あなたは、本当にすべてを考慮したうえでそのような決定をしているのですか?」と訊いてみたいですね。
「命を賭してまで守るべき信仰の重さ」?????ハァ?????オマエハドコミテモノヲイッテイルンダ???
輸血拒否カード???医療上の免責証書???の記入風景を見ると、さすがの憲法学者も失笑を禁じえないと思いますよ。
その記入はボクの知る限りでは、1,2月の書籍研究でやっていたと思うんですが、集会中に死んだ魚のような目をしている主婦とか、昼間はイッパイエッチしてきた女子高生の信者とか(集会中はもちろん爆睡)根性のひねくれた幹部とか、そんなのが集会終わったとたんに入り乱れて、「証人」になってね、とかいってハンコもらって歩くんですからね。ちなみにボクは、ひねくれた幹部に「証人」を拒否されましたよ(今となっては有難いですけど)
さらに継続的委任状(正式名称は失念)???となればさらに滑稽です。いろいろな項目に{うけいれる}{うけいれない}とサインする様式だったと思うのですが、ある女性信者は「eleven兄弟、どっちにサインしたら良いのでしょうか?」と尋ねてきました。「あなたの良心に基づいて決定すべきですよ」と言うと「わからないから聞いているんです!」だとさ・・・
また、初期の様式には「臓器提供」の欄があったと記憶しているんですが、ボクの母は「臓器提供?気持ち悪いからしない」と言ってサインしていました。
ほとんどの場合において、命がけで信仰を守るという気概が全く感じられない風景だと思います。
そんなのが、イザとなったら「輸血できません」とか、未成年の子供にでさえ「死んでも輸血はしないで!」なんて言うんですからね。
トホホ・・・
ボクの知る限りでは「命がけで信仰を守る」という生き方を貫いている人は皆無ですね。知っている人いたら紹介してください。
2000年の裁判のおばあさんはよほど特殊な人だったのでしょうか???
とまあ、そんな特殊な人のマネをしてもせいぜい恥をかくのですから、素直にお医者様の言うことを聞きましょう。
生兵法はケガの元ですよ。
たぶん続く。
「輸血拒否」によって得られるものはナニ???
清い良心???
楽園への切符???
殉教者としての名誉???
それらはすべてpriceless.お金で買えない価値がある・・・買えるものは○○○○カードで・・・。
とまあ、凡人には理解不能な高尚な精神的な価値があるのかもしれませんね。
「命を賭してまで守るべき信仰の重さを知れ!」
ある憲法学者の判例解説には、2000年の輸血拒否裁判の解説に上記の副題がつけられていました。
その判決は、「自己決定権」というものに関するものだったと思うんですが、その「自己決定権」とは、個人が一定の個人的事柄につき、公権力から干渉されることなく、自ら決定するコトが出来る権利をいうわけです。その中には輸血拒否の他に、自殺、家族の形成、避妊や堕胎、服装、髪型、喫煙、趣味・・・等が含まれています。
63歳のおばあさんが、どのような死に方を選ぶのか。
30年以上の「エホバの証人」としての歩みを全うするのか、それとも死に際に信仰を曲げて命根性の汚い卑怯者となるのか。
公判で、その63歳のおばあさんはこう言ったそうです。「無断で輸血されることは、レイプされるのと同じことです!!!」まあ、入れられたくないものを入れられるという意味においては同じかもしれませんね。その豊かな発想に「エホバの証人の下半身事情」的に感心します。
確かに、「救命」(この件では延命)という大義の下に個人の信仰に基づく決定をゴミのように扱われ、「それだけはヤメテ!」という行為をされた末期がんの患者様は、かなりの精神的苦痛を味わったと思いますよ。しかも、別の病院で「無輸血手術」は出来ないと言われて転院した先での話しですからね。
このような事情の下では概ね判決には好意的な反応が出るでしょうね。
このおばあさんの判決に関しては、エホバの証人を忌み嫌っているelevenとしても妥当かなとオモイマス。
さて
ここまでの話で、多くの読者は気付かれたかと思うのですが・・・
この判決は、エホバの証人としてというより、このおばあさんの個人的事情に依るところが大きいのではないか???という疑問がでてくると思います。
実際に前の記事の「輸血拒否による妊婦死亡」といった場合には、このおばあさんと同じ理屈が通用するとは限らないわけで、
子供を産める年齢の人が、「人はいずれ死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定できると言わざるを得ない」と言われても、死に様より大切な子育てという人としての義務が控えているだろ!!!と言うツッコミがいくらでも入ると思うんですよね。
さらに、手術しても治る保証のないガン摘出手術と、出産に伴う処置とでは、比較にならないのではないでしょうか。
そのようなわけで、ボクは2000年の判決を錦の御旗のようにして「輸血拒否」は法的に確立された権利なんだと主張する人々に強烈な違和感を感じるわけです。
確かに「輸血拒否」は法的に確立した権利ですよ。しかしそれは、前述のように自殺や避妊や堕胎、喫煙、趣味、服装、髪型といったものと同列のものなんですね。
つまり、人それぞれで、ある人には強烈な嫌悪感を抱かせて、決して人に勧められないもの。と言う感じでしょうか。
やりたいなら勝手にやれば・・・というものに過ぎると思います。
まあ勝手にやるのは構わないのですがね、あえておせっかいを焼くとすれば、「あなたは、本当にすべてを考慮したうえでそのような決定をしているのですか?」と訊いてみたいですね。
「命を賭してまで守るべき信仰の重さ」?????ハァ?????オマエハドコミテモノヲイッテイルンダ???
輸血拒否カード???医療上の免責証書???の記入風景を見ると、さすがの憲法学者も失笑を禁じえないと思いますよ。
その記入はボクの知る限りでは、1,2月の書籍研究でやっていたと思うんですが、集会中に死んだ魚のような目をしている主婦とか、昼間はイッパイエッチしてきた女子高生の信者とか(集会中はもちろん爆睡)根性のひねくれた幹部とか、そんなのが集会終わったとたんに入り乱れて、「証人」になってね、とかいってハンコもらって歩くんですからね。ちなみにボクは、ひねくれた幹部に「証人」を拒否されましたよ(今となっては有難いですけど)
さらに継続的委任状(正式名称は失念)???となればさらに滑稽です。いろいろな項目に{うけいれる}{うけいれない}とサインする様式だったと思うのですが、ある女性信者は「eleven兄弟、どっちにサインしたら良いのでしょうか?」と尋ねてきました。「あなたの良心に基づいて決定すべきですよ」と言うと「わからないから聞いているんです!」だとさ・・・
また、初期の様式には「臓器提供」の欄があったと記憶しているんですが、ボクの母は「臓器提供?気持ち悪いからしない」と言ってサインしていました。
ほとんどの場合において、命がけで信仰を守るという気概が全く感じられない風景だと思います。
そんなのが、イザとなったら「輸血できません」とか、未成年の子供にでさえ「死んでも輸血はしないで!」なんて言うんですからね。
トホホ・・・
ボクの知る限りでは「命がけで信仰を守る」という生き方を貫いている人は皆無ですね。知っている人いたら紹介してください。
2000年の裁判のおばあさんはよほど特殊な人だったのでしょうか???
とまあ、そんな特殊な人のマネをしてもせいぜい恥をかくのですから、素直にお医者様の言うことを聞きましょう。
生兵法はケガの元ですよ。
たぶん続く。
命がけで、信仰を貫いて、死んだ信者をみた事がない人は多いようですが、わたしは、母の様に慕った姉妹、姉の様に慕った姉妹2人共、輸血拒否で、なくしてしまいました。
二人共親は、熱心な、仏教徒でした。信仰は命がけなものです、生き方がそういう人たちは違います。本当に試される質の信仰があればとっくにそういう選択させられて家族が、信者なら自殺行為でも見殺しにされるでしょう。
私は、二人の死をみて踏み絵を21世紀の現代、いまだにやっていると思いました。しかも政府によって出なくJW自身でです。JWには希望はないと思いました。宗教の名のもとにテロをやっている人、帰りの燃料も持たずに敵の軍艦に突っ込んだ人間魚雷、火の玉特攻隊・・・・みな同じです。身近にそんなものを知らないで良かったですね。
くだらないですこんな信仰。家族の為に生きて、生きて、生き抜いて行く方が責任のある生き方だと思います。どんなに不名誉でもね。そういう神権家族が出てくればいいのにね。
コメントありがとうございます。ボクは、輸血拒否で亡くなった人は、殉教者だとも、信仰に生きた人だともオモイマセン。命を粗末にする単なるバカだと思っています。キチガイといっても良いでしょう。
本来こうしてネタにするのも忌々しいと思っています。
エホ側の方便で、人権問題となり、憲法問題となったに過ぎず、通常では考えられない思考パターンを舌先三寸で巧みに言い換えただけでしょう。
身内に輸血拒否で、亡くなった方をお持ちの方には大変申し訳ないのですが、ボクはそう強く思っています。
特攻隊とか、人間魚雷とか、アルカイダとかは、また別次元だと思います。