エホバの証人の下半身事情

厳格な性道徳を実践すると主張するエホバの証人。ほんとはどうなの?全部暴露しちゃいます。うらみつらみも全部ね。

排斥の罪

2014-06-08 19:12:37 | Weblog
 とってもお久しぶりです.
 ブログから離れていた理由としては,なんだかんだと忙しいとか,言い訳してみたくなるけど,ホントのところは「エホ」なんてどうでもいいっていう心境になったのかな???
 でも,何度も言っているように,身内の大半がエホなので,親類が老いてきたり,自分の子供の成長に伴って,エホにまつわるいろんな問題が発生したりと,やっぱり忌まわしい「エホ」と関わらなくてはならなくて,心労が絶えないのがホントのところです.
 さて,今日のタイトルですが,自分は,最近のエホ系ブログなんぞは一切見ないので,他の人がどんな論調でエホを批判しているのかは知る由も無いのですが,かつて,自分が脱会したころ,今から10年ほど前には,何件かのブログを見ていたこともあるので,その頃の印象で言うと,とっても「攻撃的」!!!
なにを隠そう(隠してはいないが・・・)一番攻撃的なのはボクのブログだったりもするんですがね.だってタイトルからもケンカ売ってるっぽいでしょ.今日も「忌まわしい」とか言っちゃってるし.
 そこで,なんでみんなはそんなに怒ってるんかいな???ということを書いてみようと思ったわけです.
 ところで,このブログを見てくれている人は,「エホ」の団体から,いわゆる「排斥」になった人が多いと思うんですが,「排斥」になってなんか良いことあったんでしょうか?
 また,「エホ」の方から見ると,なんか良いことあったんでしょうか.
 それこそ建前上は組織防衛のために必要だとか,悔い改めに導くだとか,「愛」の取り決めということになっているのですが,ホントはどうなんでしょうかね.「排斥」されたわれわれも,「排斥」したエホ信者たちも本当に良い事あったんですかね???
 と,いうことを,とある刑事政策系の雑誌を見ていたらふと思ったわけです.
 その記事は「排斥と暴力」という題だったんですが,無差別殺人などの,社会に対する復讐心を動機とする犯罪や,ストーカーなどの歪んだ感情を動機とする犯罪については,いずれも社会や人間関係から「排斥」されたという気持ちから自暴自棄になったために起きているらしいです.また,社会的排斥と攻撃性には相関関係があるそうです.いろんな実験では,概ね「排斥」が不適応行動を導くことを示しており,原因としては,自己制御意欲の低下であるとの説が有力ですが,その点を説明する説として「黙契説」というのがいうのがあるらしく,これは,人々の自己制御を支える信念に関する理論だそうですが,人間というのは,周りと協力し合い適応するには,個人的な欲求や感情を抑える必要があるんですが,みんながそうやって自己を制御するなら,ハッピーな世の中になるんでしょうが,それはお互いが「利己心を抑え,適応的な行動を取るならば,世の中はそれに報いてくれるであろう」という信念を持っており,これに従って自己制御がおこなわれるというのが「黙契説」らしいです.
 それで,「排斥」すなわち受容の拒否は,この暗黙の契約に対する裏切りと感じられるから,「努力しても,どうせ報われない」と思った時,人は我慢して自己制御する必要はないと感じ,自暴自棄になるというのが黙契説の主張だそうです.
 その説を自分たちに当てはめると,理由はともあれ,「排斥」されたのですから,もはや「エホ」団体になんの遠慮もいらないわけで,今まで溜めていたものを吐き出すことが許されると思ってしまったわけです.親に対しても同じ理屈が当てはまったのかもしれません.どうせ何をしても,世間的に親孝行といわれるようなことをしても,どうせ報われない,都合悪くなったら「排斥者」だからといって拒否される.ならばどうにでもなれ.と思ったとしても不思議ではありません.実は「エホ」側も同じ心境だったと考えられます.親も,うちらにもはや何もしても報われないと思って,邪険に扱うのかもしれません
 つまり,「排斥」で得られるものは何も無いのです.破壊的な影響しかないのです.排斥とやらのシステムのある団体に入ったのはだれの責任でしょうか???
それが自分であれば自分を呪いましょう.でもほとんどの人は生得的に,気づいたらそんな忌まわしい団体に入っていたとオモイマス.だからといって処方薬は無いのですがね.
今日は何となく書いてみたかったので書きました
次はいつになるかわからないですが,気が向いたら書きます.