遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

大手拓次再読3田中勲

2019-11-01 | 近・現代詩人論


前号の続きです。

陶器製のあをい鴉
なめらかな母音をつつんでそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。        (「陶器の鴉」)

神よ、太洋をとびきる鳥よ、
神よ、凡ての実在を正しくおくものよ、
ああ、わたしの盲の肉体よ滅亡せよ、       (「枯木の馬」)

ある日なまけものの幽霊が
感奮して魔王の黒い黒い電動の建築に従事した。          (「なまけものの幽霊」)

かなしみよ、
なんともいへない、深いふかい春のかなしみよ、
やせほそつた幹に春はたうとうふうはりした生き物のかなしみをつけた。 (「春のかなしみ」)

もじゃもじゃとたれた髪の毛、
あをいあばたの鼻、
細い眼が奥からのぞいてゐる。                   (「笛をふく墓鬼」)

灰色の蛙の背中にのつた死が、
まづしいひげをそよがせながら
そしてわらひながら、                    (「蛙にのつた死の老爺」)

わたしは足をみがく男である。
誰のともしれない、しろいやはらかな足を磨いてゐる。  
そのなめらかな甲の手ざわりは、      (「足をみがく男」)

にほい袋をかくしてゐるやうな春の憂鬱よ、
なぜそんなに あたしのせなかをたたくのか、
うすむらさくのヒヤシンスのなかにひそむ憂鬱よ、        (「つめたい春の憂鬱」)



 それぞれが詩の冒頭の二、三行目である。タイトルの新鮮さとひらがなのつらなりが、ぬめるような表現で異常な世界の入りたつ読者をさそうことになるのだろう。どちらかというえば、否定的なマイナーな状況を演出している詩的想像力が逆説的な関係において現実的には成立することを証明しているのではないか。大手拓次は群馬県碓氷群西上磯部村(源・安中市)磯部温泉旅館・蓬莱館ノイエにうまれた(一八八七年十一月三日生ー一九三四年四月十八日没)安中中学校から高崎中学校、早稲田大学第三高校予科を経て早稲田大学文学部英文科卒。卒論「私の象徴詩論」。生涯独身をとおす。四十七歳の生涯を茅ヶ崎南湖院で静かに終えた。生前は一冊の詩集も出版していない。死後に終生の友逸見享によって編まれた。また大学お卒業後しばらくしてライオン歯磨きに就職し生涯をすごすことになる。

瀧口修造の美術評論について

2019-10-30 | 心に響く今日の名言
 瀧口修造は戦後まもなく美術評論を再開。新人作家の支援にあけくれたり、五ヶ月間の渡欧旅行で、ダリ、デュシャン、ブルトンらに会う。ところで私には瀧口氏の履歴を読みながら、なぜ詩をかかなくなったのか。なぜ詩から遠ざかったのだろうという疑問がずっとあった。詩集では『寸秒夢』(思潮社刊、七五年二月)『三夢三話』(書肆山田刊、八〇年二月)が刊行されたが、書法も当然初期の詩とは違ったものであった。


 『三夢三話』のなかの最後の夢の中では、二十歳前に二度ほど黒部の上流の鐘釣あたりにきたことが書いてあるが、これもどこまでが事実かわからない。ただ、造形作家の戸村浩夫妻の最初の子供の名付け親になって「虹」となづけたが、区役所で「人名漢字」にないということで断られることから「虹の石または石の虹」という夢によって償われたという作者のおもいこみもまた夢であるかもしれないと思う。夢の中の夢のような散文詩。どこかことばに裏切られながらことばを夢みる。あるいは夢にさえも裏切られる身振りの底にひたすら幻影を追いかけるひとの孤独を感じる。だからこそ、〈偶発的な像〉のざわめきを手放すことはなかったのだと思いたい。
 六十年代後半から瀧口氏は文章を書くのを嫌って発表されなくなる。このことについて先述の東野芳明氏は講演のなかでつぎのようにのべている。
「瀧口さん自身が一九六一年のある時評に突然そういうことを宣言されました。美術評論家として他人の作品のことばかり書いてきたが、いったい自分はどうなっているのだ。ジャーナリズムに文章を発表することで何かを表現していくことへの反省、嫌悪感というものが出てくる。瀧口さんの沈黙。空白の時期です。」
 美術評論について書かないという理由は何となくわかったようにおもったが、詩については今ひとつよくわからなかった。と同時に言葉に対する考えが変わった本当の契機が理解できないでいた。しかし、東野氏の講演でその疑問が解けたような気がした。それは、
「後になって考えると、瀧口さんの最初で最後のヨーロッパ旅行は、瀧口さんにとってシュールレアリズムの具体的な運動というより、ダダの生き証人たちを訪ねあるいた旅でした(略)そこで瀧口さんにとって内部的な一つの大きな変革があったようです。また、僕は、瀧口さんがミショーという人は、素晴らしい詩人で、同時に絵も描いています。ミショーは言葉というものが自分だけの創造物ではなく、他者と共有し汚れている部分がたくさんある。それを承知の上で使っていると語りました。ミショーが言葉にぶつかり言葉に絶望して、言語を超えたものとして一方で絵を描いた。それを知ったことが、瀧口さんにとってきっかけだったと思います。」


大手拓次再読2田中勲

2019-10-27 | 近・現代詩人論
近代詩人論は最近は余り活発ではない。いま、詩人論は時代から外れてしまってみむきもされなくなったのかもしれない。
でも、続けていくと決めているので、宜しくお願いします。


森の宝庫の寝間に
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。
太陽の隠し子のやうにひよわの少年は
   美しい葡萄のような眼を持って、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の狩人はやはらかいカンガルウの網靴に。 (「藍色の蟇」全行)



 この詩は萩原朔太郎との感覚的な類似を思い起こす。あえていえばこのことは朔太郎自身が自らの詩集『黒猫』には彼からの啓示によるところが多いことを認めている。この「藍色の蟇」のスタイルの特異性は作者の特異性というか、内面の生活自体の特異性に基づいているようである。他人との接触を好まないという性格は、終生なおらなかった模様だ。


 「藍色の蟇」では、森はたしかに動植物にとっては宝庫といえるだろうか。藍色という発想も詩人らしい。藍色の蟇は、作者の想像物だと思うが、蝦蟇という一見、背中がぶつぶつ突起した気味の悪い生物と一般的には嫌われやすい生物と思うがその「蟇」に何を夢見ようとしたのか。黄色い息を吐く、ということで、視覚が嗅覚へと写り「ひつの絵模様をかく」とふたたび視覚の世界を呼び覚ます。それはまた「暗い暖炉」に火をつけて暖をとるといったほのぼのとした安堵感をもたらす意味につながっていく。この詩の主人公である「太陽の隠し子のようなひよわな少年」は、作者のことと受け止めることも出来るが、行くよ行くよと勇ましくではなく、いさましげである。「空想の狩人」をひ弱な少年はひきつれて狩り出かけるというのか。太陽の隠し子である少年は「美しい葡萄のような眼を持つ」といわれて、ふと短歌の春日井健の「未成年」が脳裏をよぎった。


 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり         春日井健
旅に来て惹かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子     右同じ

大手拓次より四分の一世紀後の歌人が二十歳の時に発表し三島由紀夫に絶賛されたという短歌を振り返える。大手拓次が生涯妻を娶らなかったということが、童貞という春日井健のみずみずしい歌をふりむかせた。だがこの歌は大手拓次はしるよしもない。私の勝手な想像でしかないのだが、白秋を深く敬愛し、白秋の歌誌に作品を発表し続けた十五年という歳月、おどろくことには、ただのいちども訪れたことがないという極端に顔みしりなのか、内気な性格が、憂鬱な幻想の世界で夢想にみちびかれ、ただひとり詩を書き続けることに何の悔いるところがなかったのだろう。逆に言えば詩作しつづけることの強靱な意志の強さを感じることになる。大手拓次の詩の世界を鮎川信夫は次のようにのべている。

「性的抑圧者に特有の官能への執拗なもだえを秘めており、そこに純血なものに焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義とが同居していて、その世界をいやがうえにも特異なものにしている」。

 つまり「純血に焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義」が同居しているということである。
大手拓次の詩的世界は、病的な異常感覚の世界に見えるということだろう。だが異常の世界を異端者として非難するつもりはまったくない。

 それどころか閉ざされた幻想の世界でじっと耐えるように自らの詩的世界をつむぐ。耐えるということばをつかったが、大手拓次は耐えることが苦痛ではなく、ひとり孤独の部屋でたとえば、美しいみどりの蛇の妄想とたわむれていたというまえに、大学を卒業するまで美少年を愛し続けたと云うことと無関係ではないのだろうか。

大手拓次再読1田中勲

2019-10-24 | 近・現代詩人論
今日から大手拓次をすこしつづけます。

 夢想とは夢の中に神仏の示現のあること、心に思うあてのないこと。だから夢想は一瞬の儚い揺らめきを、あるいは一連の恒久的持続を要求したりするものなのか。


わたしには他愛ない空想からとびだす希有な歓喜の一瞬さえも、他人のことばでしか見えない世界があった。ひさしぶりに大手拓次の詩集を読んで、もう三十年前に初めて呼んだ頃とは違って全くつまらないと思って通過していものが、急に足止めにあう。あの頃はなぜか、萩原朔太郎の詩と比べても内閉的で特異な情感と意味の通らないグロテクな感覚についていけなかったのかのしれない。

大手拓次が詩を書き始めた頃の同時代的、世相をふりかえると、昭和七年いわゆる「坂田山心中」が社会的な話題になり、慶応大学理財科三年在学中の調所五郎が恋人の湯山八重子と大磯の通称八郎山で心中した。当時の新聞によると心中事態の報道は扱いも小さくひともめを引くものではなかった。ところがその翌日、大磯法善院に火葬された八重子の死体が盗まれ墓地から少し離れたところから全裸のまま砂まみれで発見され、事件は一転して猟奇な様相を呈する。犯人は橋本長吉という火葬人夫。結末は女性が処女のままであったことが証明されプラトニックラブとして新聞紙上で大きく取り上げられることになる。東京日々新聞は見出しに「天国に結ぶ恋」となづけ、坂田山心中として社会的に映画や流行歌となった。また昭和十一年には阿部定事件がおこりこれも大きな話題として報じられた。ところが映画は後年になってから制作されたが、歌や映画の世界では無縁であった。また坂田山で同じ心中した人々は二十組もあった。昭和四年から自殺者が急増していることは統計がしめしている。その背景には世界不況に巻き込まれた不景気が影響している。東北地方にみられた飢餓状態、子殺し、娘売り、または都会での失業者の行き倒れなど深刻な問題が起き起きていた時代である。

 大手拓次は同時代の世相など関係なくひたすら、ボードレールを読み、北原白秋の「ザムボア」「地上巡礼」などに作品を発表し続けていたのだろうか。昭和十一年十二月、アルス社から刊行された『藍色の蟇』は、やはり粘着的な感覚の故にか注目を浴びたという詩集である。


寺山修司私論5田中勲

2019-10-16 | 心に響く今日の名言

寺山修司は他人からあれこれと批判されることが大嫌いなひとだったという。
寺山修司は家族のことをよく書いている。寺山の父は警察官でアル中の対面恐怖症でどうしょうもない男だった。此も真実かどうかあいまいなのだが、「父は酔っては気持気が悪くなると、鉄道の線路まででかけていって嘔吐した。…私は車輪の下にへばりついて、遠い他国の町まではこばれていった「父の吐瀉物」を思い、なんだか胸が熱くなってくるのだった。」と書いている。
 このネット上の文章はまた「小学生担った頃、自分のへその緒をみせてもらった。貝殻のようなへその緒の入っている木の箱は、二月二十七日付けの朝日新聞につつまれていて、二・二六事件の記事のすぐその下には「誰でせう?」と大きな見出しの広告があり男装の麗人の写真が載っていた。二・二六事件の犯人は水の江滝子に間違いないと思って居た。(『誰か故郷を想わざる』)という。



この文章が本当か、嘘なのかを問うてみてもしかたのないこと。二・二六事件の青年将校と男装の麗人の写真をつきあわせるといった想像の取り合わせは一種の批判を伴っていて誰もが思いつかないような感覚のおもしろさが寺山修司のおもしろさでもある。

 母親を殺そうと思い立ってから
 李は牛の夢を見ることがおおくなった
青ざめた一頭の牛が
 眠っている胸に上を鈍いはやさで飛んでいるのを感じた
 とんでいると言うよりは浮かんでいるといった方がいいかも知れない
 ともかくその重さで
 汗びっしょりになって李は目ざめる
すると闇のなかで
 安堵しきった母親ヨシが寝息をたてているのが見える
 李はその母親をじっとみつめる
 こんどはたしかに夢ではなく現実なのに
 母親ヨシ乃顔が
 どこかやっぱり青ざめていた牛に似ているような気がするのでる
 そう思っているとふいに闇のむこうで
 連絡船の汽笛が鳴る
 こんなみうすぼらしい
こんなさみしい幸福について
もしおれがそっとこの部屋を抜けだしてしまったら
誰が質問にこたえてくれるだろう
 一体誰が?
 ああ 暗いな
と李は思う
 その李の頭上にギターがさかさまに吊られている

 これは北朝鮮の少年の母親殺しの記事を七二〇行の叙事詩にした「李庚順」の中の一節で或る。一年間「現代詩」に連載したあと、朗読会を持つ。この年は歌集『血と麦』を発表。いままでの猥雑な半ばいいがかりを完全否定するかのような、歌集である。他の追従を許さないみごとな言葉の疾走を展開することになる。

寺山修司私論④田中勲

2019-10-08 | 近・現代詩人論
 寺山修司が短歌の世界で精力的に活動したのは『チェホフ祭』でのデビューからの十年あまり、ほとんど三十歳までのあいだということになる。なぜ寺山は歌を捨てて二度と帰ることはなかったのだろう。歌の世界で、寺山修司が打ち出したのはわたしのことばにかえていえば歌の「仮装する私の世界」或いは寺山が言う「メタフィジックな私」を、わが国の短歌界では異端されつづけられて、たぶん寺山の世界観を認める者がいなかったということになるおのだろうか。おそらくそのことが寺山修司を短歌から手を引かせたことのひとつの要因だったのではないか。それともそんな単純なものではなかったのだろうか。


 本人の不在ないまそれを問うことは出来ないが、短歌から興味が消え失せていったのは、「私とは何か」という唯一の問いを短歌以外に向けていったのだというほかない。そうであるとして言葉の世界から演劇や映画の世界に眼ををむむけることになったのがなぜか。短歌の世界ではなしえなかった「仮装する複数の私」がそこでは実現できなかった。おそらく「仮装する複数の私」は映画、演劇の世界でなら実現することが出来ると信じたからではなかったろうか。
 当時前衛短歌の担い手として注目を浴びた塚本邦雄や岡井隆は、伝統短歌ときれているようで実はきれていないということに気づいたとしても不思議ではなかったろう。それはそれでいいのだが、寺山修司が歌を捨てた本当の訳は本人の言葉では「短歌をこのへんでやめないと私の本題ばかりにこだわって、歴史感覚の欠如した人間になってしまう」と感じたからだという。
 短歌はいくら自己を否定した歌をつくみたとしても結局は「自己肯定」になってしまう文学形式だと断じたからではないだろうか
そんな寺山修司は盗作問題が起きたのも不運なことの一つであった。
第一歌集の『空には本』の中の歌は「時事新報」の俳壇時報に指摘が現れて大騒動になったらしい。その証拠として先に記すが、手前が寺山の短歌で、その隣が本家の例である。

向日葵の下に饒舌高きかな人を問わずば自己なき男
・人を問わずば自己啼き男月見草(中村草田男)

わが天使なるやも知れぬ小雀を打ちて硝煙かぎつつ帰る
・わが天使なるやもしれず寒雀(西東三鬼)

わかきたる桶に肥料を充たすとき黒人悲歌は大地に沈む
・神の桜黒人悲歌は地に沈む(西東三鬼)

莨火を床に踏み消して立ちあがるチェホフ祭の若き俳優
・燭の火を莨火としつチェホフ祭(中村草田男)

莨火を樹にすり消して立ちあがる孤児にさむき追憶はあり
・寒き眼の孤児達の単身たちあがる(秋元不死男)

 これらの「盗作」についてては「時事新報」の俳句時評を当時は私は実際に読んでいないのだが、この件については「編集工学」の松岡正剛氏は次のように書いている。
「寺山さんをデビューさせた「短歌研究」編集長の中井英夫さんも、当時をふりかえって余りに俳句に無知だったと顧みています。しかし、ぼくは盗作大いに結構、引用大いに結構という立場です。だいたい何をもって盗作というかによるのですが、古今、新小今はそれ(本歌取り)をこそ真骨頂としていたわけですし、そうでなくと人間が使う言葉の大半は盗作総合作用だというべきで、むしろどれほどみごとな引用適用作用がおこったかということこそが、あえて議論や評価の対象になるべきではないかとおもうくらいです。」
だが松岡氏がなんとといおうと、世間ではやはりこれを盗作というのであろうし、作者自身の良心が一番知っていることであったろうと思う。

寺山修司私論③田中勲

2019-10-03 | 近・現代詩人論
 寺山修司は二十九歳の時生い立ちの悪夢を永い叙事詩にまとめた。{地獄変と題したこの作品は、ほぼ二年がかりで四千行を超えるものになって、短歌の部分だけはまとめ歌集「田園に死す」として出版。詩の部分は再度整理しこの仕事にのめり込むことになる。三十才の時には次のような詩を書いた。

 
血が冷たい鉄道ならば/はしり抜けてゆく汽車はいつかは心臓をとおることだろう。
同じ時代の誰かれが/血を穿つさびしいひびきをあとにして/私はクリフォード・
  ブラウンの旅行案内の/最後のページをめくる男だ/私の心臓の荒野をめざして/
たったレコード一枚分の永いお別れもま/いいではにですか/自意識過剰な頭痛の霧
  のなかをまっしぐらに/曲の名は Take the A-train/そうだA列車で行こう
  それがだめだったらはしってゆこうよ

 寺山修司が死の前年「朝日新聞」に発表した作品。珍しい出来事で詩の読者はこの事を待っていた。

 昭和中年十二月十日
   ぼくは不完全な死体として生まれ
   何十年かかつて/完全な死体となるのである
   そのときが来たら
   ぼくは思いあたるだろう
   青森市浦町橋本の
   ちいさな陽あたりのいい家の庭で
   外に向かって育ちすぎた桜の木が
   内部から成長をはじめるときが来たことを

   子供の頃、ぼくは/汽車の口まねが上手かった
   ぼくは
   世界の果てが
   自分自身の夢のなかにしかないことを
   知っていたのだ (「懐かしの我が家」前編)

寺山修司が久しぶりに書いた詩であった。大方の人の目には新鮮に映ったものと思う。
寺山修司について何か書こうとするとどんどん遠くなっていくような気がする。すべては過去の出来事
だから当然と言えば当然のことなのだろう。

寺山修司私論②田中勲

2019-10-02 | 近・現代詩人論
 寺山修司の歌集からの連想が〈非在のふるさと〉に思いを馳せることになる。
寺山修司は「私は一九三八年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれる。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。」(「汽笛」)と書いているが、信じていいかどうかわたしの疑いははれていない。


この二つの誕生日をあちこちで書いていてどれが本当なのかわからない。そのうえくりかえし書きつづる「少年時代」を読むたびに当時はとまどっていたが、嘘も真実の一部だと思い知るまでもなく、またたくまに映画や演劇、「天井桟敷」など、寺山修司の疾風怒濤の時代の波にまかれていたのではないかと思う。寺山修司は新宿の「きーよ」(ジャズ喫茶)によく行っていたというが私は新宿でも「汀」が多かったので出合うことがなかった。残念な気がするが、いや、どこかで出合っているような気もしてくる。半世紀も前のこと、今更ながら有りもしないことがあったように思いかえされるのが、寺山修司なのかもしれない。こんな妄想もつい最近、ユーチューブで黒柳徹子との対談を(輝子の部屋)の偶然見たからであろうか。(笑わない寺山に黒柳徹子は寺山の笑った顔が可愛い、だからもっと笑いなさいよと、いわれた寺山がはにかみ笑っていた。ユーチューブでは映画『田園に死す』などが観ることもできるし、タモリの寺山修司の物まねも見ることが出来る。傑作である。) 
 寺山作品の魅力にとりつかれた若者がいまも大勢いる。

それはつねに弱いものや敗者に身を寄せる寺山の柔らかな感性が、自分を阻害させていると感じやすい青春期の若い人々の共感を呼ぶからか。「ほんとうの自分なんかありはしない。いくつも他人の言葉や遺伝子や情報の集合体でしかなく、仮面を付けて自分を演じつづけているだけなのだ。」と言う寺山の断言に、現実と仮想現実の境界さえあいまいなままで揺れている現代人の共鳴するところだろうか。寺山自身の辛い境涯をあえて虚構でしか語らぬ彼に畏敬に近い思いを抱くことになるのだ。 
かつて詩人の谷川俊太郎は、寺山修司についてつぎのように書いた。
「寺山は、いろいろなものをもっている。東北なまりをもっている。四年間の病歴をもっている。六コのサイコロと三組のトランプをもっている。ネルソン・オルグレンの小説とラングストン・ヒューズの詩集をもっている。女についての無限の好奇心をもっている。人世についての無数の観念をもっている。野心と、人一倍旺盛な嫉妬心をもっている……。」

 寺山修司は「目をつむるとあの日の夕焼けが浮かんでくる。私の町――それはもはや〈この世に存在しない町〉だ。サローヤンではないが男の経験の大部分は〈思い出のよくないことばかり〉なのだ。だが、ひどく曖昧になって、消えかかるものを、洗濯箱の一番下から古いシャツをひっぱり出すように―もう一度ひっぱりだしてみることも、また、私のたのしみの一つでもあるような気がする。」と書く。 「きえかかるものをひっぱりだす」といように過去をたどりはじめながら〈この世に存在しない町〉
だけど思い出のにだけ存在する町はたしかにあったのだろう。夕焼けの町という美しい幻想の時間帯にはサーカスのジンタのもの哀しい音色に乗せて、少女の蛇人間や、一寸法師のピエロが呼び込む見世物小屋。暗闇の中で胸をときめかせたスクリーンの懐かしさは、少年寺山修司を夢中にさせた「この世に存在しない」もう一つの世界であった。

再び、寺山修司私論 ① 田中勲

2019-09-28 | 近・現代詩人論

 寺山修司が出現する一九五四年までの歌壇は、「沈滞を進化と勘違いするほどに長老が絶対権を持ったであった。」と言う中井英夫が見いだした寺山修司の出現は「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりにアフロディテめく奇蹟の生誕であった」といわしめている。それからの四十七才でこの世を去るまでは、まるで約束されたような病身でありながらの孤独のランナーとして、俳句、短歌、現代詩をはじめ、映画、演劇、ときに競馬、ボクシング、そして「天井桟敷」とあらゆる文化芸術を網羅するようにサブカルの世界もつきぬけていった一瞬の偉大な旋風であったといいかえてもいいだろうか。
十二、三歳で俳句を作りその後、短歌へとすすんだ寺山修司の才能の開花はそれを発掘したという中井英夫の力ばかりとはいえない気がしてくるだろう。


森駆けてきてほてりたるわが?をうずめんとするに紫陽花くらし
空豆の殻一せいに鳴る夕母につながる我のソネット
夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
国土を蹴って駆けりしラクビー群のひとりのためにシャツを編む母
蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき
雲雀のすこしにじみそわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌
失いし言葉かえさん青空のつめたき小鳥打ち落とすごと
わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして

これらは高校生のころの作品だが、無心の美しさが心を打つ。同時に読者である私たちの少年時代をも仄かに照らす夢淡きランプである、と選者の中井英夫を賞賛させた投稿作品の一部である。この作品からは五月の風にはにかみながらも聡明で感受性豊かな少年の颯爽とした姿が確実にこのむねにとどく。いまにおもえば当時はパソコンなどのまだ無い時代、どのように溢れる思いの言葉をノートなどに書きつづっていたのだろうか。
これまで刊行された歌集は次のとおりである。

『われに五月を』 昭和三十二年一月・作品社刊。(短歌の外、詩、俳句等収録)
『空には本』  昭和三十三年六月・的場書房刊。(第一歌集)
『血と麦』  昭和三十七年七月・白玉書房刊。
『田園に死す』  昭和四十年八月・白玉書房刊。
『寺山修司全歌集』昭和四十六年一月・風土社・刊。(前期の作品すべてと、未完詩集           「テーブルの上の荒野』を収録)

 いま、寺山修司の第一歌集『空には本』(五八年発行)を久しぶりにめくりながら発行の当時は気がつかなかったが、麦藁帽子がモチーフとなっている短歌には不思議とふるさとのにおいがした。
 今でこそ「私」を仮装する寺山の手法を通して短歌を詠むことができるが、当時はその短歌に寺山の少年時代をにょにつな事実として読んでいた気がする。たぶん虚構によって触れる真実の深さを知るにはあまりにも稚拙な世界にとりまかれていたのかもしれない。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
夏帽のへこみやしきを膝にのせてわが放浪はバスになじみき
わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦藁帽子被りて眠る
麦藁帽子を野に忘れきし夏美ゆえ平らに胸に手をのせ眠る
列車にて遠く見ている向日葵は少年の振る帽子のごとし
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らん

 麦藁帽子が少年時代の郷愁を呼び込む世代はもう少ないだろう。戦後の少年たちもすっかり年齢をとったけれど、唄は永遠に年を取らないからだろうか、古い詩や小説の中へ引き戻されることがある。
 堀辰雄の短編小説「麦藁帽子」(淡い恋の物語)や芥川龍之介の「麦わら帽子」(「侏儒の言葉」の文章)もあるが、一番心に残っているのは西条八十の「帽子」と立原道造の「麦藁帽子」がある。中でも西条八十の詩は角川映画『人間の証明』の重要なモチーフになっていて、その主題歌を歌ったジョー中山が一躍脚光をあびた。


母さん、ぼくのあの帽子どうしたでしょうね?
ええ、夏の碓氷から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ
ぼくはあのときずいぶんくやしかった
だけどいきなり風がふいてきたもんだから、
(略)
母さん、本当にあの帽子どうなったんでせう?
そのとき傍に咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったですね
そして、秋には灰色の霧が丘をこめ
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。 
    (略)                ( 西条八十「帽子」)

主演は岡田茉莉子と松田優作であったが、後に松田優作の追悼のために歌ったジョー山中も二〇一一年八月には永眠、享年六四才であった。この映画は二〇〇一年には渡辺謙、二〇〇四年に竹野内豊によってそれぞれリメークされている。

立原道造ノート5

2019-09-26 | 近・現代詩人論
立原道造ノート (詩をめぐり)
        


立原道造が詩を書くようになるまでに短歌の時代について書いてきたが、詩を書くようになったのは堀辰雄に出ってからになるのだろうか。室生犀星やリルケ?夢中で読み、また三好達治の詩?好んだともいわれているが、添えにしてもわたしにしては啄木の影響がおおきかったのではないかと思われる、それは内面の問題として無意識のように浸透していったのではないかと思う。啄木の「ふるさと」にであって彼の詩への考えは変わっていったのではないか、かわるとうよりも、詩の核となるものが生まれたのではないか。次の詩は「日曜日」の中の一編である。

  裸の小鳥と月あかり
   郵便切手とうろこ雲
引き出しの中にかたつむり
   影の上にはふうりんそう

太陽と彼の帆前船
黒ん坊と彼の洋燈
昔の絵の中に薔薇の花
  
   僕は ひとりで  
   夜が ひろがる

大正末期のどこかモダニストが書くような詩である。言葉をさがしだしながら書いている。むろん詩法も思想もまだあきまっていない漠然とした夜の心象を述べているに過ぎない。しかし第一詩集「萱草に寄す」の詩はどうだろう。
  
   夢はいつもかへつていった 山の麓の淋しい村に
水引草に風が立ち
   くさひばりのうたひやまない
しずまりかへつた午さがりの林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つていた
ーーそして私は
   見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
   忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道をすぎさるであらう    (「のちのおもいに」全行)



ソネット形式の右の詩には立原道造の方法意識がうかがえる。方法というよりは内面の詩意識といった方がいいだろう。「のちのおもいに」とは「あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物をおもわざりけり」(藤原敦忠『拾遺臭』)からだといわれている。

 詩のスタイルが、「夢はいつも帰って行った」それが「山の麓の淋しい村」であるというように倒叙的な語法は彼の詩の一つのスタイルといっていいようだが、その内面ははかりしれない。「山の麓の淋しいむら」とは、石川啄木の「ふるさと」の「かえりたくてもかえれない」あるいは「かえらない」「ふるさと」とおなじ場所ではないか。啄木のふるさとは単に失われたところ、捨てたふるさとというよりも、すでに近代にさらされて崩壊するしかない風土の闇といったものを「淋しい村にこめたのではないか」。当時はそこまではわからなかったにしろ、東京生まれの立原道造には「ふるさと」がない。東京という近代を象徴する輝かしい成長の未来像を描く場所では、啄木のような「ふるさと」は、のぞむべきもない。東京生まれには、捨てるふるさとの体験もなければ、郷愁にうちひしがれて悩むといった経験もないにちがいない。ふるさとは「山の麓の淋しい村」であったとしてこの淋しさとは、そこでの恋人との別離の孤独感、悲哀感ではないだろうか。それとも立原道造にとっての「ふるさと」とはこの生がある限り永遠に帰り着くことのできないところ、でもあったのだろうか。神保光太郎の解説では次のようにくわしく記している。
「未)