幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

クミコさんのブログから「みんな同じだよと彼は言った。」 ”違いを理解ではなく、違いがベースとの認識を!”

2024-03-14 10:22:44 | 社会

朝からまた大谷さんの特集。
これからまた、これが続くのだと思うと気が滅入る。
大谷さんがどうのこうのじゃないのだ、こんなに一人の野球選手をフューチャーしなくてもいいだろうと思うのだ。
(いや誰より大谷さんがそう思ってるだろう)
大谷さんが、いくら大リーグの希望の星であるかのように取り上げていても、実際その球場の映像を見るとガラガラだったりする、そのことの落差に現実を思い知る。

アカデミー賞で、アジア俳優を無視したかのような表彰式が話題になった。
そこにいるのにいない、透明人間になっているアジア人。
これは、今に始まったことではない。
外国に行ったことのある、住んだことのある人なら誰でも経験すること。
(この外国はあくまで欧米だが、今でさえこれだもの、留学中に精神を病んだ漱石先生の時代など、さぞやトンデモなかったろう)

このアジア蔑視といってもいい現実に打ちのめされたのが、若い頃に読んだ「殺される側の論理」という本だった。
本多勝一という、その頃人気のあったジャーナリストの書いた本で、ベトナム戦争や、あるいは原爆のことなど、アメリカ人のアジア人に対する根本的無関心、同じニンゲンと思っていないからなしえた残虐行為という指摘に愕然とした。
戦争なのだから当たり前だろうと思っても、その底に横たわる差別は、それから何度も知ることになった。
外国へ出るたび、否応なく容赦なく。

今でも、一つ不思議なことがある。
大学の夏休み、友人の故郷の萩に行った。
紹介された彼のお姉さんは陶芸家。外国人と結婚していた。
同じ陶芸家の彼は金髪碧眼の北欧人。
Pさんというその人は、日本語も流暢で、カレーも作ってくれたのだが、日本人と結婚してどうですかみたいな質問に。
「え?全然同じ」と答えた。
だって姿だって全然違うじゃない、同じじゃないよという私たちに「同じだよ、違いがわからないよ」と、言うのだ。
肌だって背だって目だって違うよと言っても、「わかんないよ、同じだよ、僕の国の人はみんなそう思ってるよ」

なんだかわからないけど、すっかり嬉しくなった私たちは、それからみんなで踊った。
彼らの住む日本家屋の一室で、ぐるぐる回るように踊った。

あれは何だったんだろう、Pさんのただの優しさだったんだろうか。
いや、本当に彼には「同じ」に見えていたんじゃないか。
どの国の人もみんなおんなじに見えていたんじゃないか。
そんな人がこの世にはいるんじゃないか。
と、時々ふと思う。

感想
「わかんないよ、同じだよ、僕の国の人はみんなそう思ってるよ」
いろいろな人がいる社会で育つと、違っているのが当たり前というか、考えのベースになっているのです。
 日本のように黒髪、黒い目・・・、そんな人ばっかりなのは逆に異質なのです。
だから「違いを理解しましょう」など間違った考えが生まれるのです。
違いがベース何です。
そこから考えていくことなのではないでしょうか。