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あらゆる投薬法で「七転八倒」「遺骨は青く」 熊本・ハンセン病療養所で「虹波」人体実験 園長の目の前で…入所者が証言 菊池恵楓園 ”今からでも事実の解明と責任者を罰することが必要では?”

2022-12-06 01:48:00 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8cae294f3409d990b84c8aecc378acfe986a86e 12/5(月) 9:43 熊本日日新聞
「虹波」を手にする菊池恵楓園入所者自治会副会長の太田明さん=合志市

 戦時中、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者に虹波[こうは]と呼ばれる薬剤が投与され、9人が死亡したことを示す文書群を同園が初めて開示した。同園で治験が始まったのは1942年末。静脈注射や筋肉注射、座薬などあらゆる投与法が試された。入所者の長州次郎さん(95)は、紫色の錠剤を一日3錠飲まされた経験を入所者自治会機関誌「菊池野」などにつづっている。

 厚生労働省の「ハンセン病問題に関する検証会議の提言に基づく再発防止検討会」の聞き取りによると、43年に入所した長州さんは終戦まで虹波を服用させられた。

 飲み始めると月に1回は胃がけいれんし、数日は食事を取れなかった。夕飯を朝に吐き出すこともあり、「虹波のせいで七転八倒した」と語っている。治験後に死亡した入所者の遺骨は青っぽく、「骨に色が付くほど強い薬だったのだろう」とも証言している。

 各療養所の園長には当時、らい予防法(旧法)に基づき指示に従わない患者に懲罰を与える「懲戒検束権」が与えられていた。長州さんが服用を指示されたのは宮崎松記園長(当時)の目の前で、辞退することはできなかった。長州さんは取材に対し、「治療のため恵楓園に来たはずなのに、正体不明の薬まで飲まされたのは一番残念なことだ」と話した。

菊池恵楓園の宮崎松記園長が陸軍嘱託として作成した「虹波ノ癩ニ対スル効果試験 報告第1報(概要)昭和18年10月10日現在」(菊池恵楓園所蔵)

 「園長の言うことは絶対で、反対すれば監禁室に送られる時代だった」と振り返るのは入所者自治会長の志村康さん(89)。入所した48年、治験は治療薬「プロミン」にとって代わっていたが、志村さんは恵楓園内で「体中の穴という穴から薬を入れていたらしい」「皮膚に塗ったから死なずに済んだ」といった虹波の話を何度も聞いた。

 2004年に恵楓園の倉庫で虹波の研究結果を記した大学ノートを見つけたのは、入所者自治会副会長の太田明さん(79)だった。厚生労働省の調査に合わせて資料を探す中、偶然に出てきた。記していたのは宮崎園長だった。

 詳しい資料がなかったため、ハンセン病を巡るこれまでの裁判で虹波の実験が裁かれたことはなかった。志村さんは「物証がないため国の責任を追及できなかった。資料が残っていて良かった」と語り、太田さんは「患者の骨格標本が勝手に作られていた問題と同じように、きちんと検証されるべきだ」と訴えた。(熊本日日新聞・深川杏樹)

 ■菊池恵楓園 全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所の一つ。1909年、九州7県連合立九州癩[らい]療養所として、現在の熊本県合志市に開設。11年に九州療養所、41年に国立に移管し、菊池恵楓園と改称した。強制隔離を規定した「らい予防法」に基づき大規模な病床拡張が進められ、50年代後半のピーク時には入所者が1700人を超えた。9月末時点の入所者は国内最多の145人。高齢化が進み、平均年齢は86・5歳となっている。

感想
「九州大学生体解剖事件 70年の真実」熊野以素著 ”「仕方がなかったなどというてはいかん」”

なぜ九州大学医学部は裁判になったか?
それは犠牲者が米国人だったからです。

日本人が犠牲者の場合は権力者によって病に葬り去られているのです。

・「仕方がなかったなどというてはいかん」(『生体解剖-九州大学医学部事件』上坂冬子書)
「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・。言い訳は許されんとです」

上司の命令でもやってはいけないことはやってはいけないのです。
そうしないと、やった人が苦しむのです。
そしてその家族も苦しむのです。
森友学園問題の赤木さんがまさにその事例になっています。

九州大学医学部は責任者は処罰されました。
同じことが起きないためにも、ぜひ明確にしていただきたいです。

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