日本とオーストラリアで看護師の経験を積み、2010年に「国境なき医師団」に初参加。
シリア、イエメン、イラク、南スーダン、パレスチナ、紛争地を中心に、これまでに17回の派遣に応じてきた。
・2016年10月17日、日本。イラクで「イスラム国」(IS)に占領されているモスルとと呼ばれる年の奪還作戦が始まったと伝えていた。
当時私は、埼玉の実家をベースにしていた。
父が食事を済ませ、そろそろ車をお願いしようか(その日、友人と会う約束)、という時だった。国境なき医師団(MSF)からメールが入った。
「イラクのモスルに緊急出発してほしい」・・・
車の中でボソッと伝えた。
「私、モスルにに出発する・・・」
「あんな危ねぇところによぉ」
「心配なんだよ、こっちはよぉ」
・その頃のモスルでは、ことあるごとに市民たちはIS戦闘員に指の匂いを嗅がれていた。戒律で禁じられているタバコを吸っていないかをチェックするためだ。
タバコの匂いがすればその場で指を切り落とされる。携帯電話の所持は「スパイ容疑」で斬首されたという。
・7月5日、「自爆テロ未遂の容疑者二人が逃走中」という一報が入った。西側から運び出される患者収容で忙しかったが、病院での活動を中断し引き揚げるしかなかった。自爆テロは人が集まる場所を狙う。マーケット同様に病院もまた人が集まる場所だ。
予測のつかない自爆テロがいつ起こるかもしれないと思うとやはり怖かった。
・この日運ばれてきたのは50代の女性だった。貧血と栄養失調は顔色から察知できた。彼女は空爆で片足を失った。・・・
彼女が目を覚まし、さめざめと泣き始めた。しばらく泣いた後、私の顔を見て言った。
「死なせて」
夫と4人の子どもを失い、彼女だけが生き残ったことに絶望していた。もちろん、彼女には何の罪もない。
仕事中は泣かないようにしているが、その日は彼女の手を握りながら泣いた。
・7月23日に再び日本を出発。近隣国を経て28日に最終目的地、ラッカ県内の小さな街に到着した。ラッカ県の県都がISが「首都」とするラッカ市だ。ここから数時間も車を走らせればその激戦地に至る。・・・
市民を待ち受ける運命は二つに一つだ。
空爆か地雷か。
ラッカ市内にとどまる限り、ISからの奪還作戦による空爆や砲撃を受ける危険がある。その危険から逃れるには、ISが張り巡らせた地雷原を通らなくてはならない。
・結局その夜は時間差で合計13人の地雷被害者が運ばれ、一睡もできない夜となった。朝になり、一度宿舎に戻ってシャワーと朝食を済ませ、また病院に戻った。
・空爆で手と足を負傷し、妊娠5か月の赤ちゃんを失ったカディージャ。私が思い出していたのは彼女の父親の方だった。
とうとう夫と思われる男性が現れることはなかった。彼女が受けた同じ空爆で命を落としていたのだ。
カディージャの父親だけは、いつでも無表情だった。ただただ、彼女の世話だけに気持ちを集中しているといった感じだ。・・・
彼は鬱でも心神喪失でもない。彼は巨大な怒りを放っていた。
娘と妻の笑顔の向こう側で渦巻いている彼の怒り。
この怒りを彼はぶつけたいのか。
彼の怒りを世界はどこまで知っているのか。
彼が自ら発信できぬならば、それは私が世界に伝えていかなければならない。
・そんな話を同世代の友人にしていると、私が特別な存在であるかのように思われることがしばしばある。外国語を流暢に操り、医療知識が豊富で、なにより使命感に燃えた女性というイメージ。語弊があるかもしれないが、それは「強い女性」と言い換えてもいいと思う。
だが、それは違う。体力にことさら自信があるわけでもない。慎重派152センチ、海外のスタッフに囲まれるひときわ小柄である。
・高校3年の夏が過ぎると、就職が内定してはしゃいでいる同級生の姿が増えていった。決して働きたくない、これ以上勉強したくない、といった理由で何もしないわけではなかった。何かをやりたい。でも、それが何なのか。17歳の私の頭の中に具体的に見えなかった。・・・
ある日、クラスメートの一人がこのように話かけてきた。
「私ね、看護師になりたいの。今そのために看護学校選びをしているだん。」
深く何かを考えたわけではない。でも自然とこう答えていた・
「私も! 私も看護師になりたいの!」・・・
ただし、そこからが大変だった。商業高校というと、数学や英語など一般科目の授業の代わりに簿記や情処理などの科目を多く勉強するため、看護学校を受験するレベルの学力はない。・・・
ところが、ある時、すーっと目の前に道が開けた。なんと自宅から電車で三つ目の場所に定時制の看護学校が開校されていたことを知ったのだ。通常、看護学校は3年生であるが、その学校は定時制だったため、半日を学校指定の医療機関で勤務するということが入学条件だった。
・やはり働きながら勉強するのはきつかった。・・・
でも看護師になりたいと思う気持ちは変わらなかった。
・MSFが求める手術室看護師は、「器械出し看護師」「外回り看護師」の役割をを備えつつ、さらに手術室全体の看護師長としての立場も求められる。
・1999年、卒業して3年が経ち、看護師としてもそろそろ一人前になったという自負があった。・・・
そこに、少女時代の感情を呼び覚ます、ニュースを目にした。
「国境なき医師団、ノーベル平和賞受賞」
ハッとして体が熱くなった。体中の血液がせわしなく、動き出すのを感じた。・・・
その時に初めて、日本にもMSFの事務局が存在することを知った。さっそくコンタクトを取った。
だが現実は厳しかった。
この時まだ26歳。その後、実際にMSFに入るまでに10年もの歳月を要することになる。
・英語。
説明会に参加したことで、この巨大な壁が目の前にドスンと現れた。
・英会話学校は楽しく通えたのだが、旅行先で母親の前で少し格好つけて案内できる程度にしか成長しなかった。・・・
もう諦めるしかないのだ、私は看護師の仕事が好きなのだからそれだけでも幸せなのだ。日本で看護師を続ければよいのではないか・・・。
日々を悶々とした気持ちで過ごしていた私に、救世主が現れた。母だった。
「今諦めたって、この思いを10年先も続くわよ。だったら今行動起こして思い切って留学しなさい」
母のこの言葉は、今から思えば本当にありたがかった。目の前に道が開けた思いだった。
・まず留学資金を貯めるために、近隣一帯で最もお給料の高い、ある産婦人科病院に転職した。外科しか経験のなかった私は一から産婦人科という分野を勉強し直さなくてはならなかった。
・29歳になっていた。あと数か月で30歳。産婦人科で働いた給料で留学資金も貯まってきた。
「その年で留学?」と人は笑うだろう。
笑われてもよかった。そもそも留学が目標ではない。語学留学を経て、大学に入り、現地の看護師の資格を取らなくてはならないし、永住権を取り就職して働ければなおさらいい。
狙いを定めたのはオーストリアのメルボルン。
・実際に現地で英語に囲まれて生活を始めたら英語力があっという間に上達した。
IELTSのスコアは5か月で大学入学レベルにまで達し、2004年の2月から夢の大学生活が始まった。・・・
私はすでに日本での看護師の資格を持っているので、勉強内容は分かっていたが、私にとって大事なのはそれを「英語で勉強する」ことだった。
・オーストリアには、日本と違って看護師の国家試験がない。卒業後は手続きの実で看護師の資格を取得できる。
・卒業後は内視鏡専門のクリニックに勤めることになった。
・ここでまたしても幸運が舞い込んだ。ロイヤル・メルボルンの手術室のスタッフ募集を見てみると、「内視鏡に強い看護師を優遇する」と書いてあったのだ。
手術室は元々日本で経験があった。私を呼んでいるかのような募集ではないか。
・ロイヤル・メルボルン病院に勤めた3年半を思い出すと、今でも涙が出てきてしまう。それは悔し涙ではなく、愛や優しさに対する感謝の念だ。
・オーストラリアを去ろう。今こそMSFに入る時がきたんだ。
2014年4月、・・・。すべてを手放して私はバックパック一つで帰国をした。
翌週には、今では早稲田の大きなビルに移ったMSFのオフィスを訪ねていた。履歴書は帰国前に提出していた。その日は面接で、なぜだか受かるのは間違いないと思っていた。
事実その翌日には派遣登録の許可が下りた。
30年前、7歳の幼い私が憧れた舞台についに上がった。
ようやく私の人生の本番がスタートした。
・医師たちの多くは逮捕されるか、自分たちの命を守るために国外に逃亡を図った。・・・
そんななか、国内に残っているシリア人医師たちは隠れて医療を継続していた。彼らは郊外の農場や民家やアパートの一室などで治療を行い、見つかりそうになっては転々と場所を変え、政府の暴力によって傷ついた一般市民の治療にあたっていた。・・・
私も一緒に頑張らなくてはいけないと思った。
・ある日、シリア国内の別の場所で活動していたMSFは、拠点をネットニュースに報じられてしまい、その翌日、政府側の爆撃機から空爆された。
・このシータ病院に運ばれてくる患者のケガの原因は、とにかくこのどちらかしかなかった。銃創と爆傷では治療の方向性が変わってくる。
・輸血で助かる命、血液が手に入らず亡くなる命、イエメンでの派遣中には空爆の被害にあった7歳の少女の緊急手術の際、技術的にはうまくいったものの、やはり輸血ができなかったばかりに救えなかった。・・・
私たちは民家に隠れていたが、MSFが医療活動をしていることは口コミで広まっていた。
それを知り、自分たちの血液を役に立ててほしいと献血に訪れる市民が後を絶たなかった。その中には女性もいた。彼らの熱い思いが、命の絆となって多くの患者の命を助けていた。決してMSFが献血のキャンペーンを行ったわけではない。献血は彼らの自発激な行動だった。
・理想の医療など、紛争地には存在しない。現場に来てみると、その志は踏みにじられてしまう。限りのある薬剤のや物資、人材、そして設備の整っていない環境。理想とは程遠い現実をまず受け入れなくてはいけない。
・「落ち着いて。この爆弾でYUKOが死ぬ時は俺も死ぬ時だから。怖くはないよ。だからYUKOも怖がらないで」
再び強い振動と地響きが襲った。
・こうして私は2012年11月末日、約3か月働いたシータ病院を去った。この時から私はある思いを抱くようになった。
ジャーナリストになりたい。
それはイコール、看護師をやめるということだった。看護師は私の転職だ。・・・
しかし、私は来る日も来る日も、瀕死の患者が途切れることのないシリアに来てしまった。一つの手術が終わり、一つの命が助かったとしてもそこで終わりにはならない。死線をさまよう患者が手術を待っている。3か月の間、その繰り返しだった。・・・
私は自分にも腹を立てるようになっていた。看護師をしているだけでは、戦争を止めることはできない。その歯がゆさが自分自身を追い詰めていた。
私は、目の当たりにしてしまった戦争の恐ろしさと愚かさを多くの人々に伝えたかった。
心の中に、ジャーナリストという別の世界への関心が芽生えて始めていた。
・「その仕事は僕たちが頑張ってやるから任せておきなよ」
と言う人もいた。・・・
結局私は、ジャーナリストにになるための道しるべが見つけられず、人生の路頭に迷ってしまったかのように、しばらくの間ものすごく落ち込んでしまった。
今思うと、プロのジャーナリストに軽くあしらわれたというのは私の誤解であり、私に対する彼らの適切な見極めだった。ただし、この時の私にはまだ分からなかった。
それから半年後の2013年6月、再びシリアの地を踏んだ。
私は看護師としてこの国に戻って来られた運命に感謝することになる。
・2014年2月、私は初のアフリカの地、南スーダン共和国に降り立った。6回目の派遣だ。MSFでは、次のような言い回しがある。
「南スーダンに行かなければMSFの派遣を経験したとは言えない」
これは南スーダンの生活環境がいかに過酷かという表現である。これを克服した者こそ真のMSFのスタッフである、という意味も含む・
・気温は50度を超えている。水がないと体が洗えず、洗濯もできない。手を洗うことさえできないのだ。
飲用水だけは大量に保持したいたので、そちらの心配はしていなかった。トイレは草むらで、シャワーはひたすら我慢する以外にはなかった。
・紛争地の活動でよく言われる言葉がある。
「怖いと思う者は帰国した方がよい。ただし怖さに麻痺してしまった者は一番に帰国させなくてはいけない」
戦闘の音を聞いて、それが危険なのだという判断は常に失ってはいけないということだった。
・せめて国連の病院内に入れさせてもらえないか交渉したが、断られてしまった。
彼らは、国連職員の健康管理のために派遣されているため、市民の救出には一切関与しないという。なおさら私たちが頑張るしかなかった。
・ある日、私は39度の熱が出ていた。ユアンに診察してもらって初めて分かった。気づくと扁桃腺を腫らしていたのだ。
・私はマラカルの滞在を1か月ほど延長し、結局2か月半、マラカルで援助活動をした。その前、国際赤十字は撤退し、代わりにMSFではたくさんのスタッフがマラカル入りをした。
・最終的には反政府軍が退去という形で終結したようだった。あれだけの立派な街を数日で破壊しつくし、15万人の避難民を生み出したこの戦闘で、この国は何を得たのだろうか。
・今回はMSF本部からの要請で、日本でのカウンセリングが用意されていた。
もっと早く受けるべきだった。紛争地での生々しい体験は、家族や友人にはなかなか話しにくい。本当は現実とのギャップに心が混乱しているのに、それを隠したまま日本の生活に適応しているように振る舞っていた。
カウンセリングでは、そのような人に話しづらい一連の体験を聴いてもらった。大変だったことを理解してもらえるというだけで心のの重しが取れた。・・・
カウンセラーからは、今は瞑想や音楽などでムリに心を落ち着かせるよりも、ストレスを外に発散させた方がよいとアドバイスを受けた。
カラオケもその一つだという。そうした勧めに従って、日常を過ごすうちに混乱が少しずつ消え、日本の生活に順応していった。
呼吸困難だけは今でも派遣から帰国するたびい発症する。だいたい1か月ほどは続く。こればかりはうまく対処するしかないと思っている。
・私は、ステファニーから無理難題を吹っ掛けられた。
「この三つのクリニックに器材滅菌室を作ってほしい」・・・
「無理よ。電気も水もないのに」・・・
ところが彼女は私の肩にポンと手をかけ、ニッコリ笑い、あっけらかんと言い放った。
「Yuko, be creative(創造力を働かせて)」
最初は、困った。だけど絶対にやらなくてはいけないという前提で創造力を働かせてみると、本当にアイデアが湧いてくるから不思議だ・
電気が使えなければガスを使い、シンクがなければバケツ、水がなければ外から汲んでくればよかった。労働力はかかるが、理論的には不可能ではなかった・
いや、実際にやってみたら本当に器材の洗浄、消毒、滅菌をするというシステムができあがってしまった。
・ハイデンの病院が空爆を受け、建物が全壊してしまった。幸いにも空爆は夜だったためか、スタッフや患者に一人も被害者を出さなかった。
だが、私たちの精神的ショックは計りしれないものがあった。
・逃げ場のない閉ざされた空間にいるガザ地区のパレスチナ人に対して、イスラエルは数年に一度、徹底的な大規模空爆を行う。
直近となると2014年の空爆では、2000人以上の死者と1万人以上の負傷者、2万戸近い家屋の破壊をもたらした。
・出発前、幸運にも『広河隆一 人間の洗浄』という映画が公開されていた。この映画の主人公、広河隆一さんがパレスチナ問題を長年取材し続けているフォト・ジャーナリストというのは知っていた。勉強のために観に行った。
・実はガザには海外の援助で成り立つ医療機関がたくさんあり、それぞれの役割分担と連携がうまく機能していた。
・彼ら(イスラエル軍)はこのようなパレスチナ人青年の片足を上手に撃つ。頭や胸などではない。普通は命は狙わない。彼らの足を撃ち、彼らの声をかき消し、意気を削ぐ。
・だけど(大学を)卒業しても、仕事のないガザではその知識や資格を社会に生かす術がない。若者たちは大学を卒業した途端に行き場がなくなってしまうのだ。
・私はMSFのクリニックで一度、清掃員2名の募集を掛けたことがある。1週間で3000通を超える履歴書が届き、その時に改めて高学歴の割合に驚いた。
・「ユダヤ人の人々はね、今度こそもう二度と迫害も殺戮もされない自分たちだけの国を持って、何としてでもそれを守り抜きたいと思っているんだよ」・・・
だからといって、ガザを空爆する理由にはならない。これだけの悲劇の歴史を受け継ぐイスラエルの人々が、なぜ現代に至って弾圧側に回っているのだろうか。
・「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」
・どうしたらイスラエルとパレスチナは和解できるのだろう。銃で撃たれクリニックの待合室で過ごすパレスチナ人を見ている私には何ができるのだろう。
この子たちの足の傷を治すことだけが私の役割でよいのだろうか。
・4か月の派遣を終え、帰国する私は、テルアビブ空港の取調室で真っ裸にされていた。
体内に何か隠し物がないか検査され、パスポートの記録から、今までに渡航した国々に関する尋問を何時間にもわたり執拗に受けていた。・・・
尋問から解放され、部屋の外で目にしたのは、散乱した私の荷物だった。ポーチは開けられ、中身が取り出された状態だった。お財布は中のレシート1枚まで出されていた。
家族へのお土産の包装紙は破られ、むき出しだった。・・・
散乱した荷物を一つひとつスーツケースやバックパックに内に戻していると、私が飛行機の中で食べようと思っていたパンの袋が破られているのを見た。
裸にされ、体内チェックにも耐えてきたが、むき出しになったパンを袋に戻している時、こらえきれなくなって涙があふれてきた。こんなことで泣いてはいけないとも思った。私が受けた嫌がらせと屈辱は、パレスチナ人が受けているものの比にならない。
だけどこの時、ここまでしなくてはならないほどに追い込まれてしまったユダヤ人に対する同情の悲しい涙も混じっていた。
・2012年9月、・・・、10歳の男の子が片足を撃たれ、運ばれてきた。・・・
通訳が私に耳打ちした。
「お父さんを殺したやつを殺しに行くだって言ってるんだよ」
私は、言葉を失った。
たかだか10歳の少年が、人を殺すと語っている。・・・
復讐の連鎖はこうして生まれる。
普段、メディアが取りあげないような隠れたところで、毎日、憎しみが芽生えているのだ。
感想;
MSFの活動がまさに命がけの活動であることがひしひしと伝わってきました。
それに取り組まれた著者の熱い思いも。
MSFに参加するために語学留学とオーストラリアで看護師の資格取得、その留学資金を稼ぐために。
やりたい目的を達成するために10年も頑張りつづけられたのです。
このような活動をされていたので、彼から別れを告げられるというつらい体験もされています。
著者が本に書かれかついろいろなところで話をされることで、実態を少しでも知る人が増えるのです。
人の思いは大きいなと思いました。
そして求めていると女神の微笑みに気付くのでしょう。
シリア、イエメン、イラク、南スーダン、パレスチナ、紛争地を中心に、これまでに17回の派遣に応じてきた。
・2016年10月17日、日本。イラクで「イスラム国」(IS)に占領されているモスルとと呼ばれる年の奪還作戦が始まったと伝えていた。
当時私は、埼玉の実家をベースにしていた。
父が食事を済ませ、そろそろ車をお願いしようか(その日、友人と会う約束)、という時だった。国境なき医師団(MSF)からメールが入った。
「イラクのモスルに緊急出発してほしい」・・・
車の中でボソッと伝えた。
「私、モスルにに出発する・・・」
「あんな危ねぇところによぉ」
「心配なんだよ、こっちはよぉ」
・その頃のモスルでは、ことあるごとに市民たちはIS戦闘員に指の匂いを嗅がれていた。戒律で禁じられているタバコを吸っていないかをチェックするためだ。
タバコの匂いがすればその場で指を切り落とされる。携帯電話の所持は「スパイ容疑」で斬首されたという。
・7月5日、「自爆テロ未遂の容疑者二人が逃走中」という一報が入った。西側から運び出される患者収容で忙しかったが、病院での活動を中断し引き揚げるしかなかった。自爆テロは人が集まる場所を狙う。マーケット同様に病院もまた人が集まる場所だ。
予測のつかない自爆テロがいつ起こるかもしれないと思うとやはり怖かった。
・この日運ばれてきたのは50代の女性だった。貧血と栄養失調は顔色から察知できた。彼女は空爆で片足を失った。・・・
彼女が目を覚まし、さめざめと泣き始めた。しばらく泣いた後、私の顔を見て言った。
「死なせて」
夫と4人の子どもを失い、彼女だけが生き残ったことに絶望していた。もちろん、彼女には何の罪もない。
仕事中は泣かないようにしているが、その日は彼女の手を握りながら泣いた。
・7月23日に再び日本を出発。近隣国を経て28日に最終目的地、ラッカ県内の小さな街に到着した。ラッカ県の県都がISが「首都」とするラッカ市だ。ここから数時間も車を走らせればその激戦地に至る。・・・
市民を待ち受ける運命は二つに一つだ。
空爆か地雷か。
ラッカ市内にとどまる限り、ISからの奪還作戦による空爆や砲撃を受ける危険がある。その危険から逃れるには、ISが張り巡らせた地雷原を通らなくてはならない。
・結局その夜は時間差で合計13人の地雷被害者が運ばれ、一睡もできない夜となった。朝になり、一度宿舎に戻ってシャワーと朝食を済ませ、また病院に戻った。
・空爆で手と足を負傷し、妊娠5か月の赤ちゃんを失ったカディージャ。私が思い出していたのは彼女の父親の方だった。
とうとう夫と思われる男性が現れることはなかった。彼女が受けた同じ空爆で命を落としていたのだ。
カディージャの父親だけは、いつでも無表情だった。ただただ、彼女の世話だけに気持ちを集中しているといった感じだ。・・・
彼は鬱でも心神喪失でもない。彼は巨大な怒りを放っていた。
娘と妻の笑顔の向こう側で渦巻いている彼の怒り。
この怒りを彼はぶつけたいのか。
彼の怒りを世界はどこまで知っているのか。
彼が自ら発信できぬならば、それは私が世界に伝えていかなければならない。
・そんな話を同世代の友人にしていると、私が特別な存在であるかのように思われることがしばしばある。外国語を流暢に操り、医療知識が豊富で、なにより使命感に燃えた女性というイメージ。語弊があるかもしれないが、それは「強い女性」と言い換えてもいいと思う。
だが、それは違う。体力にことさら自信があるわけでもない。慎重派152センチ、海外のスタッフに囲まれるひときわ小柄である。
・高校3年の夏が過ぎると、就職が内定してはしゃいでいる同級生の姿が増えていった。決して働きたくない、これ以上勉強したくない、といった理由で何もしないわけではなかった。何かをやりたい。でも、それが何なのか。17歳の私の頭の中に具体的に見えなかった。・・・
ある日、クラスメートの一人がこのように話かけてきた。
「私ね、看護師になりたいの。今そのために看護学校選びをしているだん。」
深く何かを考えたわけではない。でも自然とこう答えていた・
「私も! 私も看護師になりたいの!」・・・
ただし、そこからが大変だった。商業高校というと、数学や英語など一般科目の授業の代わりに簿記や情処理などの科目を多く勉強するため、看護学校を受験するレベルの学力はない。・・・
ところが、ある時、すーっと目の前に道が開けた。なんと自宅から電車で三つ目の場所に定時制の看護学校が開校されていたことを知ったのだ。通常、看護学校は3年生であるが、その学校は定時制だったため、半日を学校指定の医療機関で勤務するということが入学条件だった。
・やはり働きながら勉強するのはきつかった。・・・
でも看護師になりたいと思う気持ちは変わらなかった。
・MSFが求める手術室看護師は、「器械出し看護師」「外回り看護師」の役割をを備えつつ、さらに手術室全体の看護師長としての立場も求められる。
・1999年、卒業して3年が経ち、看護師としてもそろそろ一人前になったという自負があった。・・・
そこに、少女時代の感情を呼び覚ます、ニュースを目にした。
「国境なき医師団、ノーベル平和賞受賞」
ハッとして体が熱くなった。体中の血液がせわしなく、動き出すのを感じた。・・・
その時に初めて、日本にもMSFの事務局が存在することを知った。さっそくコンタクトを取った。
だが現実は厳しかった。
この時まだ26歳。その後、実際にMSFに入るまでに10年もの歳月を要することになる。
・英語。
説明会に参加したことで、この巨大な壁が目の前にドスンと現れた。
・英会話学校は楽しく通えたのだが、旅行先で母親の前で少し格好つけて案内できる程度にしか成長しなかった。・・・
もう諦めるしかないのだ、私は看護師の仕事が好きなのだからそれだけでも幸せなのだ。日本で看護師を続ければよいのではないか・・・。
日々を悶々とした気持ちで過ごしていた私に、救世主が現れた。母だった。
「今諦めたって、この思いを10年先も続くわよ。だったら今行動起こして思い切って留学しなさい」
母のこの言葉は、今から思えば本当にありたがかった。目の前に道が開けた思いだった。
・まず留学資金を貯めるために、近隣一帯で最もお給料の高い、ある産婦人科病院に転職した。外科しか経験のなかった私は一から産婦人科という分野を勉強し直さなくてはならなかった。
・29歳になっていた。あと数か月で30歳。産婦人科で働いた給料で留学資金も貯まってきた。
「その年で留学?」と人は笑うだろう。
笑われてもよかった。そもそも留学が目標ではない。語学留学を経て、大学に入り、現地の看護師の資格を取らなくてはならないし、永住権を取り就職して働ければなおさらいい。
狙いを定めたのはオーストリアのメルボルン。
・実際に現地で英語に囲まれて生活を始めたら英語力があっという間に上達した。
IELTSのスコアは5か月で大学入学レベルにまで達し、2004年の2月から夢の大学生活が始まった。・・・
私はすでに日本での看護師の資格を持っているので、勉強内容は分かっていたが、私にとって大事なのはそれを「英語で勉強する」ことだった。
・オーストリアには、日本と違って看護師の国家試験がない。卒業後は手続きの実で看護師の資格を取得できる。
・卒業後は内視鏡専門のクリニックに勤めることになった。
・ここでまたしても幸運が舞い込んだ。ロイヤル・メルボルンの手術室のスタッフ募集を見てみると、「内視鏡に強い看護師を優遇する」と書いてあったのだ。
手術室は元々日本で経験があった。私を呼んでいるかのような募集ではないか。
・ロイヤル・メルボルン病院に勤めた3年半を思い出すと、今でも涙が出てきてしまう。それは悔し涙ではなく、愛や優しさに対する感謝の念だ。
・オーストラリアを去ろう。今こそMSFに入る時がきたんだ。
2014年4月、・・・。すべてを手放して私はバックパック一つで帰国をした。
翌週には、今では早稲田の大きなビルに移ったMSFのオフィスを訪ねていた。履歴書は帰国前に提出していた。その日は面接で、なぜだか受かるのは間違いないと思っていた。
事実その翌日には派遣登録の許可が下りた。
30年前、7歳の幼い私が憧れた舞台についに上がった。
ようやく私の人生の本番がスタートした。
・医師たちの多くは逮捕されるか、自分たちの命を守るために国外に逃亡を図った。・・・
そんななか、国内に残っているシリア人医師たちは隠れて医療を継続していた。彼らは郊外の農場や民家やアパートの一室などで治療を行い、見つかりそうになっては転々と場所を変え、政府の暴力によって傷ついた一般市民の治療にあたっていた。・・・
私も一緒に頑張らなくてはいけないと思った。
・ある日、シリア国内の別の場所で活動していたMSFは、拠点をネットニュースに報じられてしまい、その翌日、政府側の爆撃機から空爆された。
・このシータ病院に運ばれてくる患者のケガの原因は、とにかくこのどちらかしかなかった。銃創と爆傷では治療の方向性が変わってくる。
・輸血で助かる命、血液が手に入らず亡くなる命、イエメンでの派遣中には空爆の被害にあった7歳の少女の緊急手術の際、技術的にはうまくいったものの、やはり輸血ができなかったばかりに救えなかった。・・・
私たちは民家に隠れていたが、MSFが医療活動をしていることは口コミで広まっていた。
それを知り、自分たちの血液を役に立ててほしいと献血に訪れる市民が後を絶たなかった。その中には女性もいた。彼らの熱い思いが、命の絆となって多くの患者の命を助けていた。決してMSFが献血のキャンペーンを行ったわけではない。献血は彼らの自発激な行動だった。
・理想の医療など、紛争地には存在しない。現場に来てみると、その志は踏みにじられてしまう。限りのある薬剤のや物資、人材、そして設備の整っていない環境。理想とは程遠い現実をまず受け入れなくてはいけない。
・「落ち着いて。この爆弾でYUKOが死ぬ時は俺も死ぬ時だから。怖くはないよ。だからYUKOも怖がらないで」
再び強い振動と地響きが襲った。
・こうして私は2012年11月末日、約3か月働いたシータ病院を去った。この時から私はある思いを抱くようになった。
ジャーナリストになりたい。
それはイコール、看護師をやめるということだった。看護師は私の転職だ。・・・
しかし、私は来る日も来る日も、瀕死の患者が途切れることのないシリアに来てしまった。一つの手術が終わり、一つの命が助かったとしてもそこで終わりにはならない。死線をさまよう患者が手術を待っている。3か月の間、その繰り返しだった。・・・
私は自分にも腹を立てるようになっていた。看護師をしているだけでは、戦争を止めることはできない。その歯がゆさが自分自身を追い詰めていた。
私は、目の当たりにしてしまった戦争の恐ろしさと愚かさを多くの人々に伝えたかった。
心の中に、ジャーナリストという別の世界への関心が芽生えて始めていた。
・「その仕事は僕たちが頑張ってやるから任せておきなよ」
と言う人もいた。・・・
結局私は、ジャーナリストにになるための道しるべが見つけられず、人生の路頭に迷ってしまったかのように、しばらくの間ものすごく落ち込んでしまった。
今思うと、プロのジャーナリストに軽くあしらわれたというのは私の誤解であり、私に対する彼らの適切な見極めだった。ただし、この時の私にはまだ分からなかった。
それから半年後の2013年6月、再びシリアの地を踏んだ。
私は看護師としてこの国に戻って来られた運命に感謝することになる。
・2014年2月、私は初のアフリカの地、南スーダン共和国に降り立った。6回目の派遣だ。MSFでは、次のような言い回しがある。
「南スーダンに行かなければMSFの派遣を経験したとは言えない」
これは南スーダンの生活環境がいかに過酷かという表現である。これを克服した者こそ真のMSFのスタッフである、という意味も含む・
・気温は50度を超えている。水がないと体が洗えず、洗濯もできない。手を洗うことさえできないのだ。
飲用水だけは大量に保持したいたので、そちらの心配はしていなかった。トイレは草むらで、シャワーはひたすら我慢する以外にはなかった。
・紛争地の活動でよく言われる言葉がある。
「怖いと思う者は帰国した方がよい。ただし怖さに麻痺してしまった者は一番に帰国させなくてはいけない」
戦闘の音を聞いて、それが危険なのだという判断は常に失ってはいけないということだった。
・せめて国連の病院内に入れさせてもらえないか交渉したが、断られてしまった。
彼らは、国連職員の健康管理のために派遣されているため、市民の救出には一切関与しないという。なおさら私たちが頑張るしかなかった。
・ある日、私は39度の熱が出ていた。ユアンに診察してもらって初めて分かった。気づくと扁桃腺を腫らしていたのだ。
・私はマラカルの滞在を1か月ほど延長し、結局2か月半、マラカルで援助活動をした。その前、国際赤十字は撤退し、代わりにMSFではたくさんのスタッフがマラカル入りをした。
・最終的には反政府軍が退去という形で終結したようだった。あれだけの立派な街を数日で破壊しつくし、15万人の避難民を生み出したこの戦闘で、この国は何を得たのだろうか。
・今回はMSF本部からの要請で、日本でのカウンセリングが用意されていた。
もっと早く受けるべきだった。紛争地での生々しい体験は、家族や友人にはなかなか話しにくい。本当は現実とのギャップに心が混乱しているのに、それを隠したまま日本の生活に適応しているように振る舞っていた。
カウンセリングでは、そのような人に話しづらい一連の体験を聴いてもらった。大変だったことを理解してもらえるというだけで心のの重しが取れた。・・・
カウンセラーからは、今は瞑想や音楽などでムリに心を落ち着かせるよりも、ストレスを外に発散させた方がよいとアドバイスを受けた。
カラオケもその一つだという。そうした勧めに従って、日常を過ごすうちに混乱が少しずつ消え、日本の生活に順応していった。
呼吸困難だけは今でも派遣から帰国するたびい発症する。だいたい1か月ほどは続く。こればかりはうまく対処するしかないと思っている。
・私は、ステファニーから無理難題を吹っ掛けられた。
「この三つのクリニックに器材滅菌室を作ってほしい」・・・
「無理よ。電気も水もないのに」・・・
ところが彼女は私の肩にポンと手をかけ、ニッコリ笑い、あっけらかんと言い放った。
「Yuko, be creative(創造力を働かせて)」
最初は、困った。だけど絶対にやらなくてはいけないという前提で創造力を働かせてみると、本当にアイデアが湧いてくるから不思議だ・
電気が使えなければガスを使い、シンクがなければバケツ、水がなければ外から汲んでくればよかった。労働力はかかるが、理論的には不可能ではなかった・
いや、実際にやってみたら本当に器材の洗浄、消毒、滅菌をするというシステムができあがってしまった。
・ハイデンの病院が空爆を受け、建物が全壊してしまった。幸いにも空爆は夜だったためか、スタッフや患者に一人も被害者を出さなかった。
だが、私たちの精神的ショックは計りしれないものがあった。
・逃げ場のない閉ざされた空間にいるガザ地区のパレスチナ人に対して、イスラエルは数年に一度、徹底的な大規模空爆を行う。
直近となると2014年の空爆では、2000人以上の死者と1万人以上の負傷者、2万戸近い家屋の破壊をもたらした。
・出発前、幸運にも『広河隆一 人間の洗浄』という映画が公開されていた。この映画の主人公、広河隆一さんがパレスチナ問題を長年取材し続けているフォト・ジャーナリストというのは知っていた。勉強のために観に行った。
・実はガザには海外の援助で成り立つ医療機関がたくさんあり、それぞれの役割分担と連携がうまく機能していた。
・彼ら(イスラエル軍)はこのようなパレスチナ人青年の片足を上手に撃つ。頭や胸などではない。普通は命は狙わない。彼らの足を撃ち、彼らの声をかき消し、意気を削ぐ。
・だけど(大学を)卒業しても、仕事のないガザではその知識や資格を社会に生かす術がない。若者たちは大学を卒業した途端に行き場がなくなってしまうのだ。
・私はMSFのクリニックで一度、清掃員2名の募集を掛けたことがある。1週間で3000通を超える履歴書が届き、その時に改めて高学歴の割合に驚いた。
・「ユダヤ人の人々はね、今度こそもう二度と迫害も殺戮もされない自分たちだけの国を持って、何としてでもそれを守り抜きたいと思っているんだよ」・・・
だからといって、ガザを空爆する理由にはならない。これだけの悲劇の歴史を受け継ぐイスラエルの人々が、なぜ現代に至って弾圧側に回っているのだろうか。
・「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」
・どうしたらイスラエルとパレスチナは和解できるのだろう。銃で撃たれクリニックの待合室で過ごすパレスチナ人を見ている私には何ができるのだろう。
この子たちの足の傷を治すことだけが私の役割でよいのだろうか。
・4か月の派遣を終え、帰国する私は、テルアビブ空港の取調室で真っ裸にされていた。
体内に何か隠し物がないか検査され、パスポートの記録から、今までに渡航した国々に関する尋問を何時間にもわたり執拗に受けていた。・・・
尋問から解放され、部屋の外で目にしたのは、散乱した私の荷物だった。ポーチは開けられ、中身が取り出された状態だった。お財布は中のレシート1枚まで出されていた。
家族へのお土産の包装紙は破られ、むき出しだった。・・・
散乱した荷物を一つひとつスーツケースやバックパックに内に戻していると、私が飛行機の中で食べようと思っていたパンの袋が破られているのを見た。
裸にされ、体内チェックにも耐えてきたが、むき出しになったパンを袋に戻している時、こらえきれなくなって涙があふれてきた。こんなことで泣いてはいけないとも思った。私が受けた嫌がらせと屈辱は、パレスチナ人が受けているものの比にならない。
だけどこの時、ここまでしなくてはならないほどに追い込まれてしまったユダヤ人に対する同情の悲しい涙も混じっていた。
・2012年9月、・・・、10歳の男の子が片足を撃たれ、運ばれてきた。・・・
通訳が私に耳打ちした。
「お父さんを殺したやつを殺しに行くだって言ってるんだよ」
私は、言葉を失った。
たかだか10歳の少年が、人を殺すと語っている。・・・
復讐の連鎖はこうして生まれる。
普段、メディアが取りあげないような隠れたところで、毎日、憎しみが芽生えているのだ。
感想;
MSFの活動がまさに命がけの活動であることがひしひしと伝わってきました。
それに取り組まれた著者の熱い思いも。
MSFに参加するために語学留学とオーストラリアで看護師の資格取得、その留学資金を稼ぐために。
やりたい目的を達成するために10年も頑張りつづけられたのです。
このような活動をされていたので、彼から別れを告げられるというつらい体験もされています。
著者が本に書かれかついろいろなところで話をされることで、実態を少しでも知る人が増えるのです。
人の思いは大きいなと思いました。
そして求めていると女神の微笑みに気付くのでしょう。