ポーランドからの報告

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クラクフの日本食料理屋事情

2006年11月19日 | レストラン・ショップ

沢山のおいしい日本食料理屋がある首都ワルシャワに比べ、クラクフの日本食料理屋事情は、これまで非常に悪い状態でした。前の記事でご紹介した、『蓬莱』 ができて、なんとかこれでましになった、というような状態です。

それまでは、クラクフの日本料理屋といったら、中央広場の「SUSHI BAR(寿司バー)」、ラディソンホテル近くの「牛丼」、日本技術美術センター・マンガ の喫茶店・「琵琶」、などがありました。しかし「牛丼」がつぶれ、「琵琶」では日本食を出さなくなってしまったため、実質「SUSHI BAR」だけとなり、私が訪れたのも、実際ここだけなのですが、この「SUSHI BAR」で相当苦い思いをしたため、以降クラクフでは絶対に日本料理屋に行くまいとまで思うようになった次第です。(日本食が食べたくなったら、わざわざワルシャワまで特急で出かけていって食べます。)

で、この中央広場の「SUSHI BAR」ですが、どこがどうひどかったかというと...ただひたすら、激まずだったんです。まず魚が新鮮でない(表面が乾いている)、寿司のネタが乏しい(サーモンや卵などでごまかしている)、そして極めつけは、ご飯がインディカ米で、本当においしくなくて、その場で経営者を呼んで文句を言おうかと思ったくらいのまずさでした。(インディカ米の寿司米など食べられたものではありません。まずいという食感が食後1ヶ月も口の中に残り、非常に不快でした。)立地がよい上、店内の内装もきれいなので、ついつい入ってしまいたくなる店なのですが...味がついてこないようでは!こういうことを書くと営業妨害にあたると思い、ずっと書けずにいたのですが、最近経営者が代わったということを聞きましたので、もう時効と思い、書かせてもらいます。

経営者が交代してからは、味が大分改善され、メニューもバラエティーに富んだものに変ったようです。店名も、SUSHI BAR改め、MIYAKOSUSHIに変わり、先日ご紹介した、駅前のショピングセンター、ガレリア・クラコフスカ の中に、2号店がオープンしています。私が訪れたのは、今から3年前に2度で、経営者が変ってからはまだ一度も足を運んでいないので、近々、再度味を品評してこようと思います。


ちなみに他の2店ですが、まず「牛丼」のほうは、韓国・日本料理屋で、知名度はそこそこあったものの、何年か前につぶれてしまいました。なんでもうわさによると、「牛丼」を頼んだのに豚肉料理がでてきたとか、こちらも結構いい加減だったようです。それと店構えがやや貧相で、あまり足を運ぶ気がしない店でした。結局私は一度も行ったことがないまま、つぶれてしまいました。

日本技術美術センター・マンガ内の喫茶店、琵琶では、結構いい寿司を出していたようなのですが、何年か前に、経営者が日本人からポーランド人に代わってから、メニューから寿司が消えてしまいました。というわけでここの寿司もついに食べられずじまい。。この「琵琶」では、日本茶、ほうじ茶などのお茶類はまだ出しているのですが、それも、なんでも、経営者がポーランド人に代わってから、お茶の濃度も薄くなったらしいです。

そのほか、旧市街のシュピタルナ通り、スオヴァツキ劇場向かいにも、寿司屋が一件あるのですが、名前を失念しました。ここはまだ一度もいったことがないので、今度ぜひ自分の舌で味を確かめてこようと思います。でもはずれだと非常にいたいですが..なにせ、まずい食感が1ヶ月消えなかったという過去のトラウマがある上、どこの日本料理屋も、味のいかんにかかわらず、値段だけは超一級なもので。。

ちなみにワルシャワの日本料理屋は、本当においしい店が沢山あります。一説には、ワルシャワの寿司事情は、モスクワに匹敵するほどよいといわれています。ワルシャワ情報については、今度改めてご紹介します。


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蓬莱-HOURAI

2006年11月19日 | レストラン・ショップ

クラクフ旧市街・カジミエジュ地区の、ヴォルニツァ広場に面した場所に、一年ほど前、日本食料理屋がオープンしました。

その名も、蓬莱-Horai-

このレストラン、全部で三つの小部屋からなっていて、入り口を入った最初の部屋が、和室の寿司屋、二番目が広東料理レストラン風、三番目の部屋がタイ料理レストラン風の部屋になっています-そう、店の名前こそ『蓬莱』と思い切り和風ですが、日本食料理屋のほかに、広東料理とタイ料理のレストランもかねているんです。

とはいえ店員さんはみんな和服のハッピに日の丸の鉢巻をしていて、一応気持ちは日本食料理屋で、あとの二つは付け足しのようです。もちろんどの部屋に通されても、メニューは共通なので、日本料理は食べられます。

   

実はクラクフの日本食料理屋事情は非常に悪く、まずい店に入って懲りた経験があるため、もうクラクフで日本料理屋には行くまい、と固く誓っていた私だったのですが、各方面からこの『蓬莱』のよい評判を聞き、ついに先日、オープンから実に一年以上もたってから、この『蓬莱』へと足を運ぶこととなりました。

注文したのは、マグロの刺身の切り身と、マスの押し寿司、それとビール。マグロの刺身は7切れで23zl=940円と、ポーランド人からしたらかなりお高いお値段だと思うのですが、なんといっても魚がとても新鮮で、海外で食べているとは思えないほど上出来の味でした。一方マスの押し寿司の方は、お米はおいしかったものの、マスに酢味が利いていなくて△。ちなみにこちらは1カンで17zl=680円でした。それと余談になりますが、日本でマス寿司といったら赤身ですが、ポーランドでマス(Pstrąg)の料理を注文すると、100%白身魚がでてきます。一口にマスといっても、細かい種類が沢山あるとはいえ、マス寿司はやはり赤身がよかったです・・ とまぁいろいろ書きましたが、全体としては、店の雰囲気もよかったし、及第点だとおもいます。

ところで、本来和食党の私が、懲りてもう行かないと思ってしまうほど悪いクラクフの日本食料理事情とは...?次の記事でお楽しみください。


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クラクフで KEBAB を食べる

2006年11月18日 | レストラン・ショップ

クラクフ旧市街の、フロリアンスカ通りからグロツカ通りにかけては、ケバブ屋が沢山軒を連ねるスポットです。ケバブ(kebab)は元々トルコや中東の料理ですが、ドイツにトルコ系移民が持ち込んだのがきっかけで、いまやヨーロッパ各国に広まっています。元々肉料理が大好きなポーランド人ですから、肉のうまみがたっぷりのケバブは、ポーランドでも瞬く間に人気が浸透しました。

とくに人気なのは、ドネルサンドタイプのケバブ で、ドネルケバブ(Doner Kabap )という、肉の塊を回転させながら焼いて、大きなナイフ削ぎ切ったものを、サラダとともにパンやピタに挟んで、サンドイッチ状にしたものです。定番のメニューは、ドネルケバブサンドとコーラのセットで、10~15zl(400円~600円)くらい。手軽な値段で、しかもおなかにたまるので、観光客にも、地元の人にも大人気、ハンバーガーに取って代わる定番のファーストフードとなっています。店によって値段が違うのは、店内で座って食べられる店は高く、テイクアウトのみの店は安くなっている為です。

   

ちなみにケバブの肉は、羊肉と鶏肉、もしくは牛肉と鶏肉のどちらからか選ぶことになりますが、殆どの店は羊肉・鶏肉です。でも個人的には、羊肉・鶏肉・牛肉の中で、牛肉のドネルケバブが一番おいしいかな~と思います。というわけで、クラクフで、牛肉のドネルケバブサンドが確実に食べられる店をご紹介しておきます。グロツカ通りと諸聖人広場(Pl.Wszystkich Świętych)の交差点の、両角2軒のケバブ・レストランなら大丈夫です。(それ以外にももちろんあると思いますが、全制覇したわけではないので...とりあえず、私の知っている店をご紹介します。)

そのほかお祭りや縁日の屋台では、串刺しのケバブ、シシ・ケバブ(Şiş Kebabı)も人気です。

またワルシャワのケバブ情報については、こちらの ワルシャワ・ケバブマップ がとても便利です。


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日ポの架け橋に... 音楽を通じて、麻衣子さんとプシェメックさん I

2006年11月15日 | 人々

「人々」のコーナーでは、ポーランドで出逢った、素敵な人々をご紹介していきます。

まず最初にご紹介するのは、高村麻衣子さんと、プシェミスワフ・フミェレフスキー(Przemysław Chmielewski )さんのご夫婦。麻衣子さんは、ピアニスト、プシェメックさんは、バイオリニストの、音楽家夫婦です。

 

麻衣子さんは、3歳でピアノを始め、4歳から「桐朋学園こどものための音楽教室」にて学びました。第9回ミロシ・マギン国際コンクール(パリ)、シニアの部にて優勝、ショパンのワルツを力強く引き、ポーランドの先生方から高い評価を受けました。また第15回イビザ国際コンクール(スペイン)では、20世紀作品最優秀演奏者賞を受賞されています。

大学は早稲田大学第一文学部に進学。卒業後は2000年に渡仏し、パリのエコールノルマル音楽院にて3年間ピアノと室内音楽を学び、ディプロマを取得しました。

記念すべきデビューは、2003年、ポーランドにて。ワルシャワ郊外、ジェラゾヴァ・ヴォラにあるショパンの生家を始め、ポーランド各地にて、デビューリサイタルを行いました。現在、ソリストとしての他、室内楽奏者、伴奏者として、日本とポーランドを中心に、幅広く活躍されています。

 

一方のプシェメックさんは、1975年、ポーランド・ウッジの音楽家一家に生まれ、ポーランドウッジ音楽院、スイスローザンヌ音楽院にてヴァイオリン、作曲、電子音楽を学びました。第12回ポーランド国際室内楽コンクール第1位となったほか、ポーランド現代音楽協会国際アカデミーやオランダ、ドイツ、フランスなど数多くの国際音楽祭に参加し、ソロやアンサンブルで活躍されています。また、お父さまは、ワルシャワショパン協会前会長で、現在のポーランドを代表するピアニストです。

お二人は、麻衣子さんが、プシェメックさんのお父様にピアノを師事していたことがきっかけで知り合いました。お互いに音楽家の二人は、すぐに意気投合、昨年2005年の6月に国際結婚し、シャンゼリゼ通りにほど近いアパルトマンでの、新婚生活がはじまりました。

仕事でもいつも一緒のお二人は、P.フミェレフスキー&高村麻衣子のペアで、日本でも、バイオリン&ピアノリサイタルツアーを数多く手がけています。二人一緒にいると、自然と音楽の話になる、というお二人。とてもお幸せそうでした。


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日ポの架け橋に... 音楽を通じて、麻衣子さんとプシェメックさん II

2006年11月15日 | 人々

麻衣子さんご夫婦とは、今年の8月、パリ在住のお二人が、休暇を利用してポーランドに遊びに来ていたときに、クラクフでお会いしました。

お二人とお会いしたのは、クラクフ中央広場から徒歩2分、ミコワイスカ通りに程近いオープンカフェ、「Re」 というお店です。中央広場に近いのに、あまり混んでいない穴場スポットで、地元の人ご用達のビアガーデンとなっているスポットです。

麻衣子さんご夫婦の会話は、パリ在住とあって、もっぱらフランス語が中心。そんなわけで、一つのテーブルを囲んで、フランス語、英語、日本語、ポーランド語が飛び交う会話となりました。

   

ところで、麻衣子さんは、昨年、Maiのペンネームで、絵本作家としてもデビューされています。タイトルは、「Salut!(サリュ!)みんななかよし」 麻衣子さんとプシェメクさんの、結婚前の手紙のやりとりがヒントになって生まれたというこの1冊は、心に癒しと和みを...と、ピアノの演奏と同じ思いを込めて、日本語とフランス語で綴られています。

ピアノに哲学に絵本作家と、とても多彩な麻衣子さん、そしてだんな様のプシェメクさんの、これからのますますのご活躍を、期待しています。

   

さてさて、そんなお二人の近況ですが、明日16日から19日まで、ポーランド西部の町、シュチェチンで開かれる、 第4回国際現代音楽フェスティバル(IX Międzynarodowy Festiwal Muzyki Współczesnej im. Witolda Lutosławskiego) にて、コンサートを開かれるそうです。コンサートは、18日の土曜日、夜19時から、場所は Klub 13 Muz というところです。ちょうどその時期に近場にいる皆さんは、是非コンサートに出かけて、お二人の演奏を楽しまれてはいかがでしょうか?


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統一地方選挙

2006年11月14日 | 政治・経済

一昨日の12日に、市長選、市議選、など計4つ余りの選挙を同時に行う、4年に一度の全国統一地方選挙が開かれました。

12日はあいにく全国的に雨模様のお天気となり、投票率がやや心配されました。(我が家の夫も...天候を理由に投票へはいきませんでした) 今回の選挙では、昨年の上下院選挙で上位争いをした、与党「法と正義(PiS)」、野党の「市民プラットフォーム(PO)」が、それぞれどこまで票を伸ばせるかが、注目の的となっていました。また、今後増えるEUからの補助金の用途をめぐって、各政党候補がさまざまな知恵を出してきており、各方面から大いに注目された選挙でした。

   

さてさて、気になる選挙結果ですが..やはり全国各地で「法と正義(PiS)」と「市民プラットフォーム(PO)」の激突となりました。注目すべきは、都市部では、野党の「市民プラットフォーム(PO)」の票が多かったのに対し、地方部、農村部では、現政権「法と正義(PiS)」の得票が多くなったことです。都市部ほど先進的、地方に行くほど保守的、傾向が今回の選挙結果でも、改めて証明された形となりました。

また注目のワルシャワ市長選は、現職のカジミエジュ・マルチンキエヴィチ氏(PiS)と、野党「市民プラットフォーム(PO)」擁立の候補、ハンナ・グルンキエヴィチ・ヴァルツ氏の得票が僅差となり、後日の決戦投票に持ち込まれることになりました。


ところで今回の選挙選、まったく本筋とは別のところで、一躍話題をさらった人物がいます。北東部ポドラスキエ県・ビヤウィストク市の市長選に立候補した、クシシュトフ・コノノヴィチ(Krzysztof Kononowicz )氏 がその人で、まったく無名ながら、奇想天外な選挙公約と、派手なセーターで、一躍時の人となった人物です。 氏の選挙公報フィルムや、それを見て爆笑するニュースキャスターの動画 などが、Youtubeなどの動画サイトで出回ったり、氏のセーターと同柄のセーターが、ネット・オークションで高額で取引されたりと、今ポーランドでは、ちょっとした「祭り」状態になっているんです^^... Youtubeといえば日本でも先日「スプーの絵描き歌」騒動がありましたが、今回の騒動は、いわば、ポーランド版「スプー騒動」といった感じです^^ 

結局、12日の選挙選では、コノノヴィチ氏は3.3%の票を獲得して選挙選に敗れました。しかしすでに騒動はとどまるところを知らず、氏のファンサイト までできる始末、さらには、氏を、今回の選挙の「ヒーロー」に選んだメディアまで現れました。

人を笑いものにするのは、もちろん決してほめられたことではありませんが、それでもこういったハプニングを通して、若い人たちの間で政治に関する関心が高まるのは、多分よいことなんでしょう。


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ポーランドの独立記念日

2006年11月11日 | 歴史

今日、11月11日は、ポーランドの独立記念日、 シヴィエント・ニィエポドレグウォシチ(święto niepodległości) です。

第一次世界大戦終了後の1918年11月11日、123年間続いた三国分割の時代を経て、ポーランドがロシア帝国から独立した日です。昨日あたりから、あちらこちらの家で、赤白のポーランド国旗が掲げられているのが目立つようになりました。また今年の独立記念日は、土曜日なので、一部の会社や学校では、振り替え休日を設けたところもあるようです。

ちなみに、11月11日は、アンゴラの独立記念日でもあります。 そして「鮭の日(魚辺に十一十一と書くから)」、「電池の日(十一がプラス・マイナスに見えるから)」、「下駄の日(下駄の足跡が11に見えるから)」だそうです。


ところで、ポーランドの独立記念日、昔は7月22日でした。

ポーランドのように、大国に挟まれて消滅・独立を繰り返した国では、複数の独立記念日があります。そのうち歴史上もっとも重要なものを、独立(建国)記念日とするわけです。

これまでの独立記念日であった7月22日というのは、第二次世界大戦中の1944年、ルブリンにおいて、ポーランド国民解放委員会(ルブリン政府)が結成された日でした。

しかしポーランドの歴史を考えてみれば、11世紀の建国以来、18世紀まで、東欧の大国として独立を保ってきたところを、18世紀にロシア・プロイセン・オーストリアの三国に領土を分割され、地図上から消滅してしまったわけですから、その雪辱を果たした1918年の王国の独立回帰の日は、歴史上、大変重要視されています。

しかし20世紀のソ連支配下の社会主義体制では、ロシア帝国からの独立などという記念日は、もちろん到底認められるわけはありませんでした。社会主義が崩壊し、ソ連(ロシア)の影響下を離れたことにより、晴れて、ロシア帝国からの独立を祝うことができるようになったのです。そういうわけで、2,3年前から、ポーランドの独立記念日は、11月11日の「ロシア帝国からの独立を祝う日」に変更になりました。

ポーランドでは、この独立記念日の変更に関しては、特に問題もおきず、好意的に受け止められました。そもそもポーランドでは、第二次世界大戦は1945年で終戦ではなく、そこから新たにソ連の経済支配下に入った、との捉え方が一般的です。従って、2004年5月のEU加盟は、これでやっとソ連支配の悪夢から本当に独立した、と感極まって受け止められました。そういうわけで、「EUに加盟した今、改めてソ連(ロシア)支配からの独立を祝おう」、そんな感じでした。

しかし昔も今も、ロシアと仲が悪いポーランド...
(というか、ポーランドと仲が悪いロシア...というべきか)

これで怒ったのがロシアです。プーチン大統領は、ポーランドの独立記念日の変更を、ポーランドからの挑発と受け取り、反撃にでました。

11月7日の「ロシア革命記念日」を突如廃止し、代わりに2005年から新たに、11月4日に「国民統一の日(День народного единства)」を制定しました。「ロシア革命記念日」は、1917年11月7日、社会主義革命が起こった日ですから、当然、ソ連時代には最も重要な祝日であった日です。それに対し、この11月4日というのは、17世紀(1612年)、ポーランド軍が一時モスクワを占領した時代があったのですが、この侵略ポーランド軍を、モスクワから追放した日(!)なんだそうです。国家の危機を前に、貴族と農民とが、階級の差を乗り越えて、一致団結して戦ったということで、「国民統一の日」。重箱の隅をつついたような、歴史マニアもびっくりの記念日なんです。

これには、当のロシア人ですら、「長年親しんできた7日の革命記念日を急に廃止されても、調子が狂ってしまう」とクレームするほどの、突然の変更でした。

しかしプーチン大統領に言わせれば、ポーランドがロシアからの独立を祝福するのなら、ロシアはポーランド軍の追放を祝福する、というわけです.......ちなみにポーランドとロシアの仲の悪さについては、書いて余すほどエピソードがありますので、当ブログでも、順次ご紹介していきます。

さてさて、11月11日は「世界下駄の日」と書きましたが、 7月22日も「世界下駄の日」 だそうです。どういうわけか、下駄に縁がある、ポーランドの独立記念日でした。


追記:11月11日は、聖マルチンの名前の日(ネームディ)でもあり、ポズナニでは、毎年、聖マルチンのお祭りが開かれます。くわしくは こちらの記事 をどうぞ。


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スパゲッティ・バー

2006年11月10日 | レストラン・ショップ

ポズナニの街を歩いていて、よく見かけたのが、写真のような「スパゲッティ・バー(SPAGHETTI BAR)」です。一見普通のファーストフード店なのですが、メインメニューは、ハンバーガーではなくて、スパゲッティ。それに、ポテトやコーラが付いたセットメニューがあります。

ショウウィンドウの値段を見ると、スパゲッティ・ボロネーゼの小が、3.7zl=150円!これは安い!ということで、早速中に入ったのですが、3.7zlは学生割引料金で、実際には4.1zl、しかもポテトとコーラのセットにしたら、10.9zl=440円になってしまい、結局普通の値段でした。(セットだと、スパゲッティは中サイズになり、値段が跳ね上がりました..)

このスパゲッティ・バー、今のところ、クラクフでは見かけませんが、値段の割りに食べ応えがあっておいしので、今後は増えてくるかも知れません。

   
   

学生の街ポズナニでは、このお店のように、学生割引を設定している店を多く見かけました。例えば、中央広場のスフィンクスでは、食事のメニューを頼むと、ビール一杯無料。なかなか太っ腹なサービスだなと思いました。


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ポズナニ暴動記念碑

2006年11月09日 | 観光ガイド

今年の6月28日、ポズナニ暴動50周年記念式典が、ポズナニにて開催されました。

「ポズナニ暴動」とは、1956年6月28日にポズナニで起こった、学生や労働者による反政府・反ソ連デモです。ポズナニの労働者が生活条件の改善を求めてストに入ったことがきっかけで、デモに発展したもので、ポーランドでは「ポズナニの6月」と呼ばれています。

ポズナニ暴動記念碑は、アダム・ミツキエヴィチ公園の中にあります。西側をポズナニ大学、東側を文化科学宮殿に接しており、噴水の周りを緑の木々が囲む、とてものどかな公園です。天気のよい日には、噴水のまわりで、日向ぼっこをしたりと、ポズナニ市民の憩いの場として人気の場所です。

   

ポズナニ暴動では、デモ隊に治安部隊が発砲したことから、デモが暴動と化し、警察・放送局・共産党本部などが襲撃されました。さらにソ連軍の介入を恐れる余り、ポーランド政府自らデモの鎮圧にあたったため、最終的に数百人の死傷者が出る悲劇となりました。しかしこれが東欧国民の闘争心に火をつけ、同年の「ハンガリー動乱」や1968年の「プラハの春」と続き、ついに80年代にグダニスクにて「連帯」が組織されるに至ったことから、まさに東欧民主化の原点ともいうべき出来事とされています。

ポーランドの国の歴史は、10世紀、ポズナニで始まりました。それから千年後、再びこのポズナニの街で、ポーランドの歴史は大きく前へ一歩を踏み出しました。ポズナニは、まさに ポーランド発祥の地 の名にふさわしい街といえます。



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ポーランド発祥の地-ポズナニ大聖堂

2006年11月09日 | 観光ガイド

ポズナニ大聖堂は、ポーランドで最も歴史の古い教会です。966年ミィエシュコ一世がキリスト教を受容し、ポーランドはカトリックの国になりました。その初期ポーランドの時代に建てられたもので、残念ながらオリジナルのものは第二次世界大戦で消失してしまいました。現在みられるものは、戦後に立て直されたものです。

   

旧市街東を流れる、ヴァルタ川の中州に立っています。旧市街からは、やや離れているので、路面電車(トラム)を利用すると便利ですが、歩いていかれないこともありません。旧市街側からの眺めが、とてもきれいです。

   

ヨハネ・パウロ二世の行くところ、銅像あり。

   

地下に降りていくと、ポーランドの初代君主、ミィエシュコ一世のお墓(の残骸)がありました。

   

こちらは、隣接する聖マリア教会。この教会も、10世紀に建設された大変起源が古い教会です。現在修復工事が進められています。


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