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pride and vainglory -澪標のpostmortem(ブリッジ用語です)-

初歩の文書分析と論理学モドキ(メモ)

空の翳り 第16章 テレマーク行⓯

2021-02-20 07:41:07 | Λαβύρινθος
 密教もこのヒンズーのアプローチを踏襲する。真言密教の根本経典である理趣経の十七清浄句などその典型だよ。
 このような感覚をベースとしたアレゴリーは、認識(覚醒)の階梯の表現として利用される場合、極めて有効であると同時にすこぶる危険なものとなりかねない。感覚そのものを意味と取り違えるものが輩出する事となるからだ。
 物理的感覚の共有・共振とその場における意味の生成を同一視してしまうのだ。簡単に言えば文字通りに拳々服膺してしまう。一種の超能力の充足願望、その自家中毒に陥ってしまうのだ
 まして性的アレゴリーを世界(本質)の開示において使用するとなると危険はいや増す。感覚その物の極まる所にあるエクスタシーを世界の開示そのものと見てしまうのだ。いくらシンボリズムと強調しても無駄。末期仏教タントリスムが陥った袋小路であり、ツォンカパの改革と中観の絶対的重視を持ってしても、チベット仏教がこの袋小路から抜け切ったとは言いがたい。もっとプリミティブとは言え立川流も同断。

 唯名論的であれ、実在論的であれ、普遍的なるもの(ブラフマン・アートマン)の存在を前提とするヒンズーにとってなら、感覚を持って世界(本質)の開示を表記する事は梵我一如への道そのもの。世俗的な価値や倫理の善悪の彼岸に置いてしまえば、性であれ死であれ宇宙の原理(ブラフマン)の極限的顕現として抱擁してしまうことによってアートマンとブラフマンは合一すると言うもの。場合によってはシャクティ派のように善悪の彼岸に置くどころか、日常倫理の根底そのものとすることだって出来る。仏教の用語を使えば、ヒンズーの世界は諸法自性だからね。
 しかし仏教に留まる限りにおいて密教が求めたのは世界の開示ではなく、オットーの言葉を借りれば虚像としての共観空間の一時的成立。
 あくまで諸法無自性であることが前提となる。このような虚像を性的アレゴリーで掴み取ろうとすること自体ある意味では無理の極みといえる。」
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