pride and vainglory -澪標のpostmortem(ブリッジ用語です)-

初歩の文書分析と論理学モドキ(メモ)

空の翳り CODA 彼岸❻

2021-03-06 08:21:28 | Λαβύρινθος
 まあここまでならなら、潜在意識の仕業。本当はロマンチックなビュトールの方が好きなのに、衒いと見栄からグラックと言いつのったものの、夢の中で正直な思いが出てしまったと考える事も出来る。
 しかし本屋の先にあったと言う二軒のロック喫茶などは遙か伝説の彼方。ぼくがあの近傍に立ち寄り出した頃には、店じまいしてからもう10年以上経っていたはずだ。一度物好きな70年代フリークだった友人に、案内をせがまれて店の有った所を訪ねてみたが、何の変哲も無いスナックと焼き鳥屋に変わっていた。
 ガロを創刊から狭いアパートの書棚に並べていた(なんと父親から譲って貰った上に、後は自分で買い続けたと言うコレクション。親爺が上京する度に居座って、最近のガロを読みふけるのでかなわん。といいつつぼくのアパートに居候を決め込む癖がある。居候だけならまで許すが、ぶつぶつ文句を言いながらZガンダムのビデオと小説の対照表を作り始めるのだけは勘弁してほしかった。この男の趣味は、白土三平でもつげ義春でもなかった。
 その時代になじみのある人なら容易に想像がつくだろうが林静一だった。と言う訳で女優なら、緑魔子。歌手ならあがた森魚、レコードなら乙女の儚夢。
 その帰結としての高円寺詣でだったが。
 結果は彼によると。「生者必滅会者定離」
 彼から話しを聞いていたから、ムーヴィンのマスターがあがた森魚のバックバンドもやった蜂蜜パイの一員だと言う事は知識として知っていた。
 でもマスターがちゃんちゃんこを愛用していた事や、炙った烏賊と安いウィスキーが定番だった事など知っている訳がない。店がやっていた時代など小学校へ通う前の事。田舎暮らしだった身で当時の高円寺の事など知っている訳がない。。
 でも不思議な事に、ぼくはそれが事実だと知っているのだ。

 またマントラが聞こえてくる。
ga te ga te paa ra ga te paa ra sam ga te boo dhi sva haa。
つまり少なくとも三重焦点になっていると言うのか。 ぼくはこれまでのぼく/俺としての自己同一性を保ちつつ、更にはこれまでのぼくの物ではありえない記憶を持っていると言う事か。
 ぼくと言う言葉を使うたびに酷く眩暈がして、ぼくの自己同一性と記憶が揺らぎ多重化する。    
 まるで聖ナイフのエイリアのようだ。 複数の先祖の意識を共有し飲み込まれて行くレトの妹。ヴラディミール・ハルコネンの殺害者にしてヴラディミール・ハルコネンそのもの。そう思った瞬間に、今度は昔読んだ本の世界へとへと取り込まれそうになる。不意に禅・スンニーと言う言葉が口をついて出そうになるほどだ。
 うまく想念を区分け出来なければ混沌の海へと沈んで行くしかない。かと言って、予め固定的な係留点(本当の自分)を作ってしまえば、折角ここまで辿りついた意味がない。
 広がった波紋が無限の岸に触れて帰ってくる。その折には岸の形状によって波紋の同心円が崩れる事は覚悟していたが、胎蔵界曼荼羅が続くと考えていた事が大間違いらしい。
 無限の岸に阿弥陀の息吹が届いた瞬間に舞台は変わり、金剛界の並行多重世界は阿弥陀の吸う息の流れの上に顕現するらしい。
 この考えすら唯識の言う所の分別かもしれないが、無分別に身を委ねるのは妄念の分別を尽くして後の事。さも無かれば単なる痴夢にすぎない。大博打を打つ手もあるが、禅坊主でもスーフィー(フランクハーバートの造語、ゼンスンニーは真に秀逸、澪標への舫作業が終わったらすこし考えて見よう。)でもないぼくには、そこまで知性と自己=神への信頼などない。
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