まず阿字観
“閉目開目、 一向に阿字に注ぐべし。 我が心月輪の中に、 本有法然の阿字あり。 これ本不生の義なり。 上、 自性法身より、 下、 六道四生ないし土木瓦石に至るまで、 この本不生の理を備えざるはなし。 ・・・能観の心と所観の阿字と本来無二一体と観ずべし・・我が心月輪の阿字、 出息として外に出て他を度し、 ・・・諸仏の阿字、 我が心に住す、 かくの如く、 出息入息、 無始以来増減なし。 ・・・一切衆生の本不生の理も、 諸仏の本不生の性も終に我が心に収め、 息を臍へそより鼻の前のほとりにとおし、 出入の息を阿阿と唱念すべし。 ・・・・されば受生最初の阿と唱え出ていらい 「阿」 と悦び 「阿」 と悲しみ、 何に付けても阿と言わざることなし。 これ法性具徳の自然道理の種字なれば、 善悪諸法、 器界国土、 山河大地、 沙石鳥類等の音声に至るまで、 皆これ阿字法爾の陀羅尼なり。 ・・・・ただ一心に阿阿と唱うべし。 ”
さらに月輪観
“阿字は月輪の種子なり、 月は字阿の光なり」”と言い、 “月輪の自性清清なるが故に貪欲の垢を離れ、 月輪清涼なるが故に瞋恚の熱を去り、 月輪光明の故に、 愚痴の闇を照らす。 かくの如く三毒自然に離散すれば、 湛然として自ら苦しむことなく、 大安楽解脱を得るなり。 始め月輪の一肘量を観じて後、 漸漸舒のべて、 三千世界ないし法界宮に辺満せしむ。 この時、 阿月をも忘じ方円の相をも忘じ、 自の身と心とをも忘じて、 全まったく無分別に住す。 ・・・出観と思うときに、 一肘量観、 つづめて自心の胸中に収めて衆生を利せんがために、 大悲門の世界に住して出定すべし。 ・・・真実にこの行を成就せんと思わば行住座臥が、 浄不浄を簡えらばず、 間断なく一向にこの三昧に住し、 余念を生ぜず相続して、 退屈心なければ、 必定して現生に自然無上の大法成就すと思い、 努努疑念を生ずべからざる者なり。 ”
阿字観が息吹への道、月輪観がその際に魔へ堕ちぬ為の道と言う訳さ。」
「しかしそんな事なんの保証もないじゃないですか。“浄不浄を簡えらばず、 間断なく一向にこの三昧に住し、 余念を生ぜず相続して、 退屈心なければ”の結果が、魔界まっしぐらの可能性だって公平に言えばイーブン。それどころか仏なり魔にせよ法界に辿りつけばまし、大半は無明の闇に沈むだけとなるのではありませんか。」
「そうそのとおり。だから内観は本来とても危険なものだよ。所謂内観療法と言う奴は浄土真宗の異安心である身調べのことだから、今回の話題とは直接関係無いように思えるけど。その異安心自体真言念仏との接点で生じたものであり、危険極まりないものさ。
脱線するけどフロイト以降の臨床心理学者なんて碌なものじゃない。効果があるからといって副作用を無視して劇薬を使いまくる輩さ。覚鑁自体その危険性を良く知っていた。昨日君が見た「密厳院発露懺悔文」はすくなくとも無明の闇には落ちぬという宣言文さ。その反動として魔の法界に突入する事となってもね。只彼自身は仏の法界へと進む自信があっただろうがね。覚鑁は確信犯での力と正義の人、ある意味でグスマンのドメニコととてもよく似ている。正義の為なら魔に陥る事など怖くも無かっただろう。
カタリ派の完徳者と一遍、アッシジと栂尾。力と非暴力、正義と抱擁。この二つの軸上に現れた東西の二つの正三角形だよ。」
「相変わらず謎めいた説明ですが、なんとなく分りました。それでお師匠さまは、先生が息吹を通じて無明の闇を乗り越えられたとお思いですか。」
眼下に見える屋敷を指差して俺はこう応えると、パウダースノーを蹴立ててすべり始めた。
「“一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ”さ、多分「ぼく」は、あの夢の館の中で俺たちが来るのを待っている。」
“閉目開目、 一向に阿字に注ぐべし。 我が心月輪の中に、 本有法然の阿字あり。 これ本不生の義なり。 上、 自性法身より、 下、 六道四生ないし土木瓦石に至るまで、 この本不生の理を備えざるはなし。 ・・・能観の心と所観の阿字と本来無二一体と観ずべし・・我が心月輪の阿字、 出息として外に出て他を度し、 ・・・諸仏の阿字、 我が心に住す、 かくの如く、 出息入息、 無始以来増減なし。 ・・・一切衆生の本不生の理も、 諸仏の本不生の性も終に我が心に収め、 息を臍へそより鼻の前のほとりにとおし、 出入の息を阿阿と唱念すべし。 ・・・・されば受生最初の阿と唱え出ていらい 「阿」 と悦び 「阿」 と悲しみ、 何に付けても阿と言わざることなし。 これ法性具徳の自然道理の種字なれば、 善悪諸法、 器界国土、 山河大地、 沙石鳥類等の音声に至るまで、 皆これ阿字法爾の陀羅尼なり。 ・・・・ただ一心に阿阿と唱うべし。 ”
さらに月輪観
“阿字は月輪の種子なり、 月は字阿の光なり」”と言い、 “月輪の自性清清なるが故に貪欲の垢を離れ、 月輪清涼なるが故に瞋恚の熱を去り、 月輪光明の故に、 愚痴の闇を照らす。 かくの如く三毒自然に離散すれば、 湛然として自ら苦しむことなく、 大安楽解脱を得るなり。 始め月輪の一肘量を観じて後、 漸漸舒のべて、 三千世界ないし法界宮に辺満せしむ。 この時、 阿月をも忘じ方円の相をも忘じ、 自の身と心とをも忘じて、 全まったく無分別に住す。 ・・・出観と思うときに、 一肘量観、 つづめて自心の胸中に収めて衆生を利せんがために、 大悲門の世界に住して出定すべし。 ・・・真実にこの行を成就せんと思わば行住座臥が、 浄不浄を簡えらばず、 間断なく一向にこの三昧に住し、 余念を生ぜず相続して、 退屈心なければ、 必定して現生に自然無上の大法成就すと思い、 努努疑念を生ずべからざる者なり。 ”
阿字観が息吹への道、月輪観がその際に魔へ堕ちぬ為の道と言う訳さ。」
「しかしそんな事なんの保証もないじゃないですか。“浄不浄を簡えらばず、 間断なく一向にこの三昧に住し、 余念を生ぜず相続して、 退屈心なければ”の結果が、魔界まっしぐらの可能性だって公平に言えばイーブン。それどころか仏なり魔にせよ法界に辿りつけばまし、大半は無明の闇に沈むだけとなるのではありませんか。」
「そうそのとおり。だから内観は本来とても危険なものだよ。所謂内観療法と言う奴は浄土真宗の異安心である身調べのことだから、今回の話題とは直接関係無いように思えるけど。その異安心自体真言念仏との接点で生じたものであり、危険極まりないものさ。
脱線するけどフロイト以降の臨床心理学者なんて碌なものじゃない。効果があるからといって副作用を無視して劇薬を使いまくる輩さ。覚鑁自体その危険性を良く知っていた。昨日君が見た「密厳院発露懺悔文」はすくなくとも無明の闇には落ちぬという宣言文さ。その反動として魔の法界に突入する事となってもね。只彼自身は仏の法界へと進む自信があっただろうがね。覚鑁は確信犯での力と正義の人、ある意味でグスマンのドメニコととてもよく似ている。正義の為なら魔に陥る事など怖くも無かっただろう。
カタリ派の完徳者と一遍、アッシジと栂尾。力と非暴力、正義と抱擁。この二つの軸上に現れた東西の二つの正三角形だよ。」
「相変わらず謎めいた説明ですが、なんとなく分りました。それでお師匠さまは、先生が息吹を通じて無明の闇を乗り越えられたとお思いですか。」
眼下に見える屋敷を指差して俺はこう応えると、パウダースノーを蹴立ててすべり始めた。
「“一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ”さ、多分「ぼく」は、あの夢の館の中で俺たちが来るのを待っている。」
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