pride and vainglory -澪標のpostmortem(ブリッジ用語です)-

初歩の文書分析と論理学モドキ(メモ)

空の翳り CODA 彼岸❷

2021-03-02 06:52:47 | Λαβύρινθος
 随分後になってから、声字実相義等の主要著作に当たるようになってからも、基本的にこの観想は変わらなかった。
 ある時、ふと「俺」にこの件についての意見をきいてみたら、その答がふるっていた。
 「多分読んでるよ。あのおっさん。但し、本当にその経や論が存在する限りはな。
 ボルヘスや小栗虫太郎並みの技をあのおっさんが披露したのかどうかは尋ねること自体無駄。      
 本当になくなってしまった文献も少なくないし、御先師様の為贋作に勤めた奴も随分いたに違いない。
 手の込んだ奴なら文献その物を贋作するのではなく、文献を参照した文書を作り上げる。まさにボルヘスの世界さ。まあなんでも有りと思って読むんだな。」
 これが答ともなんとも言い様がない「俺」の助言だった。
 般若心教秘鍵 秘蔵真言分でも空海らしさが炸裂する。冒頭から延々と続けてきた十住心論の強引極まりない嵌め込みをもう一度を展開した末、“もし字相義等に約して之を釈せば、無量の人法等の義有り、劫を歴ても尽し難し”と開き直った挙句に、もう一度“真言は不可思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す”とお説教モードにはいる。
 普段の空海ならこれでお終いのはずなのに、秘鍵の空海はどこか調子が違う。直前の章句で否定したはずのマントラの釈義を始めてしまうのだ。
 “行行として円寂に至り、去去として原初に入る、三界は客舎の如し、一心はこれ本居なり” 
なんともはや詩的な解釈。エレガントなのだ。始めて読んだ時からとても不思議で心の隅に残った事は確かだ。
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