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盛岡市 宮沢賢治の母校 旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)

2023年11月15日 15時46分21秒 | 岩手県

旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)。盛岡市上田。

2023年6月9日(金)。

安倍館稲荷神社(厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡)周辺の見学後、宮沢賢治の母校である旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)へ向かった。キャンパス東の一高前道路から構内に入り、正面奥の無料駐車場に9時30分ごろに着いた。資料館の開館時刻が10時からなので周辺を歩いてみた。温室開放の準備に来た若い女性職員が資料館の受付にいて、入館と退館時に少し話をしたが、武家の娘のような感じのいい人だった。

資料館内部は撮影禁止である。展示は歴代教授陣の業績紹介が多いが、宮沢賢治コーナーで、宮沢賢治から関豊太郎教授への手紙、関豊太郎教授の宮沢賢治追想文などを読みふけると宮沢賢治と関豊太郎の関係がよく分かった。

旧盛岡高等農林学校(岩手大学農学部)旧本館。

この建物は、我が国最初の高等農林学校として、明治35年(1902)に創立された盛岡高等農林学校の本館として、1912年(明治45年)5月に着工、同年(大正元年)12月に竣工した。工事の設計管理は、旧文部省の営繕組織の技手であった谷口鼎(かなえ)が担当した。明治期に設置された国立の専門学校の中心施設のうち、現存する数少ない遺構のひとつである。広大なキャンパスの中央南寄りの植物園北端に南面して建つ。正面32.8m、側面14.6mの青森ヒバを用いた木造2階建で、外壁は下見板張り、寄棟造の屋根はスレート葺である。小屋組はトラスで、照明器具も当初のものが残っている。

中央に玄関が設けられた1階は東西に廊下があり、両端に階段を設けている。廊下両側は、正面中央の玄関ホールを除き各部が部屋となっている。当時、一階は校長室、事務室、会議室に、二階は大講堂として諸学校行事に使われていた。

昭和24年、学制改革により岩手大学発足後、大学本部として使われていたが、昭和49年(1974)に本部が現在地に移転し、昭和52年(1977)同窓生等の寄金により改修が行われ,農業教育資料館として使用されている。平成6年(1994)、国の重要文化財に指定され、ほぼ設立当時の状態に大修復が行われ現在に至っている。

宮沢賢治が学んだ経緯から、現在は賢治に関する資料を多数展示する教育資料館として一般公開されている。

宮沢賢治は大正4(1915)年から9年の間、岩手大学農学部の前身盛岡高等農林学校農学科第二部(後の農芸化学科)本科生および研究生として在籍した。色白で、人を引きつける独特の笑顔のまじめな学生で、成績良く、級長、特待生、旗手などを務めた。また、仏教に関心を持ち、短歌などもよくし、文芸同好会(アザリア会)や校友会での活躍を通し、友らとの親交を深め、さらに山野を跋渉しては自然との交感も重ねる学生であった。学業では、地質、土壌学などに興味を持ち、その道の権威、関豊太郎教授指導で同級生らと「盛岡付近地質調査報告」をまとめると共に、教授のゼミに参加し、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物二対スル価値」を残した。

卒業後、研究生として恩師に協力し「岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」の作成に参加した。この良き師との出会いや数回にわたる土性調査は、賢治自身の古里稗貫郡の農業環境を良く知る機会となり、それが後に地元花巻農学校教師や農業指導実践の場であった羅須地人協会での肥料設計などを支える基礎となった。

また師の石灰岩床による酸性土壌改良や、冷害克服にかけた願いも、得業論文や土性調査をとおして賢治の願いともなった。しかし志半ばで倒れ、その果たせなかった願いや夢は、作品「グスコーブドリの伝記」や数々の童話や詩に託された。

第四展示室。本学で学び自然と人間の調和、農の理想を目指した宮沢賢治の在学中に学んだ教材や、地質調査や得業論文作成時に使用した実験器材、彼が採取してきた岩石や作成した岩石薄片標本や、石灰岩(土壌改良剤)とのかかわりなど、賢治の生き方や作品に高等農林学校時代に学んだものが如何に影響したかを見ることができる。さらに、在学当時の「校友会会報」、賢治及び同級生らの得業論文(卒業論文)、「岩手県稗貫郡地質および土性調査報告書」、「アザリア」(一部)、「注文の多い料理店」、「雨ニモ負ケズ」、恩師関豊太郎宛「手紙」などの複写、学生時代の写真なども展示している。

 

他の展示では、盛岡高等農林学校創立以来掲げられた寒冷地東北での農業に対する思いが、玉利喜造初代校長「凶作の研究」や関豊太郎博士の「凶冷気象の原因研究」として始まり、現在の岩手大学の研究・教育へと受け継がれてきたことが分かる。

さらに、高等農林学校時代の実験器具、当時の教官の研究業績の一部(鈴木梅太郎博士研究報告、内田繁太郎博士の笹標本、門前弘多博士の虫瘤研究等)、卒業生の一部(鈴木梅太郎博士の下でビタミンB1の結晶化に成功した大獄了博士遺品や賢治に師事し、開拓と農業に情熱を燃やした松田甚次郎の遺品等)や高農生のノート、服装なども展示されている。

温室のあたりが、石川啄木の妻節子の生家跡で、古井戸が復元されている。

温室と農業教育資料館。

宮沢賢治モニュメント。

門番所は、明治36(1903)年盛岡高等農林学校の正門(現在の通用門)として建てられた。木造鉄板葺「寄棟風八角」造で、外壁は下見板張りである。正面は八角形の事務室、後方は方形の突出部(和室・事務室)が取り付く小規模な建物である。本館竣工により、現在地に移築された。門番所と旧正門(土塁の一部を含む)も同時期の学校施設として価値が認められ、重要文化財に指定されている。

旧正門は,高等農林の本館竣工(1912年)に伴い、本館西側の河岸段丘上台と下台の間に取り付け道路を築き、造られた。上台には土塁を盛り、花崗岩を積み上げた門柱がそれを支え、あたかも城郭のような構造である。門柱上には古い地球儀のような門柱灯が載っている。門扉は失われているが、門柱3本と土塁が残っている。門内部には1920年に並木の始点として植栽されたユリの木の巨木があり,今は無き旧並木を伝えている。

農学部食堂。528円。資料館の近くにあり、11時オープンと同時に入店した。

 

このあと、岩手県立博物館へ向かった。

盛岡市 安倍館稲荷神社・厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡


盛岡市 安倍館稲荷神社・厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡

2023年11月14日 11時47分53秒 | 岩手県

安倍館稲荷神社。(厨川柵推定地・安倍館・厨川城跡)。盛岡市安倍館町。

2023年6月9日(金)。

盛岡城跡を見学後、厨川柵(くりやがわのさく)推定地へ向かった。山川出版社の歴史散歩の記述では厨川八幡宮、天昌寺が紹介されていたので、厨川八幡宮へ向かった。厨川八幡宮は車道から東側へ狭い道を入った場所にあり進入しづらかった。南隣の進入路を入ると、厨川八幡宮ではなく、安倍館稲荷神社があり、安倍館公民館の横に駐車した。

東は断崖が続き、区画ごとに濠があり、なるほど厨川柵の跡かと錯覚させられた。

結局、この地は戦国時代の工藤氏の厨川(栗谷川)城跡であり、嫗戸柵(うばとのさく)の推定地であった。

嫗戸柵は、安倍氏の勢力範囲最北の古代城柵であり、厨川柵と共に一連の柵を形成したと考えられる。前九年の役の1062年(康平5年)に厨川柵と共に陥落した。

厨川(栗谷川)城。

文治5年(1189年)、源頼朝は奥州藤原氏を討ち、奥州を平定した。頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、厨川を訪れ、戦功のあった工藤行光を岩手郡地頭に任じ岩手郡の33郷を与えたとされる。

厨川工藤氏(のち栗谷川氏)は厨川の里館(さたて)遺跡と推定される地に厨川館を築いて拠点とし、岩手郡を統治して「岩手殿」と呼ばれた。14世紀の南北朝争乱の際は北朝方につき、近郊10ヵ村を領知するに至った。次第に厨川(栗谷川)氏の領地は厨川周辺のみとなり、16世紀には現在の安倍館町に厨川城を築いたが、最終的には南部家の家臣に組み込まれていき、天正20年(1592年)の『諸城破却令』により廃城となった。

現在、安倍館遺跡に見られる濠跡は、この「厨川(栗谷川)城」の遺構と考えられている。北東側は北上川に面した切り立った崖となっており、自然の外堀となっている。現在も往時の曲輪平坦面と、それらを隔てる堀切跡が残されている

南館 東西91m×南北51m。中館 東西95m×南北47m。本丸 東西115m×南北87m。北館 東西118m×南北20m。外館 東西111m×南北75m。

 

厨川柵永承6年(1051年)から康平5年(1062年)にかけての前九年の役で滅亡した安倍氏一族最後の拠点で、安倍氏の勢力圏では最北端にあたり、南の衣川柵とともに安倍氏の二大拠点であった。

11世紀、鎮守府胆沢城の在庁官人であった安倍頼時(あべのよりとき)は俘囚(在地エミシ系勢力)の長となり、奥六郡(おくろくぐん、岩手県中北部)の統率者となった。安倍頼時は、本拠地鳥海柵(とのみのさく)〔金ヶ崎町〕をはじめ各地に柵を築き、「厨川次郎」を名乗って総大将となった安倍頼時の次男・安倍貞任(あべのさだとう)は最北の厨川柵を拠点とした。

厨川柵は、前九年の役において、源頼義ら朝廷軍との最終決戦場となり、康平5年9月、源氏・清原氏の連合軍に包囲されて激戦の末に落城、貞任や重任(しげとう)は捕らえられ処刑、宗任(むねとう)、家任(いえとう)、則任(のりとう)らは降伏、頼時の娘婿の藤原経清(清衡(きよひら)の父)はわざと切れない刀で首を打たれ苦しみながら亡くなり、安倍一族は滅亡した。『陸奥話記』には「城中男女数千人」とあり、かなり大きな城であったことがうかがえる。

安倍氏一族が厨川柵に滅ぶと、出羽の山本三郡(やまもとさんぐん)を拠点としていた清原氏が北東北一帯を支配するようになる。清原氏が後三年の役(1083~87年)で滅んだのちは、北東北は安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となり、岩手郡は奥州藤原氏の一族「樋爪氏」が所管したと考えられている。

「盛岡市遺跡の学び館解説シート。厨川柵・嫗戸柵(うばとのさく)と厨川の遺跡」を読むと、厨川柵は、西側台地の大館町・大新町・小屋塚一帯であろうとされるが、明確な場所は特定されていない。

大館町遺跡では12世紀の溝安倍氏時代にあたる11~12世紀の土器が出土。大新町遺跡では11世紀の掘立柱建物跡、木柵跡、土坑などがある。小屋塚遺跡では竪穴建物跡から土師器高台付坏が出土している。前九年1丁目の宿田遺跡、上堂4丁目の上堂頭遺跡などから10世紀末-11世紀中頃の土師器などの遺物や、竪穴建物や掘立柱建物などの遺構が検出されている。また西青山1丁目の赤袰遺跡では、同時期の鍛冶遺構や土師器生産遺構などが見つかっていることから、上記諸遺跡の分布範囲内に厨川柵・嫗戸柵が存在したことはほぼ確実であろうとされている。

この台地一帯の南側は鹿角街道が通じ、雫石川や秋田街道を俯瞰する交通の要衝であった。一方、安倍館・厨川城跡周辺は嫗戸柵(うばとのさく)があった地域とみられ、北上川の崖に沿った台地である。

 

このあと、宮沢賢治の母校である旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)へ向かった。

盛岡市 日本百名城・国史跡・盛岡城跡


盛岡市 日本百名城・国史跡・盛岡城跡

2023年11月13日 13時47分36秒 | 岩手県

日本百名城・国史跡・盛岡城跡。本丸跡。盛岡市内丸 岩手公園。

2023年6月9日(金)。

福田パン本店から盛岡城跡公園地下駐車場へ急いで向かった。盛岡城跡公園地下駐車場は22時から翌8時まで80円(1時間ごと)なので、盛岡城跡を8時まで見学することにした。結果的には、7時17分入庫、7時54分出庫で駐車料金は80円で済んだ。

1980年代後半に盛岡市へ旅行したときは、市内観光の定期バスを利用して、盛岡城跡と原敬記念館などを見学した。そのときは石川啄木関連がメインの目的であった。今回、石川啄木記念館は休館中であった。

盛岡城南部(盛岡)藩南部氏の居城である。白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。かつての北上川(北上古川)が湾曲しながら市内菜園付近を流れ、下の橋下流直下で中津川と合流していた地点の浸食段丘上の花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。

盛岡城ジオラマ。岩手県立博物館。

盛岡城の縄張は、本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていた。さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。

本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。後、1842年(天保13年)に12代利済により天守へと改称されている。

盛岡城は、城は2つの川にはさまれ、さらに御城内の堀、重臣が居住する外曲輪、その外に惣構えとして諸士や町人街の遠曲輪(とおぐるわ)という三重の塁濠によって守られていた。その規模は東西1,100m、南北1,300mに及び、中核となる御城内の標高は143m、比高20mほどであった。

縄張りとしては、連郭式の縄張りを基軸に、回郭式(輪郭式)の縄張りを合わせた構成になっている。北側は地続きであるが、他の三方は河川に面し、北側に外曲輪、さらに外側地域と中津川対岸に遠曲輪を配し、城域全体としては梯郭式の縄張となっている。

御城内は本丸、二の丸、三の丸などから構成され、それぞれ盛岡産花崗岩を用いた石垣によって区画されている。本丸は南端に位置し、東西70m、南北55mほどで、三層の天守が建っていた。二の丸は本丸の北側に位置し東西90m、南北55m、三の丸はさらに北で東西80m、南北45mほどである。

盛岡城は、慶長3年(1598)南部信直によって築城が着手され、完成は利直・重直を経た寛永10年(1633)とされる。

南部氏は甲斐国南部郷を領した光行にはじまり、承久元年(1219)に源頼朝に糠部(ぬかのぶ)5郡(青森県南部から岩手県北部)を与えられ入部した。三戸城を本拠として各地に一族を配して統治し、室町時代後期には南進して現在の岩手郡や紫波郡を攻略した。

1588年(天正16年)南部信直は高水寺城の斯波氏を滅ぼし、1590年(天正18年)には豊臣秀吉から、閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡ならびに糠部郡の所領を安堵された。1591年(天正19年)九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(福岡城、二戸市)に本拠を移した。和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増されて7ヶ郡10万石の所領を安堵された。

1592年(文禄元年)秀吉の重臣浅野長政らから九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け、不来方(こづかた)の地を本拠とすべく整地を開始した。

慶長年間には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。

南部氏が福岡城から盛岡城へ移ったのは元和年間(1615-1623)といわれるが、たび重なる洪水による石垣の崩落があり、一時は斯波氏の居城・高水寺城を改修した郡山城に移転するなどし、重直の代に盛岡城が完成した。

以後、明治に至るまで盛岡藩政の中心となったが、1872年(明治5年)には陸軍省所管となり、1874年(明治7年)に城内建物はほとんど取り壊された。1903年(明治36年)に岩手県により公園整備が開始され、1906年(明治39年)に「岩手公園」として開園、その後所管は盛岡市に移された。

内堀。

本丸門。内側。

本丸。南部(利祥)中尉騎馬像台座。

南部家42代利祥(としなが)が24歳で日露戦争において戦死し、その功によって、功五級金勲章を受けたことを顕彰する像で、明治41(1908)年9月に建立されたが、銅像本体と玉垣の鎖は昭和19(1944)年に軍需資材として供出され、現在は台座のみが残されている。

この地には、かつて南部氏の家臣福士氏の不来方城(こずかたじょう)の淡路館(あわじだて)・慶善館(けいぜんだて)が存在し、淡路館の部分が利用された。

不来方城1・2期は、丘陵を切り盛りして平坦地や空堀・土塁を廻らせた土の城で、建物はほとんどが板葺き・茅葺きの屋根であった。

盛岡城1期は、不来方城の堀を埋め、平坦地を拡張して築かれた。頂上の本丸・二の丸の一部には石垣が積まれ、瓦茸きの櫓などもあったが、中腹の腰曲輪や二の丸西側・三の丸などは土手のままで、周囲に木柵が廻っていた。腰曲輪が石垣になるのは盛岡城2期の段階で、このとき本丸石垣も積み直され、双鶴(向鶴)紋の瓦が葺かれた。

しかし間もなく、本丸の三重櫓などが落雷で焼失した。これらの建物は1674年(延宝2年)より再建が始まるが、ほぼ同時期に、二の丸西側も北上川の川筋が切り替えられ、1686年(貞享3年)にかけて高い石垣が築かれた。これが盛岡城3期で、この時期から主要な櫓などには、赤瓦が葺かれるようになった。

本丸北東隅から本丸門、天守台。

本丸北東隅から台所。

本丸北東隅から二ノ丸南東隅。

東面石垣の南半部に、延享年間に付加されたハバキ石垣が 2ヶ所取り付いている。この背面の石垣は下部が 1期の石垣。上部は 2期の石垣となっている。

本丸北東隅から二ノ丸への橋。

本丸東西40m~6lm、南北60mの矩形をなしているが、東側は御末門を境に喰違となり、南東部が大きく張り出している。このため大手側の北辺が狭く、搦手側の南辺が広い。御末門を出て坂を下りると、東側に御乗物部屋の石垣があり、これと本丸石垣の間には冠木門が存在した。

本丸には 4基の櫓があり、南東隅に天守相当の三重櫓、南西隅に二階櫓、北東隅に隅櫓 、 北西隅には小納戸櫓が存在した。三重櫓の櫓台は、東西llm、南北10mで、現状では上面に東屋があり、現在南西側に石階が設けられている。

小納戸櫓と二階櫓の間は内側に窪んで、いわゆる合横矢のプランになっている。石垣は西辺中央部を除いて、内側にも石垣を備えた石土居となっていた。

虎口は 2ヶ所開かれる。大手側、ニノ丸との間の堀切に面して廊下橋門があり、この左右両翼には多聞櫓が存在した。搦手側には御末門があり、南脇には多聞櫓が存在した。このほかに、南西側の二階櫓北側から合横矢の位置に百足橋という階段が下っていたが、二階櫓は大奥の長局や藩主の居間に近く、百足橋は非常時の脱出路であろう。

本丸から二ノ丸方向。

二ノ丸から本丸方向。

ニノ丸は、本丸の北側に、堀切を隔てて存在する。中ノ丸とも呼ばれ、南北76m、東西40mから 58mの広さがある。現状では南辺と東辺が一段高い地形となって、他は広く同一平坦面となっている。本来は、大書院など主要殿舎の存在した南東部が、 38mX32mの方形に石垣が築かれて一段高く、この西側と北側が 2 mほど低い地形となり、2段の構成になっていた。

 

盛岡(三戸)南部氏。

甲斐国巨摩郡南部郷を本領とする南部氏が、陸奥北部で活動し始めるのは、建武の新政のころからである。陸奥国司北畠顕家によって、糠部検断奉行となった、南部帥行を初めとする根城南部氏(八戸氏)は、南北朝合ーの後も、八戸根城を拠点に勢力を伸ばし、郡内の領主との連合勢力を形成していった。室町時代の15世紀、根城南部氏は、奥州探題大崎氏から、内裏造営の段銭徴収や、軍事動員等を直接下命されており、糠部地域の領主層を代表する存在であったことがわかる。戦国時代の天文年間 (1532~1555) には、一族の中の三戸南部氏や、九戸と二戸の領主九戸氏が大きく台頭して、根城南部氏を凌ぐようになった。天正10年 (1582)、南部睛政、睛継父子急死のあと、三戸南部家を継承した南部信直は、九戸政実と対立する。前田利家を通じて豊臣政権を後ろ盾とした信直は、天正16年 (1588) には斯波氏を降し、天正19年 (1591) には九戸氏を滅ぼして、豊臣政権下の大名としての地位を確立した。信直は居城を三戸から福岡(二戸市)へ移転し、さらに、北上盆地北部の不来方に新城を定めて、盛岡南部氏の初代となった。

不来方と福士氏。

今日の盛岡市街地中心部の地形は、南部氏の築城と、城下町建設により改変された地形である。室町時代から戦国時代にかけて、福士氏が支配しており、その居城が不来方城であった。福士氏は南部氏と同じ甲斐源氏の一族と伝えられ、南部氏に随身して奥州に来住したとされている。福士氏の系譜や菩提寺東顕寺の記録では、明徳 2年(元中元年: 1391) に福士政長が没しており、このころには不来方を領していたらしい。また、応永11年 (1404) には、大膳(系譜では南部義政とされる)から不来方の領有を認められている。福士氏は南部氏の、甲斐以来の重臣の家柄と伝えられているが、 16世紀の中ごろには、斯波氏の勢力が岩手郡に大きく拡がっている。また、それ以前から河村氏の一族も、志和郡の河東から岩手郡東部一帯に、支族をおいている事実がある。不来方の福士氏が、室町、戦国期を通じて、南部氏に属したまま推移したということは考えにくい。南部睛政の岩手郡進出のときに、晴政に服属したが、九戸合戦時の福士氏の動向は不明であり、盛岡築城のころには、信直の意に反し、不来方を出奔している。福士氏については、駿河の南条氏または富士氏の一族とする説もある。

要害としての不来方。

不来方は北上川、中津川の合流点にある要害地形であり、そこは地域の信仰を集めた聖地であり、主要街道や北上川に面した交通の要衝であった。こうした地の利をえた不来方城は、室町時代から戦国時代にかけての軍事的な拠点としても重要な役割を担っていた。

応永11年 (1404) 福士左京大夫と福士治部少輔は、南部大膳から不来方城に粟、米等食糧の備蓄を命ぜられている。大膳は三戸の南部義政とされているが、実際には八戸根城南部氏からの命令であったのかもしれない。また、永享 7年(1435) から翌年にかけて和賀、稗貰両郡に大乱があり、北奥27郡の軍兵が召集された。この鎮圧軍の終結場所が岩手郡不来方城であった。南部長安ら北奥諸郡の軍勢は不来方城に数日待機し、翌年春には斯波御所を総大将に稗貫郡に出陣している。戦国時代末期の天正14年から 16年にかけて三戸の南部倍直志和郡侵攻の際にも、不来方城は志和郡進出の拠点となっており、東の中野館とともに、斯波氏への備えとして位置づけられていた。このように、不来方が大規模な軍事行動の際の拠点として機能したのは、地形の要害性もさることながら、各地に通じる諸街道が交差する交通の結節点であり、城の位置が岩手郡、志和郡それぞれに対応できる要地であったこと。また、周辺には生産力のある村落や農耕地も多く存在し、まとまった軍の駐留が可能であったためであろう。

総石垣の織豊系城郭。

南部信直が、九戸の陣から帰還する天正19年の 9月10日、豊臣軍の軍監浅野長政が不来方城において、南部信直に不来方城の地に新城を築くよう、積極的に奨めた。信直の居城三戸城は、周囲を山に囲まれて堅固な構えであるが、広い田畑もなく、決して豊かな土地ではないこと、それに対して不来方は前に田畑が広がり、後ろには大河が流れ、周囲の山や河、街道に至るまで、利に適った場所であることから、是非この地に新城を築くべきであると説いたのである。そして、南館(淡路館)の地形を大まかに計測して縄張りをし、地山が狭小ではあるが、盛土拡張すれば必要面積は確保できることや、構造上障害となる北館(慶善館)を切り崩すように指示していることである。しかも、その基本的な縄張までも、浅野長政自身が行っている。これは豊臣政権が、地方大名である南部信直の居城について、立地や構造の詳細をも掌握することになり、同時に、南部氏独自の築城を許さないものであった。新城の構造から明らかなように、盛岡城はあくまでも豊臣政権下の一大名、盛岡南部氏の居城であり、その築城は豊臣政権の政策が前面に出た内容で実施された。

実際の築城工事にあたっては、前田利家の家臣内堀伊豆頼式が奉行並として参画していた。その結果、盛岡城は、戦国期の北奥地域の城館とは大きく異なり、総石垣の豊臣系城郭として築城された、国内最北の事例となっている。

 

盛岡城跡見学後、厨川柵跡の見学に向かった。

盛岡市 福田パン長田町本店 盛岡のソウルフード コッペパン


盛岡市 福田パン長田町本店 盛岡のソウルフード コッペパン

2023年11月12日 10時55分46秒 | 岩手県

福田パン長田町本店。盛岡市長田町12-11。

2023年6月9日(金)。

道の駅「紫波」から盛岡市内へ向かった。10日(土)の「チャグチャグ馬っこ」に合わせ、本日は盛岡市・滝沢市を見学して、八幡平市の道の駅「にしね」で終わる行程である。当日は一日中、雨だった。

「るるぶ」などで予習していると、福田パン本店が地元のソウルフードとして、『秘密のケンミンSHOW』などで有名になり、全国からの観光客にも愛されている人気店であることを知った。営業時間は7時から17時までだが売り切れ次第終了なので、7時までに来店することにして、6時50分ごろに到着した。住宅街のなかの10数台分の駐車場には数台駐車しており、5人目ぐらいに並んだ。仙台・宮城ナンバーが多く、関東ナンバーの車もいた。7時開店のころには10数人の行列ができていた。

 

福田パンは、昭和23年(1948)創業の老舗パン屋で、創業者の福田留吉は、花巻農学校時代に、宮沢賢治の教え子だったという。教師であった宮沢賢治の勧めで盛岡高等農林学校に進んだのち、京都のイーストメーカーに就職。終戦後に盛岡に戻ってきた留吉さんが、メーカーでの知識をもとに創業した。創業当時は砂糖などが不要のフランスパンを作っていたが、その後食パンを経て、1950年代から地元・岩手大学の売店でパンを販売することになった際「安い値段で学生を満腹にさせたい」と独自のコッペパンを開発した。コッペパン1個と牛乳1本で、米飯2膳と味噌汁1杯と同等のカロリーになるよう計算されている。

事前に人気のあるメニューをチェックしておき、店頭でのおすすめも加えて、定番の「あんバター」と「コンビーフ」を注文した。コッペパンの中身はさまざまである。大量に注文している人もいる。コッペパンの種類を注文すると、その場で店員が具材を塗り分けるのが、面白い。

店頭では、50種類以上用意されている具材の中から客が自由に選ぶことができ、注文を受けた店員がその場でパンにクリームや具材を挟んで提供する対面販売の形式をとっている。

コッペパンを横にカットして客が注文した具材をその場で手早く塗る販売方法は、いまでこそコッペパン専門店の定番だが、本来は昔懐かしい昭和初期のパン屋さんのスタイルで、当時はパンの種類も少なかったため、具材を変えることで多品種にするということが珍しくなかったという。

「大きなふかふかのコッペパン」が特徴で、主力商品は「ソフトフランスパン」と呼ぶ長さ約17 cmのコッペパンに、クリームペーストや調理惣菜など、様々な具材を挟んだものである。2種類のクリームや具材を挟むことも可能であるため、組み合わせは1,000種類に上る。

「あんバター」などのお菓子系や、ハムやたまごなどを挟んだおかず系など種類豊富である。野菜をたっぷり挟んだものにトッピングでメンチカツなどを追加できる「オリジナル野菜サンド」も人気がある。

『あんバター』。168円(税込)

甘さ控えめのこしあんと、バター入りマーガリンをたっぷりと塗った、やさしい味わいの定番コッペパン。こしあんの素朴な甘みとコクが絶妙なバランスの飽きのこない味わいである。

「福田パン」のコッペパンの特徴は、なんといっても前後・高さともに大きくふっくらとしたボリュームと、噛んだ瞬間に唇までやわらかく包み込まれるような圧倒的な弾力。ただやわらかいだけではないふかふかとした食感は、ほおばるだけで幸せな気分にる。この独特の食感は、創業当初から変わらない独自の中種法を用いた製法から生み出されているという。

具をはさむ前のサイズは、長さ約17cm×太さ約9cm×高さ約6.5cmと大きく具材もたっぷりと挟まれることから、定番商品の「あん・バター」では1000 kcalに達するのではと言われることがあるが、実際には同商品のカロリーは約570 kcalである。

「コンビーフ」。330円(税込)。

ハワイや沖縄のスパムのような味を想像していたが、甘くしっかりと味つけされており、美味かった。

 

盛岡城跡見学用の安い駐車場を昨日の昼過ぎに探し比較的安い駐車場を見つけたら満車になったので、あきらめて矢巾町の徳丹城跡へ向かったので、検討すると盛岡城跡公園地下駐車場が22時から翌8時まで80円(1時間ごと)だと知ったので、盛岡城跡を8時まで見学することにして、福田パン本店から盛岡城跡公園地下駐車場へ急行した。

岩手県紫波町 高水寺城跡 斯波氏苗字発祥の地

 


岩手県紫波町 高水寺城跡 斯波氏苗字発祥の地

2023年11月11日 13時28分43秒 | 岩手県

高水寺城跡。岩手県紫波町二日町古舘。

2023年6月8日(木)。

矢巾町歴史民俗資料館と国史跡・徳丹城跡の見学を終え、国道4号線を南下して紫波町の高水寺城跡へ向かった。城山公園の車道終点駐車場は本丸直下にある。草で覆われた本丸には愛宕神社があり、駐車場からは北西への展望がある。

高水寺城は、室町時代の管領家斯波氏の一族で紫波郡を領した高水寺斯波氏の本城であり、斯波氏の苗字発祥の地として所縁が深い。江戸時代初期に郡山城(こおりやまじょう)と改称した。

高水寺城は、北上川右岸の独立丘陵に位置し、規模は東西550m南北700mに及ぶ平山城である。最頂部は標高180mを測り、北上川中流域を一望できる。

最頂部の本丸(御殿)跡は東西60m南北120mで、二の丸跡は東西50m南北100mほど。本丸を中心に、南に若殿屋敷(二ノ丸)、姫御殿、東に家臣の右京屋敷、台所屋敷など、蓮弁状に連なる。各郭には階段状の腰郭が続く。主要な郭を巡る空堀と土塁は改変を受けて不明な点も多いが、急崖をなす東辺を除いて二重、三重の塁濠が中腹から山裾にかけて残っている。南西に「吉兵衛館」、その西方に「西御所」が続く。

高水寺城の築城は、建武2年(1335)に足利尊氏の命により奥州管領として下向した足利高経の長子・斯波家長が、『吾妻鏡』にも登場する当地方の古刹、高水寺の寺域の一部を城館として整備・造営したことに始まるとされる。

のちの斯波氏の祖で足利氏4代泰氏の庶長子である足利家氏が、鎌倉時代中頃に斯波郡を所領として以降、子孫は現地に代官を派遣していたとみられる。家氏の曽孫が高経である。

家長以降の斯波氏は現在の紫波郡・花巻市東部などの66郷を支配した。戦国時代に入り、平野部の城館のみでは防御上の不安が生じたため、郡山の丘陵上に詰の城を築き郡山の山城が斯波氏の本城と見なされ、高水寺城または志和館(城)と称された。斯波氏が隆盛をきわめていたころは「斯波御所」と称されていた。

大永元年(1521)および天文6年(1537)には南部氏と交戦し、岩手郡を攻略している。詮高(あきたか)の代には次男を雫石に、三男を猪去(いさり)に配して「三御所」といわれた。

しかし、三戸南部氏の南進政策は対立抗争を激化させ、天正16年(1588)岩清水右京の謀叛を契機に斯波詮直は南部信直に敗れ、斯波詮直は城を脱出してほぼ無抵抗のうちに陥落した。

天正十九年(1591)南部信直は高水寺城を郡山城と改め、中野康実(やすざね)を城代に任じ、郡山は郡治の中心となった。盛岡城築城に際しては南部利直の10数年間の居城になり南部領の中心となった時期もあったが、寛文7年(1667)に至って廃城となり、古材は盛岡城本丸に使用されたと伝えられている。

本丸の石垣は、弘化三年(1847)38代藩主、南部利済によって郡山古城東側に架設された承慶橋建設に用いられたという。

現在は、総合公園「城山公園」として整備されている。

斯波氏は、室町幕府将軍足利氏の一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。嫡流は、鎌倉時代は足利尾張家、室町時代は武衛家とよばれ、足利高経の四男斯波義将(よしゆき)以降、越前・尾張・遠江などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、12代斯波義寛(よしひろ、義良)以後は本拠地を越前から替えて尾張に下向、守護代の織田氏に擁されるが、戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した。

越前守護職は1379年ころの義将以後世襲化した。尾張守護職は1400年ころ,斯波義重が尾張守護に着任以後戦国期に至る150年間世襲し、越前時代からの被官甲斐・織田・二宮氏らが尾張に送りこまれた。遠江守護職は1419年に斯波義淳が任ぜられて以降世襲した。しかし斯波氏は遠江を本拠としなかったため,今川貞世(了俊)や仲秋系の遠江今川氏の勢力が根強く残っていた。

斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の庶長子家氏が陸奥国斯波郡(しわぐん、現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。

家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏の正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こしたためか、家氏も嫡子から庶子へと改められた。代わって得宗家の北条時氏の娘が泰氏の正室となって頼氏を儲け、足利氏宗家を継承する。

だが元は嫡子であった家氏は、足利一門中でも宗家に次ぐ格を有し、足利宗家とは別に鎌倉殿御家人となった。また弟の頼氏が早世したため、相続した家時の後見人となって惣領も代行した。

この子孫が代々尾張守に叙任されたため、足利尾張家と呼ばれる家となる。このように鎌倉時代の斯波氏は足利姓を称する足利別流の扱いであり、斯波氏として散見され始めるようになるのは室町時代の半ばになってからである。「斯波」の読み方についても「斯和」「志王」などの別表記から、元々は"しわ"だったものが後に"しば"に変化したと考えられる。

足利尾張家当主高経の嫡男家長が『太平記』に「志和三郎」あるいは資料に「志和尾張弥三郎」などの名で現れるあたりが斯波(志和)氏を名乗るはじめで、家長は所領斯波郡のある陸奥国で奥州総大将兼関東管領となり、南朝方の北畠顕家らと対抗し、17才の若さで鎌倉において戦死した。

奥州斯波氏は奥州・羽州に定着した斯波氏の庶流をいう。高経の弟の斯波家兼の系統である大崎氏、最上氏、黒川氏、高経長男家長の系統という高水寺斯波家などがあり、特に大崎・最上両氏は奥羽両国の探題職を歴任した。

斯波氏の名乗りの起源は陸奥斯波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。家氏のあとを継いだ宗家は、陸奥の斯波郡と下総の大崎荘とを相続した。南北朝時代の建武2年(1335年)斯波家長が南朝側鎮守府将軍北畠顕家を抑えるために奥州総大将に任じられるが、足利尊氏の子足利義詮の執事を務めていたため下向はしなかったとみられる。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断・沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。斯波家兼が管領に任ぜられ、子孫である大崎氏がやがて世襲する。

高水寺斯波家。

奥州斯波郡の高水寺城(現・岩手県紫波町)を拠点に栄えた斯波氏は、斯波家長の直系子孫と称する。家長には詮経という子があったと系図に記され、この詮経が高水寺斯波氏の祖になったとされている。詮経は一族からの養子と言う説もある。一方で、奥州斯波氏は高経の弟で奥州探題として下向した大崎家兼の子孫が祖になったという説もある。

斯波御所」「奥の斯波殿」と尊称され、大崎氏と同格であった。永享7年(1435年)に発生した和賀の大乱では大崎氏の職務代行者として南部氏など北奥の諸氏を指揮している。しかし、応仁の乱を契機として足利政権が衰微していくとともに斯波氏も相対的に勢力を失っていった。その結果、郡内諸臣の信望をも失い、ついには三戸南部氏の攻勢にさらされるようになる。

南部氏が天文9年(1540年)に岩手郡に侵攻して滴石(雫石町)の戸沢氏を攻略し角館へ退去させると、これに対し斯波詮高は天文14年、南部氏から太田(盛岡市内)、滴石地方を奪い取るなど積極的な拡大を見せている。詮高は嫡男経詮に家督を継がせ、次男詮貞を滴石から改称した雫石城に置き、三男詮義を猪去城(盛岡市猪去)に置いて、南部氏の反攻に備えた。

だが後に南部氏の圧力が増すと、斯波詮真は南部氏24代晴政の圧力に屈して、南部一族九戸政実の弟弥五郎を娘婿に迎え、高田村を知行地として与えた。弥五郎は高田吉兵衛を称して、高水寺城の一角に居住した。詮真の子詮直(詮元・詮基)の代になると確執して、弥五郎から改名した高田康実は天正14年(1586年)、南部氏26代信直の下へ出奔する。それに対し詮真は南部領へ攻め入るも南部軍の反撃にあい逆に侵攻されてしまい、高水寺斯波一族の雫石久詮と猪去義方は攻められて本家の斯波御所に逃れ、雫石御所ならび猪去御所が滅ぼされる。結果稗貫氏立ち会いの下で両家は和睦し、斯波氏は岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも現在の盛岡市内)を失ってしまう。

斯波詮直は家中の統率が取れず、天正16年(1588年)、南部に仕えた康実に岩清水義教らが内通し謀反を起こす。詮直は岩清水義教の兄岩清水義長に命じて、弟の居城である岩清水城(矢巾町)を攻めさせるが、この混乱に乗じて南部信直が自ら出陣してくる。詮直は領内に動員令を発するが、主家存亡の危機に際して、志和郡東部の大萱生氏・江柄氏・手代森氏・乙部氏・長岡氏・大巻氏らは参陣せず離反して南部軍に投降するか屋敷に籠り、高水寺城に駆けつけたのは岩清水義長、家老細川長門守、稲藤大炊助など少数だった。詮直は高水寺城を放棄して大崎氏のもとへ逃亡し、義長は高水寺城で戦死する。詮直はその後諸国を放浪し、戦国大名としての高水寺斯波氏は滅亡した。

『岩手県史』では、諸記録・諸系図から、「詮元(詮直・詮基)」の時に滅亡し、その子に詮森、孫に詮国があったとみなしている。

かつて本家の高水寺御所と合わせて三御所と称された一族の雫石御所雫石氏、猪去御所猪去氏はともに盛岡藩士として続いた。

 

高水寺城跡を見学後、道の駅「紫波」へ向かった。10日(土)の「チャグチャグ馬っこ」に合わせ、翌朝は盛岡市・滝沢市の見学を予定し、福田パン本店から始まった。

岩手県矢巾町 矢巾町歴史民俗資料館②木製冑 南部曲り家