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岩手県滝沢市 チャグチャグ馬コ 鬼越蒼前神社①ビッグルーフ滝沢から神社へ

2023年11月20日 14時24分04秒 | 岩手県

鬼越蒼前(おにこしそうぜん)神社。岩手県滝沢市鵜飼外久保。

鬼越蒼前神社は、チャグチャグ馬コ(うまっこ)の参拝神社で、行列始めの聖地として知られる。慶長2年(1597)沢内村の馬が野良しごとの途中で暴れ出し、滝沢まで駆けてきて死んでしまった。村人たちはこれを手厚く葬って祠を建てた。これが鬼越蒼前神社の始まりといわれ、以来5月5日の端午の節句には仕事を休んで馬に飾りをつけ、この神社に参拝するようになった。かつては鬼越坂の中腹に「駒形神社」として祀られていたが、明治24年(1891年)に現在地に移転した。

「チャグチャグ馬コ」は、毎年6月第2土曜日に行われる「蒼前様」を信仰とするお祭で、100頭ほどの馬が、滝沢市の蒼前神社から盛岡市の八幡宮まで14キロの道のりを行進する祭である。馬のあでやかな飾り付けとたくさんの鈴が特徴で、歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音が名称の由来といわれている。

もともと旧暦の5月5日に行われていたが、農繁期と重なるため昭和33年から新暦の6月15日とされた。平成13年から、6月の第2土曜日に開催されている。

昭和53年に文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択され、平成8年には、馬の鈴の音が環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に選定されている。

伝統衣装に身を包んだ馬と子供たちが行進する岩手の初夏の伝統行事「チャグチャグ馬コ」が10日、行われた。4年ぶりに行動制限なしの通常開催となった。たくさんの鈴が付いた華やかな装束の馬約60頭が、それぞれの背に地元の子供たちを乗せて隊列を組み、岩手県滝沢市の鬼越蒼前神社を午前9時半ごろスタート。盛岡市の郊外から中心部に入り、盛岡八幡宮でゴールする約14キロを約4時間かけて行進した。(毎日新聞)

2023年6月10日(土)。

八幡平市の道の駅「にしね」で起床。本日は「チャグチャグ馬コ」の見学から始まる。1970年代から知っていて、ニュースでも度々見ていたので、今回の旅行の行程を調整していた。ニュース映像では、水田の中を岩手山を背景に行進する風景が印象的だが、それは出発地点である滝沢市の鬼越蒼前神社付近であると知り、鬼越蒼前神社を目指すことにした。

ただし、鬼越蒼前神社周辺に見学者用駐車場はなく、南西に1㎞あまり離れた滝沢市役所と市役所前のビッグルーフ滝沢が指定駐車場となり、無料シャトルバスで神社へ向かうことになる。ビッグルーフ滝沢のバス停からは神社に7時20分に到着する盛岡駅からの第1便から始まり、第2便は7時40分到着、次は8時着、以降10分おきに運行される。ビッグルーフから神社までは約5分だが、バス停からの出発時刻は7時10分からだったかもしれない。

6時40分ごろビッグルーフ滝沢の駐車場に着くと、半分ほど埋まっていた。ビッグルーフ滝沢でリーフレットを見ていると、9時45分から10時30分まで退出不可と書いてあったので、帰るときに規制のない道路反対側の滝沢市役所の駐車場に移動して駐車した。

6時50分ごろ、ビッグルーフ滝沢の市役所側正面広場へ歩いていくと、参加する馬が準備していたので見学した。

装束着付けの様子。

馬を飾り付けるのは愛馬精神のあらわれともいえる。蒼前詣が浸透して近郊からたくさんの馬が集まるようになり、中には馬具などに趣向を凝らす飼い主も出てきた。やがて寛政の頃には南部家から譲り受けた「小荷駄装束」(小荷駄とは参勤交代で江戸へ上がる大名が行列の後尾に従えていった輸送馬隊のこと。装束は軍用駄馬具だった)を着けて参加する馬も現れ、大流行した。これが現在のチャグチャグ馬コ装束の原型といわれている。

現在使われている装束は、小荷駄装束の流れを汲み、馬の汗に強い良質の麻を素材とした手編みで、紫紺染めや草木染めといった南部盛岡地域ならではの染料を用い、昔ながらの手作りで丹精込めて仕上げられる。

「チャグチャグ」の語源は装束につけられた鈴の音の擬音である。首には鳴り輪という熊よけのドーナツ型の大鈴が下げられるが、これはオオカミよけの名残であり、広い場所であれば4㎞四方に鳴り響くといわれる。

装束の取り付け順序には一定のしきたりがあり、着付けは数人がかりで行う。最初に鞍をつけてふたのぶとん(飾りぶとん)を掛け、結い上げて腹部を包み込み、真鍮製の鳴り輪を取り付ける。続いて、むながい、しりがいといった鞍を固定する装束を着せ、首よろい、まびさし、鼻かくし、耳袋、はづな(手綱)、おもがいと進み、最後に吹流しと呼ばれる垂れ幕を下げる。装束には大小約700個の鈴のほか、戦列駄馬具の名残を留めたまんじゅうと呼ばれる飾りが数多く着けられている。これらの装束の総重量は約60kgもあるため、行進当日は早朝から家族総出で取り付けを行う。

引き手・乗り手の人間の衣装にもシンプルながら一定のルールがある。

男性の場合は、腹掛け(前掛け・胸当て)、乗馬ズボン、腕さし、地下足袋、はんてんを黒で揃え、豆絞りの手ぬぐいを鉢巻にする。手ぬぐいをほっかむりにしたり、首にかけることは認められていない。

女性は盛岡市の隣町の雫石町に古くから伝わる「あねっこ衣装」に身を包む。まず、かすりの着物を黄色の帯で結び、帯の黄色が見えるように前掛けを着け、黒のももひきに白い足袋と草履を履く。手には手甲、頭には豆絞りの手ぬぐいと赤いぼんぼりの付いた編み笠をかぶる。

この細かい取り決めには、「乗り手・引き手の衣装も含めての文化財である」という、参加者の強い思いが込められている。

ビッグルーフ滝沢のバス停からほぼ満員の第2便のバスに乗って7時30分過ぎに神社前に着いた。神社前の駐車場には馬を運んできた多数のトラックが駐車していた。

神社の境内に入ると、「滝沢駒踊り」が踊られていて驚いた。ビッグルーフでもらった観光物産協会のリーフレットを見ると、7時30分神輿出発、滝沢駒踊りと書いてあり、神社やビッグルーフ滝沢で午後までイベントが開催されていることを知った。

8時30分が馬コの神社への集合時刻だが、8時20分過ぎから馬が集まりだした。

岩手県滝沢市 滝沢市埋蔵文化財センター②古墳時代 大釜館遺跡出土の宇田型甕


岩手県滝沢市 滝沢市埋蔵文化財センター②古墳時代 大釜館遺跡出土の宇田型甕

2023年11月19日 14時04分40秒 | 岩手県

縄文ふれあい館(滝沢市埋蔵文化財センター)。滝沢市湯舟沢。

2023年6月9日(金)。

「岩手県における続縄文文化の土器と墓制」井上雅孝(滝沢市埋蔵文化財センター)

弥生時代の湯舟沢式土器。

赤彩球胴甕。奈良時代。

古墳時代。大釜館遺跡出土の宇田型甕。

大釜館(おおがまだて)遺跡は、雫石川河岸段丘に立地し、大釜字外館他に所在する。中世の大釜館は、大釜氏累代の城館であった。大釜氏は大釜邑主で、和賀多田氏の庶流と伝えている。16世紀半ば高水寺斯波氏全盛のころ、斯波氏に仕えて大釜郷その他を領地としていた。南部氏が高水寺斯波氏を滅ぼしたのちは南部氏の臣となった。

平安時代、この地に安倍貞任の前線基地があったという。前九年の役(1051~1062年)のとき源義家は、安倍貞任を追撃して厨川柵に迫ったが、対岸は水嵩が多いので、雫石川を渡って迂回し、この地に陣営を構えて兵站部を設け、陣釜を据えて兵馬の糧食を供給したという。その陣釜が大釜という地名の由来となったと伝わる。

11世紀後半の大型掘立柱建物跡および土器が出土しており、安倍氏の権勢と前九年合戦と言う歴史的背景をもつ資料に位置づけられている。

 

筑波大学先史学・考古学研究 第 24号 33-49 2013

研究ノート「岩手県岩手郡滝沢村大釜館遺跡出土の宇田型甕について」 井上雅孝・早野浩二

大釜館遺跡は,岩手県岩手郡滝沢村大釜字外館地内に位置し雫石川北岸の河岸段丘上に立地する。標高は138.7~ 139.6mを測る。縄文時代の集落,9世紀の円形周溝跡・土壌墓跡、11世紀の居館,12世紀の集落, 15 ~ 16世紀の城館「大釜館」、中世の土壙墓、江戸時代の屋敷と墓などが検出された。

「宇田型甕」は,岐阜県岐阜市宇田遺跡から出土した台付甕に由来し、S字状口縁甕形土器の系譜を引く。大釜館遺跡出土の個体を観察した結果,宇田型甕は伊勢湾沿岸地域からの搬入品で、型式としては宇田型甕1類に対応し編年上では松河戸Ⅱ式中1期から中 2期に比定されると理解した。

伊勢湾沿岸地域周辺における宇田型斐の出土事例を引くと,静岡県浜松市梶子遺跡において鋳造欽斧が共伴する事例,和歌山県和歌山市西庄遺跡において鉄挺が同一地区で共伴する事例に加えて,「物部氏」の拠点とされる奈良県天理市布留遺跡,「葛城氏」の拠点とされる同御所市南郷遺跡群、太田茶臼山古墳などに埴輪を供給した高槻市新池埴輪製作遺跡における出土等におけるまとまった出土が特徴的である。つまり,宇田型甕が搬入される遺跡は,鉄器製作を含めた各種手工業生産,大型前方後円墳の造営を中心とする国家的事業,あるいは王権や有力氏族との関連が推測される場合が多い。

また、関東地方における宇田型甕の出土は公的施設,または有力な古代集落の形成の端緒となった可能性がある。

続縄文土器文化圏における宇田型甕出土の背景と意義。

弥生時代後期後半または古墳時代早期前半,庄内式以前の段階の東北地方においては,日本海側を中心として,天王山式系土器と北陸系土器が相互に接触し この動態に後北 Cl式最終末から後北 C2D式の最古段階の続縄文土器も関与した形跡がある。ほほ同時期の東海地域においても,隣接地域間相互の緊密な関係性を背景として、「廻間式土器Jが成立する。

古墳時代早期後半,東日本各地には東海系,北陸系土器が拡散し、畿内においては庄内式が成立する。続く古墳時代前期前半,庄内式新段階から布留式古段階においては.後北 C2D式中段階の続縄文土器が東北地方の広域に分布し十王台式土器も東北北部にまで影響を及ぼすようになる。この段階において,畿内には布留式が成立し東海系土器は東西に広く拡散する。

古墳時代中期前半,南小泉式の段階における東北地方には北大 I式の統縄文土器が分布し、ごくわずかながら伊勢湾沿岸地域から宇田型甕が搬入される。前代の東海系土器,北陸系土器などとは異なり,宇田型甕は各地において模倣の対象とはならなかったことからすると,出土した宇田型甕は,直接的な人的移動,交渉を示す物的証拠である可能性が高い。

寒川Ⅱ遺跡の土壙墓から出土した鉄製品が象徴的に示すように,弥生時代後期から古墳時代前期の東北地方における続縄文土器の分布,あるいはそれに呼応するかのような天王山式系土器,十王台式土器の動態には鉄器を始めとする物資流通が重ね合わせられることが多い。一方、古墳時代中期の各地における宇田型甕の出土状況を踏まえると,大釜館遺跡出土の宇田型甕についても,主として鉄器が関係する技術拡散,物資流通が付随していたことが推測される。

古墳時代中期は大型古墳の築造に刺激されつつ,列島規模で産業構造の変革が進行する。古墳時代中期後半には 北上川中流域においても,方形区画を伴う本格的な古墳時代集落である岩手県奥州市中半入遺跡,豊富な形象埴輪群を含む列島最北端の前方後円墳である角塚古墳が顕現する。これらより以前・以北の古墳時代中期前半,北上川上流域にもたらされた大釜館遺跡の宇田型甕は,古墳時代中期における構造変革の初動に位置し、北方交流史により広域的、動的な視点が必要であることを示唆している。

江戸時代。地鎮跡出土の輪宝・羯磨墨書石。大釜館遺跡。

石鍬。弥生文化期の大形(長さ30cm前後)の鍬形をした石器。中部地方以東、東北地方南部までの、前期後半から中期の弥生文化の台地上集落からは打製の大形の石鍬が発見される。また、これら弥生期の遺物とは関連性はないが、関東、中部地方の丘陵地の縄文中期の遺跡から多量に出土する長さ15cm未満の長方形の打製石器も、用途が土掘り具であることから石鍬とよぶ人もいる。

 

受付で、翌日開催される「チャグチャグ馬っこ」の詳細を教えてもらった。

このあと、八幡平市の道の駅「にしね」に向かった。

岩手県滝沢市 県史跡・湯舟沢環状列石 縄文ふれあい館(滝沢市埋蔵文化財センター)


岩手県滝沢市 県史跡・湯舟沢環状列石 縄文ふれあい館(滝沢市埋蔵文化財センター)

2023年11月18日 11時08分16秒 | 岩手県

県史跡・湯舟沢環状列石。縄文ふれあい館(滝沢市埋蔵文化財センター)。滝沢市湯舟沢。

湯舟沢環状列石は西方に聳える谷地(やち)山を正面に望む場所に造られており、春分の日と秋分の日に環状列石の中央に立つと、西方の谷地山山頂に沈む夕日を望むことができ、沈む夕日に自らの命を重ね合わせた自然崇拝がうかがわれる。

2023年6月9日(金)。

湯舟沢環状列石(ストーンサークル)は、滝沢市役所の北々東5kmにあり、縄文時代後期前葉(約4000年前)の時期に作られた。

湯舟沢環状列石は、1990年5月、大規模団地予定地として発掘調査を行っていた湯舟沢Ⅱ遺跡から発見された。

史跡公園「湯舟沢環状列石」では、実物を地下に発掘当時のまま保存したうえで、地表に823個の石を使用して原寸大に復元し、1998年8月から常時無料で公開している。また、周囲に縄文時代の植生を復元して当時の景観を再現している。隣接する縄文ふれあい館(滝沢市埋蔵文化財センター)展示室と一体となった見学ができる。

湯舟沢環状列石は、南北径20m、東西径15mの範囲に、さまざまな形の組石がならんでいる。また、石の下からは人為的に掘られた穴が多数発見され、理化学的な分析結果から縄文時代の大規模な共同墓地と祭祀場であることが判明している。

東北地方から北海道南部にかけて発達する大型環状列石の変遷と縄文時代の社会構造を知るうえで、極めて貴重な遺跡である。

湯舟沢環状列石の周辺からは集落が発見されていないため、縄文時代の人々の土地利用について墓域と住まいとを分離する考えかたがあったこと、墓の目印として地上に設置された様々な「組石」の形や石の目印を持たない墓など多種多様な墓が造られていることなどが指摘されている。また、環状列石を造るときに石を搬入した道が発見された。

写真3の配石実物を展示している。

人体文付深鉢。縄文時代後期初頭。けや木の平団地遺跡。

寸法は、深鉢の器高45.0cm(復元値)、口径26.3cm(復元値)、最大径27.3cm(復元値)、底径17.9cm(復元値)。人体部の高さは17.9cm、幅は6.9cmとなっている。現状は、推定復元によるものである。

一見、土偶を想定させる人物の文様である人体文が付けられた縄文土器の深鉢である。人体や人面を表現した縄文土器は全国でもいくつか知られ、北海道・東北地方で特に発達したが、この資料のように人体の写実的なモチーフが明瞭に残っているものは極めて少なく、縄文時代の狩猟儀礼や祭祀を解明する第一級の資料となっている。

足型付土版。縄文時代後期初頭。湯船沢Ⅷ遺跡。

寸法は、最大長55.75mm(現存値)、最大幅55.10mm、最大厚12.10mm、重量38.4g。現状は、踵が欠損している。

歩行直前の幼児の左足の形がついた粘土の焼き物。岩手県内では現在でも、初の出土例(昭和57年)となっている。平沢彌一郎医学博士(鑑定当時、東京工業大学教授)によれば、身長80cm、体重10kg、生後10ヶ月から12ヶ月の男児と鑑定されている。

縄文時代のこのような資料は、主に北海道・東北地方で発見されているが、現在でも10遺跡に満たず、出土そのものが極めて少ない資料である。この遺物の用途は、子どもの健康や成長を願った護符などと想定されており、現在のところ、その実態は不明だが、縄文時代における祭祀や通過儀礼などの精神文化を解明する貴重な資料となっている。

 

土偶。動物型土製品。

石棒。石刀。

盛岡市 岩手県立博物館②重文・縄文土器 遮光器土偶 鯰尾兜


盛岡市 岩手県立博物館②重文・縄文土器 遮光器土偶 鯰尾兜

2023年11月17日 12時54分30秒 | 岩手県

岩手県立博物館。盛岡市上田松屋敷。

2023年6月9日(金)。

縄文時代晩期になると、文様はさらに流麗になります。東北地方に広く分布するこの時期の土器を亀ヶ岡式土器とも呼んでいますが、最近では土器のうつりかわりが明らかになった大船渡市の大洞貝塚にちなみ大洞式と呼ぶことが多くなってきました。

黒光りする土器、複雑な文様を浮き彫りや透かし彫りにした土器など高い技術でつくられるものが増えます。また、皿や高坏など盛りつけ用の土器も発達します。

縄文土器(浅鉢)。縄文時代晩期。雫石町高見遺跡。径22.0cm×高11.5cm。

雫石町高見遺跡で見つかった縄文時代晩期前葉の浅鉢形土器です。この種の形をした土器には珍しく、大きな欠損はなくほぼ完形の状態です。外面の上半と内面にかけてのくぼんだ部分には、鮮やかな赤彩の痕跡が残っていることから、もともとは全体が赤く塗られていたものと思われます。

重文・縄文土器。一戸町蒔前遺跡。

八戸市是川遺跡とともに馬淵川流域の亀ケ岡文化を代表する遺跡一戸町蒔前遺跡から出土した一括資料が重文に指定されている。

昭和5年、整地工事に際して多量の遺物が発見されたが、本件の大半はこの時の採集遺物である。土器158点、土製品20点、石器54点、石製品20点、大殊 1点の合計253点。

土器は、深鉢形土器、鉢形土器、台付鉢形土器、注口土器、壺形土器、皿形土器、香炉形土器、小形土器。

土製品は、土面、土偶、亀形土製品の3種類。石器は磨製石斧、打製石斧、掻器、磨石、凹石、敲石、石皿、石槍未製品。石製品は、石剣、石冠、円盤状石製品、岩版の4種類。

多彩な遺物は、縄文時代晩期の生活を如実に示す。なかでも鼻曲がり土面・亀形土製品など儀礼・習俗関係の遺物は注目に値する。「鼻曲がり土面」は、眉・両目・口を左上がりに表現し、鼻を強く左に曲げた特異な顔面表現で、見る角度によって様々な雰囲気を醸し出し、縄文時代に仮面を被る儀式が広く存在したことを示しており、亀ケ岡文化と精神生活を解明する上で重要な資料である。

重文・遮光器土偶。盛岡市手代森字大沢・手代森(てしろもり)遺跡。

この土偶は、旧都南村(現在の盛岡市)の手代森遺跡から発見された遮光器土偶です。いま見ると、黒っぽく見えるのですが、当時は朱(しゅ)が塗られていたようです。また、今はきちんと元の姿をしているこの土偶も発見された当時は、ほかの土偶と同じようにバラバラになっていました。それを、きれいに復元したものです。

手代森遺跡は北上川との合流点に近い大沢川のそばに位置し、北上川東岸の平野と北上山地に続く丘陵の間の段丘上にあります。合流地点までは、約400mの距離にあります。標高は115m前後です。

沢川の河川改修に伴い、昭和58年度に試掘調査、翌59年度に2,600㎡の本調査が行われました。その結果、縄文時代前期(約6,500~5,000年前)と晩期(約3,000~2,300年前)の遺跡だということがわかりました。

見つかった遺構は竪穴住居跡8、住居状遺構1、長方形柱穴列1、土坑33、焼土遺構・石囲炉(5、埋設土器2です。

ほとんどが縄文時代晩期前葉から中葉の遺構で、住居などがなくなったあとに土器などの捨て場になっていました。晩期前葉の遺構はやや東よりに、中葉の遺構はやや西よりから見つかっています。

また、都南村教育委員会(盛岡市との合併前)により、遺跡の北西の地点が調査され、ここからは晩期後葉から末葉の遺構と捨て場が見つかっています。

これらのことから、本遺跡では少しずつ場所を移動しながら晩期の全般にわたって、集落が営まれていたことがわかりました。本遺跡は遺物の量が多いことや立地などから、晩期の拠点的な集落ではないかと見られています。

遮光器土偶。岩手郡岩手町豊岡遺跡。縄文時代晩期。高さ22.7㎝。

縄文時代晩期前半(約2,800年前)の遮光器土偶です。大きな目が特徴で、シベリア方面の民族が用いたサングラスに似ていることから、遮光器土偶と名付けられました。遮光器大土偶は東北地方を中心に作られ、岩手県でも多数の遮光器土偶が見つかっていますが、完全な形のものはまれです。この土偶は高さ22.7㎝の中~大形品で、中は空洞に作られています。表面はよく磨かれ、光沢があります。美しく作られた大きな土偶は、集落全体に帰属するものと考える説があります。

遮光器土偶。岩手町豊岡遺跡。高さ17㎝。

縄文時代晩期前半(約2,800年前)の遮光器土偶。高さ17㎝の小形遮光器土偶です。大形遮光器土偶と異なる点は、中が空洞に作られていないことです。また、小形遮光器土偶は表面が摩耗しているものが多く、個人用のお守りとして日常的に用いられていたという説があります。

岩偶形土偶。岩手町豊岡遺跡。縄文時代晩期。高さ5.3㎝。

凝灰岩などの軟らかい石を加工して人がたに仕上げたものを岩偶と呼んでいます。同時期に作られた土偶とは形や文様が異なっているほか、土偶は広域に分布するのに対し、岩偶は馬淵川(まべちがわ)流域や米代川流域周辺に分布が限られています。そこから少し離れた北上川上流域に位置する豊岡遺跡から出土した岩偶形土偶は、岩偶の形・文様を粘土で表現しています。

土偶。盛岡市沢田遺跡。高さ14.8㎝。

盛岡市東中野字沢田から見つかった縄文時代晩期終わり頃(約2,400年前)の土偶です。縄文時代晩期前半の遮光器土偶の特徴である大きな目が退化し、横一文字に固く閉ざされた形に変化しています。中は空洞に作られていて、明るい色調です。デフォルメされていますが、乳房や正中線(妊娠線)があり、女性を表現していることが分かります。

土面(どめん)。出土地不詳。縄文時代晩期。長さ5.3×幅6.0㎝。

土面とは、縄文時代後・晩期にみられる土製の仮面のことです。東北地方に多く分布し、現在までにおよそ120点が確認されています。その大きさは、成人の顔をほぼ覆い隠すことができる15cmから20cmの大型品と、5cmから15cmの小型品があります。この土面は長さ5.3cmの小型品です。使用方法についてはまだよくわかっていませんが、縄文時代の精神文化の豊かさ示す貴重な資料です。

角塚古墳復元模型

円筒埴輪 複製 角塚古墳

角塚古墳は、日本最北端の前方後円墳で、奥州市胆沢区に所在する。内部構造(埋葬施設)は明らかとなっていないが、出土埴輪等により5世紀末から6世紀初の築造と推定される。

岩手県域にあっては本古墳1基(1代のみ)を除くと他はすべて末期古墳で、本古墳以南にあっては宮城県北部の大崎地方(約70㎞南)まで前方後円墳等の存在が認められないため、その特異性が注目されている。

角塚古墳の北西2㎞には、角塚古墳と同時期の大集落跡の中半入遺跡が発見されているが、その出土物からは宮城県域や久慈地域など広域の交流が見られ、角塚古墳との関連が指摘される。

蝦夷の末期古墳。石室復元模型。北上市長沼古墳群。

衝角付冑。 複製 。盛岡市上田蝦夷森古墳(7世紀)。

蕨手刀 複製 北上市長沼古墳。蕨手刀 実物 花巻市熊堂古墳群4号墳。

蕨手刀。花巻市上根子字熊堂 熊堂古墳群 奈良時代 長さ40.1×幅8.6㎝。

この蕨手刀は、昭和62年の県立博物館による花巻市熊堂古墳の発掘調査で出土したものです。蕨手刀が副葬されていた古墳は4号墳と名付けられており、直径約9m、高さ約0.5mの大きさで、川原石積みによって埋葬施設である石室が作られていました。蕨手刀は石室の北壁に接する位置に副葬されていました。他に石室内には小型の直刀、切子玉、ガラス玉が副葬されていました。

蕨手刀・直刀 北上市江釣子古墳群。

鯰尾兜(なまずおのかぶと)。安土桃山時代。

牛革黒漆塗、燕尾形。総高65.6cm。

盛岡藩主南部家伝来の兜(かぶと)です。会津を領した戦国武将蒲生氏郷(がもううじさと)(1556-1596)の養妹於武(おたけ)(源秀院・重直生母)が南部利直(としなお)(1576-1632)に嫁ぐ際、氏郷着用の兜を引出物として持参したと伝えられます。

尾の部分を革、鉢の部分を鉄板で構成し、総黒漆塗仕上げとした均整のとれた造形は、戦国の変わり兜のなかでも秀逸です。その形から燕尾形(えんびなり)兜とも呼ばれています。

馬面。複製 。時代不詳。 

 

見学後、滝沢市の湯舟沢環状列石・滝沢市埋蔵文化財センター(縄文ふれあい館)へ向かった。

盛岡市 岩手県立博物館①重文・大型土偶頭部 萪内(しだない)遺跡出土

 


盛岡市 岩手県立博物館①重文・大型土偶頭部 萪内(しだない)遺跡出土

2023年11月16日 17時09分47秒 | 岩手県

岩手県立博物館。盛岡市上田松屋敷。

2023年6月9日(金)。

宮沢賢治の母校・旧盛岡高等農林本館(岩手大学農学部附属農業教育資料館)の見学を終えて北上し、岩手県立博物館に着いた。

気仙隕石(けせんいんせき)。

採集地。岩手県陸前高田市気仙町長部字丑沢 長圓寺境内。

1850年6月13日(嘉永三年五月四日)落下。標本は実物の一部で、幅は約13cm 、1080g。

解説。隕石はおよそ46億年前に誕生した太陽系の様子を物語っています。気仙隕石は石質隕石としては日本最大(135kg)であり、多くの人々に落下のようすが目撃されています。明治27(1894)年に帝国博物館(現国立科学博物館)に寄贈され、地元ではぎ取られたものや海外に流出したものもあって、現在は106kgとなっています。

南部北上山地。

特に古い時代の地層や岩石は、主に北上山地の南側(南部北上山地)に分布します。最も古いものは約5億年前(古生代のカンブリア紀)の岩石で、大船渡市や奥州市などで見られます。また、大船渡市で見つかった4億年以上前(古生代のシルル紀)のサンゴ化石などを含む石灰岩は、かつて日本で最古の岩石とされていました。こうした化石などから、大昔の南部北上山地は赤道近くに位置する、温かく浅い海の中であったと考えられています。

北部北上山地。

一方で北部北上山地は、もともとは深い海の底であったとされています。しかし、大規模な造山運動が生じ、中生代の白亜紀(約1億4500万年~6600万年前)の初めまでに現在の北上山地の原形ができました。また、白亜紀の中頃~新生代の古第三紀(約6600万年~2300万年前)の北部陸中海岸の地層からは、アンモナイトやサンゴなどの化石が見つかるほか、岩泉町では日本で最初の恐竜化石「モシリュウ」も見つかっています。

細石刃。旧石器時代後期。盛岡市玉山区 大橋遺跡出土  。  

細石刃(さいせきじん)は、まるでカミソリの刃のようなとても小さい石器で、後期旧石器時代終末に作られたものです。これを製作・使用していた文化を「細石刃文化」と呼んでいます。

細石刃の特徴は、規格のそろったものが量産される、という点にあります。そのため製作方法もきわめて規則的で、旧石器人の高度な石器製作技術がうかがえる石器です。

石の割れ方には法則性があります。細石刃のような繊細で規格のそろった石器を量産するためには、その基となる石核(細石刃核)を一定の形に整える必要があります。

細石刃核を作る過程で出るくずも、一定の形をしています。打面形成・再生剥片はその最たるもので、細石刃を剥がすための打面(平坦面)を形作る時に生じるものです。一見、小さなくずですが、ここから細石刃製作技法に迫ることができます。

狩猟文鉢。縄文時代後期。馬立II遺跡(二戸市)出土。

馬立Ⅱ遺跡は安比川支流の段丘上に立地する縄文中期から晩期の集落跡で、竪穴住居跡19棟、土坑24基などが見つかっている。

遺物の中でもっとも注目されるのはフラスコ状土坑の底から発見された狩猟文土器である。朱塗りされた口縁部から体部までの破片には、動物、弓矢、陥し穴、木と推定されるレリーフ状の文様が施されている。

縄文土器(切断蓋付壷)。縄文時代時期。二戸郡浄法寺町 合名沢遺跡出土。

高さ13.5×幅11.0㎝。

二戸市浄法寺町合名沢(あいなざわ)遺跡から出土した縄文時代後期初頭の壺形土器です。高さは13.5㎝で、手のひらに乗る程度の大きさです。煮炊きの痕跡が無く、全体的に赤い顔料が残っていますので、日常に使ったとは考えにくい土器です。

上から3分の1位のところに切れ目があり、上の「蓋」と下の「身」に分かれています。いったん壺の形に成形し、生乾きの時に切り離されたようです。蓋と身の向かい合った二箇所に小さな孔(あな)があります。身に何か納め、蓋をし、紐(ひも)で結わえて大切に保管することができます。

単孔土器。縄文時代後期後半。岩手郡岩手町小山沢付近出土。高さ(17.0)×底径4.4㎝。

縄文時代後期後半の壺形土器です。岩手郡岩手町小山沢(こやまざわ)付近で出土しました。下の方に孔(あな)が一つ開けられているのが特徴で、「単孔土器」と呼ばれています。孔の部分に栓をすると液体を溜めておくことができます。孔が底ぎりぎりではなく少し上にあることから、液体に含まれる雑物を沈殿させ、上澄みだけを注ぎだすことが可能です。

大型土偶・頭部(重要文化財)。縄文時代後期。盛岡市萪内(しだない)遺跡出土。

高さ23cm。文化庁蔵。

土製素焼。顔面は眉弓上部に隆起帯をつくり、頬の外側から顎上部にかけて太い沈線をめぐらし、しかも全体を一段高くつくり、他と区分している逆三角形状の仮面を着装した状態を示しているものと思われ、また縦横の綾杉状沈線文は組み合わせ仮面(土製の耳・鼻・口を皮や布に閉じて使用する)の装飾と解される。

大型土偶は、全身像であったと見られ、少し離れた地点から脚の一部分もみつかっています。身長は120cm位と推定され、一般の土偶は大きなものでも30cm位ですので、もし全身があったなら全国でも類を見ない大きさとなります。墓壙群の周辺から、大型土偶の頭顔部が見つかりました。復元されたものは、頭のいちばん上から顎までの長さが23cm、左右の耳から耳までの幅が22.3cmもあり、実際の人間とほぼ同じ大きさに作られていることが分かりました。

頭部には縄文を施して頭髪を表し、耳は細部にわたるまで人体の特徴を写実的に表現しています。頭のてっぺんの部分には、径0.5cm、深さ1.5cmの穴が5つ、十字に並んでいます。これは羽毛などを刺し、装飾にするために開けられたと考えられます。同じような穴は耳から顎にかけてのラインにも等間隔に並んでおり、飾りを付け、ひげを表していたようです。

大型土偶に刻まれていたイレズミと同じ文様(もんよう)を顔に入れ、歯を抜いたり、削ったりして手を加えています。そして、縄文人の特徴といえる張り出した眉間(みけん)、あご、大きな鼻をしています。

作られた時期は縄文時代後期と推定されていますが、このような大型土偶は縄文時代全体を通しても最大級のものです。縄文時代の風俗や信仰を知るうえで極めて貴重な資料であることから、昭和59年、国の重要文化財の指定を受けました。

萪内(しだない)遺跡は、繋(つなぎ)温泉の西1kmに位置する縄文後期を中心とした遺跡。雫石川によって形成された雫石盆地の南東縁で、同川右岸に発達した沖積世段丘上にあり、標高は165m前後。

昭和51年(1976)および同53―55年に御所ダム建設に伴って行われた調査によって、竪穴住居跡55棟・土壙927基・漁労遺構1基、階段状杭列・土止杭列・洗い場各1、足跡98、旧河道1条などを検出。住居跡は縄文後期28棟・晩期16棟・時期不明8棟・平安時代3棟。縄文時代の竪穴住居跡の平面形は円形、規模は径4m前後で、周溝はない。

住居跡の中央付近に石囲炉・石組炉・埋設土器炉が設けられており、柱穴は壁際に沿って配置されるものと、竪穴の外周に配されるものがある。床面は自然堤防上のものに貼床されているものもあり、段丘上のものに張出部をもつ柄鏡状と、不整方形で周辺部に列石をもつものもあった。

住居跡や墓壙・貯蔵穴は比較的標高の高いところから、一方、木造遺構と足跡は雫石川側の低い湿地部分(旧河道)から見つかった。
木造遺構にはえりや階段状の杭列、水汲み場・洗い場と考えられる施設があった。えりとは、川などに設置される、漁のための「わな」で、魚の習性を利用したつくりになっている。これらの遺構から、萪内の縄文人は川をたくみに利用し、その恩恵を受けながら生活していたことが想像される。

発見された遺物。深鉢・浅鉢・注口などの土器。大型土偶を含む250余点の土製品、勾玉、耳飾り類、土器片製の円盤、土錘、スタンプ状、動物形、鐸形(たくがた)、中空球形(小球内蔵)、腕輪形などの土製品。

石鏃、石錐、石匙、石斧などの石器。石棒、石剣、岩板、岩偶類などの石製品。皿、浅鉢、漆器などの木器。

櫂(かい)状、砧(きぬた)状、トーテムポール状、杭などの木製品。櫛、籃胎漆器、弓類などの漆製品。

「トーテムポール状木製品」はクリ材に顔面の彫刻がほどこされたものである。

魔よけ、あるいはお墓のしるしに使われたものではないかと考えられている。

盛岡市 宮沢賢治の母校 旧盛岡高等農林本館(岩手大

学農学部附属農業教育資料館)