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盛岡市 日本百名城・国史跡・盛岡城跡

2023年11月13日 13時47分36秒 | 岩手県

日本百名城・国史跡・盛岡城跡。本丸跡。盛岡市内丸 岩手公園。

2023年6月9日(金)。

福田パン本店から盛岡城跡公園地下駐車場へ急いで向かった。盛岡城跡公園地下駐車場は22時から翌8時まで80円(1時間ごと)なので、盛岡城跡を8時まで見学することにした。結果的には、7時17分入庫、7時54分出庫で駐車料金は80円で済んだ。

1980年代後半に盛岡市へ旅行したときは、市内観光の定期バスを利用して、盛岡城跡と原敬記念館などを見学した。そのときは石川啄木関連がメインの目的であった。今回、石川啄木記念館は休館中であった。

盛岡城南部(盛岡)藩南部氏の居城である。白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。かつての北上川(北上古川)が湾曲しながら市内菜園付近を流れ、下の橋下流直下で中津川と合流していた地点の浸食段丘上の花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。

盛岡城ジオラマ。岩手県立博物館。

盛岡城の縄張は、本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、当時は廊下橋(屋根付橋の一種)が架けられていた。さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。

本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。後、1842年(天保13年)に12代利済により天守へと改称されている。

盛岡城は、城は2つの川にはさまれ、さらに御城内の堀、重臣が居住する外曲輪、その外に惣構えとして諸士や町人街の遠曲輪(とおぐるわ)という三重の塁濠によって守られていた。その規模は東西1,100m、南北1,300mに及び、中核となる御城内の標高は143m、比高20mほどであった。

縄張りとしては、連郭式の縄張りを基軸に、回郭式(輪郭式)の縄張りを合わせた構成になっている。北側は地続きであるが、他の三方は河川に面し、北側に外曲輪、さらに外側地域と中津川対岸に遠曲輪を配し、城域全体としては梯郭式の縄張となっている。

御城内は本丸、二の丸、三の丸などから構成され、それぞれ盛岡産花崗岩を用いた石垣によって区画されている。本丸は南端に位置し、東西70m、南北55mほどで、三層の天守が建っていた。二の丸は本丸の北側に位置し東西90m、南北55m、三の丸はさらに北で東西80m、南北45mほどである。

盛岡城は、慶長3年(1598)南部信直によって築城が着手され、完成は利直・重直を経た寛永10年(1633)とされる。

南部氏は甲斐国南部郷を領した光行にはじまり、承久元年(1219)に源頼朝に糠部(ぬかのぶ)5郡(青森県南部から岩手県北部)を与えられ入部した。三戸城を本拠として各地に一族を配して統治し、室町時代後期には南進して現在の岩手郡や紫波郡を攻略した。

1588年(天正16年)南部信直は高水寺城の斯波氏を滅ぼし、1590年(天正18年)には豊臣秀吉から、閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡ならびに糠部郡の所領を安堵された。1591年(天正19年)九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(福岡城、二戸市)に本拠を移した。和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増されて7ヶ郡10万石の所領を安堵された。

1592年(文禄元年)秀吉の重臣浅野長政らから九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け、不来方(こづかた)の地を本拠とすべく整地を開始した。

慶長年間には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。

南部氏が福岡城から盛岡城へ移ったのは元和年間(1615-1623)といわれるが、たび重なる洪水による石垣の崩落があり、一時は斯波氏の居城・高水寺城を改修した郡山城に移転するなどし、重直の代に盛岡城が完成した。

以後、明治に至るまで盛岡藩政の中心となったが、1872年(明治5年)には陸軍省所管となり、1874年(明治7年)に城内建物はほとんど取り壊された。1903年(明治36年)に岩手県により公園整備が開始され、1906年(明治39年)に「岩手公園」として開園、その後所管は盛岡市に移された。

内堀。

本丸門。内側。

本丸。南部(利祥)中尉騎馬像台座。

南部家42代利祥(としなが)が24歳で日露戦争において戦死し、その功によって、功五級金勲章を受けたことを顕彰する像で、明治41(1908)年9月に建立されたが、銅像本体と玉垣の鎖は昭和19(1944)年に軍需資材として供出され、現在は台座のみが残されている。

この地には、かつて南部氏の家臣福士氏の不来方城(こずかたじょう)の淡路館(あわじだて)・慶善館(けいぜんだて)が存在し、淡路館の部分が利用された。

不来方城1・2期は、丘陵を切り盛りして平坦地や空堀・土塁を廻らせた土の城で、建物はほとんどが板葺き・茅葺きの屋根であった。

盛岡城1期は、不来方城の堀を埋め、平坦地を拡張して築かれた。頂上の本丸・二の丸の一部には石垣が積まれ、瓦茸きの櫓などもあったが、中腹の腰曲輪や二の丸西側・三の丸などは土手のままで、周囲に木柵が廻っていた。腰曲輪が石垣になるのは盛岡城2期の段階で、このとき本丸石垣も積み直され、双鶴(向鶴)紋の瓦が葺かれた。

しかし間もなく、本丸の三重櫓などが落雷で焼失した。これらの建物は1674年(延宝2年)より再建が始まるが、ほぼ同時期に、二の丸西側も北上川の川筋が切り替えられ、1686年(貞享3年)にかけて高い石垣が築かれた。これが盛岡城3期で、この時期から主要な櫓などには、赤瓦が葺かれるようになった。

本丸北東隅から本丸門、天守台。

本丸北東隅から台所。

本丸北東隅から二ノ丸南東隅。

東面石垣の南半部に、延享年間に付加されたハバキ石垣が 2ヶ所取り付いている。この背面の石垣は下部が 1期の石垣。上部は 2期の石垣となっている。

本丸北東隅から二ノ丸への橋。

本丸東西40m~6lm、南北60mの矩形をなしているが、東側は御末門を境に喰違となり、南東部が大きく張り出している。このため大手側の北辺が狭く、搦手側の南辺が広い。御末門を出て坂を下りると、東側に御乗物部屋の石垣があり、これと本丸石垣の間には冠木門が存在した。

本丸には 4基の櫓があり、南東隅に天守相当の三重櫓、南西隅に二階櫓、北東隅に隅櫓 、 北西隅には小納戸櫓が存在した。三重櫓の櫓台は、東西llm、南北10mで、現状では上面に東屋があり、現在南西側に石階が設けられている。

小納戸櫓と二階櫓の間は内側に窪んで、いわゆる合横矢のプランになっている。石垣は西辺中央部を除いて、内側にも石垣を備えた石土居となっていた。

虎口は 2ヶ所開かれる。大手側、ニノ丸との間の堀切に面して廊下橋門があり、この左右両翼には多聞櫓が存在した。搦手側には御末門があり、南脇には多聞櫓が存在した。このほかに、南西側の二階櫓北側から合横矢の位置に百足橋という階段が下っていたが、二階櫓は大奥の長局や藩主の居間に近く、百足橋は非常時の脱出路であろう。

本丸から二ノ丸方向。

二ノ丸から本丸方向。

ニノ丸は、本丸の北側に、堀切を隔てて存在する。中ノ丸とも呼ばれ、南北76m、東西40mから 58mの広さがある。現状では南辺と東辺が一段高い地形となって、他は広く同一平坦面となっている。本来は、大書院など主要殿舎の存在した南東部が、 38mX32mの方形に石垣が築かれて一段高く、この西側と北側が 2 mほど低い地形となり、2段の構成になっていた。

 

盛岡(三戸)南部氏。

甲斐国巨摩郡南部郷を本領とする南部氏が、陸奥北部で活動し始めるのは、建武の新政のころからである。陸奥国司北畠顕家によって、糠部検断奉行となった、南部帥行を初めとする根城南部氏(八戸氏)は、南北朝合ーの後も、八戸根城を拠点に勢力を伸ばし、郡内の領主との連合勢力を形成していった。室町時代の15世紀、根城南部氏は、奥州探題大崎氏から、内裏造営の段銭徴収や、軍事動員等を直接下命されており、糠部地域の領主層を代表する存在であったことがわかる。戦国時代の天文年間 (1532~1555) には、一族の中の三戸南部氏や、九戸と二戸の領主九戸氏が大きく台頭して、根城南部氏を凌ぐようになった。天正10年 (1582)、南部睛政、睛継父子急死のあと、三戸南部家を継承した南部信直は、九戸政実と対立する。前田利家を通じて豊臣政権を後ろ盾とした信直は、天正16年 (1588) には斯波氏を降し、天正19年 (1591) には九戸氏を滅ぼして、豊臣政権下の大名としての地位を確立した。信直は居城を三戸から福岡(二戸市)へ移転し、さらに、北上盆地北部の不来方に新城を定めて、盛岡南部氏の初代となった。

不来方と福士氏。

今日の盛岡市街地中心部の地形は、南部氏の築城と、城下町建設により改変された地形である。室町時代から戦国時代にかけて、福士氏が支配しており、その居城が不来方城であった。福士氏は南部氏と同じ甲斐源氏の一族と伝えられ、南部氏に随身して奥州に来住したとされている。福士氏の系譜や菩提寺東顕寺の記録では、明徳 2年(元中元年: 1391) に福士政長が没しており、このころには不来方を領していたらしい。また、応永11年 (1404) には、大膳(系譜では南部義政とされる)から不来方の領有を認められている。福士氏は南部氏の、甲斐以来の重臣の家柄と伝えられているが、 16世紀の中ごろには、斯波氏の勢力が岩手郡に大きく拡がっている。また、それ以前から河村氏の一族も、志和郡の河東から岩手郡東部一帯に、支族をおいている事実がある。不来方の福士氏が、室町、戦国期を通じて、南部氏に属したまま推移したということは考えにくい。南部睛政の岩手郡進出のときに、晴政に服属したが、九戸合戦時の福士氏の動向は不明であり、盛岡築城のころには、信直の意に反し、不来方を出奔している。福士氏については、駿河の南条氏または富士氏の一族とする説もある。

要害としての不来方。

不来方は北上川、中津川の合流点にある要害地形であり、そこは地域の信仰を集めた聖地であり、主要街道や北上川に面した交通の要衝であった。こうした地の利をえた不来方城は、室町時代から戦国時代にかけての軍事的な拠点としても重要な役割を担っていた。

応永11年 (1404) 福士左京大夫と福士治部少輔は、南部大膳から不来方城に粟、米等食糧の備蓄を命ぜられている。大膳は三戸の南部義政とされているが、実際には八戸根城南部氏からの命令であったのかもしれない。また、永享 7年(1435) から翌年にかけて和賀、稗貰両郡に大乱があり、北奥27郡の軍兵が召集された。この鎮圧軍の終結場所が岩手郡不来方城であった。南部長安ら北奥諸郡の軍勢は不来方城に数日待機し、翌年春には斯波御所を総大将に稗貫郡に出陣している。戦国時代末期の天正14年から 16年にかけて三戸の南部倍直志和郡侵攻の際にも、不来方城は志和郡進出の拠点となっており、東の中野館とともに、斯波氏への備えとして位置づけられていた。このように、不来方が大規模な軍事行動の際の拠点として機能したのは、地形の要害性もさることながら、各地に通じる諸街道が交差する交通の結節点であり、城の位置が岩手郡、志和郡それぞれに対応できる要地であったこと。また、周辺には生産力のある村落や農耕地も多く存在し、まとまった軍の駐留が可能であったためであろう。

総石垣の織豊系城郭。

南部信直が、九戸の陣から帰還する天正19年の 9月10日、豊臣軍の軍監浅野長政が不来方城において、南部信直に不来方城の地に新城を築くよう、積極的に奨めた。信直の居城三戸城は、周囲を山に囲まれて堅固な構えであるが、広い田畑もなく、決して豊かな土地ではないこと、それに対して不来方は前に田畑が広がり、後ろには大河が流れ、周囲の山や河、街道に至るまで、利に適った場所であることから、是非この地に新城を築くべきであると説いたのである。そして、南館(淡路館)の地形を大まかに計測して縄張りをし、地山が狭小ではあるが、盛土拡張すれば必要面積は確保できることや、構造上障害となる北館(慶善館)を切り崩すように指示していることである。しかも、その基本的な縄張までも、浅野長政自身が行っている。これは豊臣政権が、地方大名である南部信直の居城について、立地や構造の詳細をも掌握することになり、同時に、南部氏独自の築城を許さないものであった。新城の構造から明らかなように、盛岡城はあくまでも豊臣政権下の一大名、盛岡南部氏の居城であり、その築城は豊臣政権の政策が前面に出た内容で実施された。

実際の築城工事にあたっては、前田利家の家臣内堀伊豆頼式が奉行並として参画していた。その結果、盛岡城は、戦国期の北奥地域の城館とは大きく異なり、総石垣の豊臣系城郭として築城された、国内最北の事例となっている。

 

盛岡城跡見学後、厨川柵跡の見学に向かった。

盛岡市 福田パン長田町本店 盛岡のソウルフード コッペパン



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