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岩手県花巻市 花巻市博物館②縄文の組合せ仮面 遮光器土偶

2023年11月25日 11時49分03秒 | 岩手県

花巻市博物館。花巻市高松。

2023年6月10日(土)。

 

組合せ仮面。立石遺跡。

立石(たていし)遺跡で発見された土偶の出土数は300点を超え、全国での他の遺跡と比べてみても非常に多く出土しました。出土した土偶の多くは縄文時代後期 (約4000~3000年前)に属するもので、配石遺構が作られた時期とも重なります。配石遺構の周辺から土偶が多く出土しているため、配石の周りで土偶を使った祭祀が行われていたのかもしれません。

耳形・鼻形土製品には、紐を通したと思われる穴があいています。同様の遺物は、北上市・八天(はってん)遺跡でも出土しており、ほかに口形の土製品もみられます。これらは、おそらく皮や布などに結びつけて、仮面のように使ったのでしょう。この遺物の出土例は全国でも数える程度です。

八天遺跡(はってんいせき)。国指定史跡。北上市。

 八天遺跡は開田に伴い発見された、北上川左岸に接する総面積約2haの縄文中期から後期(約3,500年前)の集落跡です。墓と思われる穴からは、土製の鼻 5点、口2点、耳1点が発見されました。また、大形円形建物跡をはじめとする、多数の遺構が見つかりました。土製の耳・鼻・口は仮面の部品と考えられています。また、大形円形建物跡は最大時で直径17mほどあったものが、10回近い建て替えの結果、直径8mほどまで小さくなったと考えられています。これらの発見から、八天遺跡は縄文時代の研究において、重要な遺跡の一つとなっています。

そのほか、イノシシ形土製品も昭和27年と昭和52年に1点ずつ出土しています。昭和27年出土の方は成獣のオスを模していますが、昭和52年出土の方は幼獣 (ウリ坊)のようでもあり、まるで親子のように見えます。

  これらの耳形・鼻形・イノシシ形土製品は現在、花巻市指定有形文化財(考古資料)となっています。

立石遺跡は、早池峰山に源流を持つ稗貫川(ひえぬきがわ)と支流の小又川(こまたがわ)の合流点北東部に形成された河岸段丘上にあります。過去に旧内川目(きゅううちかわめ)小学校新築工事や住宅建設に伴い、昭和52 ~ 53 年・61 年・平成16 年の過去3 回発掘(調査が行われました。

調査では石を集めて様々な形に並べた「配石遺構」が30 基以上見つかっており、これらは縄文時代後期~晩期( 約4000~ 2300 年前) のものです。発見された円形の配石遺構の一つは、直径が2mで、石の下に穴が掘ってあったので、縄文人の墓だと考えられます。また、14m以上にわたって弓なりに石を配置した特徴的な配石遺構なども見つかっています。

スプーン形土製品。小田遺跡(こだいせき)。

小田遺跡(こだいせき)は、花巻市北東部の大迫(おおはさま)町亀ケ森地区にあります。この遺跡は、稗貫川の左岸に位置している縄文時代の遺跡で、昭和53年の町道拡幅工事の際に初めて発掘調査が行われました。

この調査では、石組炉2基、焼土ブロック9基、埋設土器1基といった遺構が発見されたほか、遺物では縄文時代晩期 (約3000~2,00年前)の土器が中心で、遮光器土偶が完形品1点を含む130点も見つかったほか、亀形土製品スプーン形土製品、多数の石棒・石剣類など出土しました。中でもスプーン形土製品は当時全国の出土数の1割にも当たり、縄文人の食事の研究を行うための貴重な資料として注目されました。

土偶や石棒・石剣類などは、マツリや呪(まじな)いなどに使われた祭祀道具ではないかとされ、住居跡が発見されていないことなどから、この一帯が縄文人にとって特別な場所だったのではないかと考えられています。

多数の土器や、土偶を含む多種多様の土製品や石棒や石剣類などの祭祀遺物が出土しました。住居跡は発見されませんでした。

昭和60年には、土偶の出土状況調査のため、國學院大學の小林達雄教授(考古学)も遺跡の一部を発掘調査しています。

平成元年には遺跡の範囲確認調査が行われ、「人物線刻石」といわれる人物像を刻んだ小石が出土し、縄文人が描いた全国初の絵画として有名になりました。

アメリカ式石鏃。弥生時代後期(1~3世紀)。久田野Ⅱ遺跡。

弥生時代後期(1~3世紀)の東北地方で主に分布するアメリカ式石鏃は、アメリカの先住民が使った鏃(やじり)に形が似ていたことから名づけられました。ただし、アメリカの先住民と直接の関係はありません。基部に近い両側のえぐりは矢柄を装着するための工夫と考えられています。

岩手県花巻市 花巻市博物館①縄文時代の複式炉


岩手県花巻市 花巻市博物館①縄文時代の複式炉

2023年11月24日 14時54分32秒 | 岩手県

花巻市博物館。花巻市高松。

2023年6月10日(土)。

胡四王山の山上にある宮沢賢治記念館と胡四王山神社を見学後、麓にある花巻市博物館を見学した。

 

上台1遺跡。縄文時代早期(1万1500年前 - 7000年前)。岩手県最古の竪穴住居跡。

溝形落し穴。

複式炉のある復元住居跡。久田野 (きゅうでんの) Ⅰ遺跡。

複式炉縄文時代中期中葉(約4500年前)に出現し、後期初頭(約4000年前)には消滅する。

複式炉の分布は南東北地域の大木式土器の分布圏と一致している。

実物の調査から土器埋設石囲炉では土器の焼け具合から、日常的に火を焚いていたことが分かった。複式炉の役割として、マツリとの関連説、トチの実などを調理するために大量の灰を生産する必要があったためという説などがある。

久田野 (きゅうでんの) Ⅰ遺跡は市内の東部、北上川とその支流・猿ケ石(さるかいし)川にはさまれた台地上にあります。周辺には縄文時代中期の大きな集落跡として知られる久田野Ⅱ遺跡などの遺跡が密集しており、一帯は市内でも有数の縄文遺跡群となっています。

これまでの発掘調査では、今から約4,500から4,000年前の縄文時代中期後半の竪穴住居跡3棟や陥し穴(おとしあな)状遺構11基が見つかっており、特にも北西向きの斜面部から見つかった住居跡には複式炉(ふくしきろ)と呼ばれる特徴的な炉跡(住居内部の壁際近くに石敷きの掘り込みと土器を埋めた炉が続くもの)があり、注目されます。

久田野Ⅱ遺跡。 

矢沢小学校近くの久田野Ⅱ遺跡で昭和63年に行われた試掘調査では、多くの遺構・遺物)が発見されました。平成2年の調査では、長さ12.6m幅9.2mの小判形をした大型の竪穴住居跡が見つかりました。その後の発掘調査では、中央に「広場」をもつ、主に縄文時代中期(約5000~4000年前)の市内でも有数の大きな集落跡であることがわかりました。

10年以上にわたる調査により、大量の土器や石器、竪穴住居跡20棟以上、石囲炉(いしがこいろ)17基ほか多数の土坑、柱穴などが確認されています。

岩手県花巻市 宮沢賢治記念館②「雨ニモマケズ」手帳 胡四王神社


岩手県花巻市 宮沢賢治記念館②「雨ニモマケズ」手帳 胡四王神社

2023年11月23日 11時07分06秒 | 岩手県

宮沢賢治記念館。花巻市矢沢第1地割。

2023年6月10日(土)。

最近、「銀河鉄道の父」門井慶喜を読んだ。貧窮する農民から収奪する家業の裕福な質屋業にコンプレックスを持ち、盛岡高等農林では農芸化学を専攻して、土壌改良面から農民生活の改善を目指したようだ。

賢治と農民。

賢治は1896年(明治29年)8月27日、稗貫郡花巻川口町(現花巻市豊沢町)にて宮沢政次郎・イチ夫婦の長男として生まれました。そのころの家業は質屋・古着屋でした。しかし、この家業が、後の賢治の心に重苦しい負担となって残りました。

高等農林学校を卒業後、しばらくして花巻農学校の教諭になったときから賢治と農民との直接の関わりが始まりました。花巻農学校内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術という科目を担当したことから、自ら農民の中に入っていくことになります。そして、担当した農民芸術の講義の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要」となりました。概論の冒頭で賢治は「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と言っています。

1926年(大正15年)農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。

賢治は、農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために農事講演や肥料相談に携わり、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。

賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年に賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、豊沢町の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げ、1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さでこの世を去りました。

宮沢賢治記念館見学後、胡四王山の頂上付近にあり、展望スポットとして紹介されていた胡四王(こしおう)神社へ向かった。車道を少し登り頂上方向へ向かうと神社駐車場があり、10台ほど駐車していた。そこから神社までは徒歩1分ほどで着いた。

胡四王(こしおう)神社。花巻市矢沢。

矢沢(やさわ)神社とも称される。大己貴命・少彦名命を祀り、旧村社。社伝によれば延暦年間(782―806)蝦夷攻略のため奥州に下向した坂上田村麻呂が、武運長久を祈願して兜に納めていた薬師如来を安置したのが始まりという。稗貫氏統治時代には社運隆盛であったが、天文年中(1532―55)火災に遭って衰微したとされる。江戸時代には胡四王山大権現などと称されて歴代盛岡藩主の崇敬も厚く、社領三石二斗を有し、花巻郡代であった北信愛の子孫北可継なども代参を遣わしている。古くは秘仏薬師如来を本尊として近隣の信仰を集め、代々杉山家が別当を勤めていたが、文化15年(1818)杉山丹後の代に神職として取立てられ、以後医薬の神である大己貴命・少彦名命を祭祀の中心とした。

胡四王神社からの眺望。

このあと車道を下り、麓にある花巻市博物館を見学した。

岩手県花巻市 宮沢賢治記念館①宮沢賢治の遺書 愛用のチェロ


岩手県花巻市 宮沢賢治記念館①宮沢賢治の遺書 愛用のチェロ

2023年11月22日 15時29分57秒 | 岩手県

宮沢賢治記念館。レストラン「山猫軒」。花巻市矢沢第1地割。

2023年6月10日(土)。

滝沢市の鬼越蒼前神社と周辺で「チャグチャグ馬コ」を見学後、10時10分ごろ滝沢市役所の駐車場を出て、花巻市の宮沢賢治記念館へ向かい、胡四王山山上の駐車場に11時45分ごろに着いた。駐車場の東端にレストラン「山猫軒」があり、西端に宮沢賢治記念館がある。山猫軒の売店を覗いたあと、記念館に向かった。

1980年代に宮沢賢治記念館を見学し、盛岡市を定期観光バスで見学、渋民で石川啄木記念館を見学した。鉄道とバスしか利用しなかったので、イギリス海岸を見学できなかったのが心残りになっていた。

展望ラウンジからの眺望。

賢治と仏教の出会いは、10歳の時に大沢温泉で父が主催した仏教会に参加した事から、という説もあります。幼いころ、伯母のヤギに子守歌のように聞かされていた「正信偈」や「白骨御文章」を仏前で暗唱したり、また、父も仏教会を主催するなど、仏教の素地は家庭環境から作られていましたが、真に仏教に目覚めたのは、中学3年の時に浄土真宗の願教寺で開かれた夏期仏教講習会に参加したころでした。以来、毎年参加して、住職で仏教学者の島地大等の法話に聞き入りました。

盛岡中学を卒業した後、病気、入院、将来の進路をめぐる父との対立などですっかりノイローゼ状態になっていた賢治は、島地大等編の「漢和対照妙法蓮華経」と出会い、強い衝撃を受け、のちの一生を決定するほどの契機になったと言われています。

トシの病気の際、看病のために行った東京で田中智学の講演を聞いたことがきっかけで、田中智学の創設した在家宗教団体、国柱会に入会し、死ぬまで会員を通しました。日蓮思想に傾倒していった背景には、浄土真宗に深く帰依していた父との対立があったとも言われていますが、国柱会は、賢治と彼の作品の上に大きな影響を与えました。

「この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら,…たうたうこんなことになりました。今生(こんじょう)で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生(せい)又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

九月廿一日 賢治   父上様 母上様」

宮沢賢治の遺書。「九月二十一日 宮澤政次郎・イチあて 封書」

『兄のトランク』(宮澤清六 筑摩書房 1987)「そこでもう死ぬ覚悟を決めて、両親と私共に宛てて遺言状を書いたのであったが、奇しくもそれは二年後に死んだ月日と同じ九月二十一日であった。」

宮沢賢治が亡くなった後に、賢治の弟・宮沢清六は、賢治が使っていた大きなトランクの蓋の後ろのポケットの中から、一冊の手帳と、両親宛と弟妹宛の遺書を見つけた。

妹トシのバイオリン。

宮沢賢治愛用のセロ(チェロ)。

岩手県滝沢市 チャグチャグ馬コ 鬼越蒼前神社②境内から行進


岩手県滝沢市 チャグチャグ馬コ 鬼越蒼前神社②境内から行進

2023年11月22日 15時24分16秒 | 岩手県

チャグチャグ馬コ。鬼越蒼前(おにこしそうぜん)神社。岩手県滝沢市鵜飼外久保。

2023年6月10日(土)。

チャグチャグ馬コの行進鬼越蒼前神社を9時30分に出発する。8時30分ごろから飾り付けられた馬と人の一団は鬼越蒼前神社に各地から入場し、人馬一体となって社前でお参りして無病息災を祈る。これが本来の「蒼前詣り」の原型である。

「蒼前」とは、遠い昔、東北地方に住んでいた病馬の治療や農耕技術の巧みな馬匹育成者の名前といわれており、鬼越の蒼前神社には農業の神・馬の守り神として男子騎馬像の蒼前様が祀られている。

蒼前神社の縁日は旧暦の端午の節句になっている。ちょうどこの時期は当時、水田の代かきの最盛期に当り、田打ちに続く代かきの重労働で馬がへとへとに疲れるころであり、馬を連れて蒼前神社で無病息災を祈るとともに、人馬そろって「さなぶり」を楽しむ風習が生まれた。さなぶりは早上(さのぼり)、早(さ)は稲のことで、田植えがすんだ祝いを意味し、やがて農作業の骨休みをかねた祝宴全般を指すようになった。

1930年に馬好きで知られた秩父宮殿下が来県した際に、蒼前神社参詣後に列を成して盛岡八幡宮の神前馬場で馬ぞろいを見せたところ大変な評判となったため、翌年からお参りの後盛岡八幡宮まで行進し、開催するのが恒例となった。

昭和20年からの2年間は行事が中止されたが、有志により復活した。パレードへのさまざまな工夫が施されるようになり、年を追って華やかな行事へ変化を遂げていき、初夏を彩る風物詩として全国的に知られるようになった。昭和53年に文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択され、平成8年には「チャグチャグ」となる鈴の音が、環境庁(当時)の「残したい日本の音風景100選」に選出された。

お参りを済ませた成人男性に酒が振る舞われる。

社殿の横で隊列を組む。

境内で順番を待つ仔馬と母馬。

9時20分過ぎに1頭目が境内から鳥居へ向かい、行進が始まった。

9時30分過ぎ。岩手山と水田風景のベストポイントを通過。

9時35分ごろ、左へ行進する馬列と別れ、直進して滝沢市役所へ向かった。

10時ごろ滝沢市役所前に着いたが、行進はまだ来ていなかった。

10時10分ごろ滝沢市役所の駐車場を出て、花巻市の宮沢賢治記念館へ向かった。

岩手県滝沢市 チャグチャグ馬コ 鬼越蒼前神社①