「清盛以前 伊勢平氏の興隆」(高橋昌明2011増補改訂、原著1984)
10世紀末、藤原道長の時代から12世紀半ば、保元の乱開始まで、150年にわたる伊勢平氏の興隆、展開、勢力確立を、また清盛の祖父と父、正盛・忠盛の人と動きを描き出す。
本郷和人は「日本史を学び直すための130冊、貴族と武士の盛衰編10冊」において、「武家、すなわち中世の原動力となった武士とは何か、を知るためには本書が適当である。石井進は武士の姿を在地(地方。現地)に追い求めた。これに対し高橋昌明は朝廷が武士身分を創出したのであり、都の武士こそが本流であると説く。誰も考え得なかった非凡な発想の転換である。もう一度高橋の「清盛以前」を熟読し、そもそもの武士のありようを再確認したい。私は「地方の武士」を強調する立場なので、批判的であるが。」と評している。
第一章「伊勢平氏の成立」
998年藤原行成は左大臣藤原道長に平維衡(国香―貞盛の子)と平致頼(国香の弟・良兼―公雅の子)の伊勢における合戦を報告した。「両者は数多の部類を率い、年来の間、伊勢国神郡に住す」。
二人は当代を代表する兵(つわもの)であった。
初期における平氏の勢力は北伊勢を中心にし、尾張に及んでいた。維衡流は鈴鹿郡・三重郡などに、致頼流はその北に本拠をおいていた。
平氏の伊勢居住の理由がなんであれ、それをいわゆる「土着」と単純に理解してはならない。九世紀以降、中級官人や貴族が都に本宅をおいたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたる動きが生じていた。
この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持実現するための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築かんとしたのである。
このような地方居住は戸田芳実によって留住と概念化された。
彼らは地方豪族ではなく、京に足場をもって農村との間を往来する一種の地域支配領主であった。
平維衡は受領を歴任した。また、右大臣藤原顕光(兼通の子)の家人であった。維衡は一条天皇の女御で顕光の娘元子のために、焼亡していた堀河院を修造するほどの財力を蓄えていた。維衡はのちに藤原道長の家人となる。また、藤原実資とも主従関係を結んだ。
道長ら貴人たちは、維衡のような経験豊かな兵を使って、政敵を恫喝し、自己に関係する紛争を強権的に解決した。
平致頼一族も多方面の軍務を請け負う傭兵隊長であった。ただ、維衡流と比べると受領経験は圧倒的に少なかった。
兵=軍事貴族の性格。
平致頼の子致経に関する治安元年(1021年)に生じた事件。
致経は暗殺・傷害の常習犯であった。源頼光の弟頼親も殺人の上手といわれた。つまり、源氏・平家の軍事貴族は殺人者集団であった。
平致経らの在地における存在形態について。
致経は京都東宮町に寄宿するとともに、伊勢神郡から尾張にかけてを勢力圏にしていた。その中心は、尾張の某郡にあった私宅で、周辺には従類の宅が集まっていた。その宅は某郡の郡庁を壊却し、その資財を利用して跡地に新造したものであった。
平維衡は、小右記1028年条によれば、伊勢国押領使高橋氏や掾伊藤氏を郎等に組織していた。維衡や致経らの存在は在地民衆にとり不善の輩であった。維衡の郎等は三河の下女等26人をかどわかし、郎等逮捕のための検非違使が伊勢に下向している。
維衡と致頼の伊勢での合戦の事後処理は、両者の闘争を封殺するほど強力で真剣なものではなく、子の代まで継承された。地方豪族間の対立は長期化する傾向にあった。
これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。
地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。それゆえ地方豪族の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レヴェルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だったと思う。ために問題の解決はおくれ、結局紛争は長期化せざるをえなくなる。維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないにしても、右のことはそのままあてはまる。
維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。
長元3(1030)年に維衡の子正輔・正度と致経が伊勢で合戦をし、双方に戦死者が出て、多くの民家が焼亡した。両者は朝廷から裁判を受け、右大臣藤原実資は、正輔は絞刑、正度と致経については天皇の判断に委ねるとの陣定を奏上するが、後一条天皇からは両者を優免すべしとの仰せがあった。
長徳四年以来の維衡流と致頼流の対決は、史料上、長元年間の事件を最後としている。和解が成立したと考えるのは非現実的で、なお一定期間対決が継続されたことと思う。
現存諸記録は黙して語らないが、この対決の結果を思い描くのは、さして困難ではない。致経の子孫たちが、その後伊勢より姿を消しているからである。おそらく彼らは年来の仇敵である維衡の子孫たちに圧倒され、駆逐されたのであろう。
いずれにせよ、伊勢平氏を称するようになるのは、維衡流であって致頼流ではない。この素朴だが動かし難い事実こそ、なによりも両者の対決の結果をさし示すものである。
貞盛あるいは維衡が、草深い伊勢の一角に留住してから、同族を国外に放逐するまでに、ゆうに半世紀は経過しただろう。この間、維衡や正輔らは営々と荘家経営にとりくみ、ねばり強く在地に勢力扶植を試みた。そして幾度かの合戦の最後のものに勝利した時、彼らは間違いなく伊勢最大の世俗領主にのしあがっていた。かくして、彼らは伊勢平氏と呼ばれるにふさわしい存在になった。
当時、在地では軍事貴族を盟主と仰ぐ諸豪族の連合と再編成が進行していた。石母田正は、古代以来の国造的名族勢力の没落と新しい土豪の進出を基礎とする歴史の転換が、11世紀中葉以降伊賀地方にみられたと指摘しているが(中世的世界の形成)、尾張・伊勢地方では、それは軍事貴族への政治的吸収という形式で実現されつつあった。
平致頼流の子孫。
伊勢から転進して、新たに本拠とした所のなかで確実なのは伊勢湾の対岸、尾張の野間空海荘である。平致頼から5代の裔が野間空海荘司の長田忠致である。忠致は、この時期尾張を勢力下においていた源義朝の相伝の家人であった。
第二章「伊勢平氏の展開」。
平正度とその子たちは受領経験を重ねた。検非違使などの官人となり、臈を重ねて国守に推挙された。ただし、中下級貴族が諸大夫と侍層に分化する時代にあって、侍身分層上層へ身分低下したと思われる。正度の子たちは、公には諸衛官人・検非違使など、私的には顕貴な貴族の侍、世間的には一種の傭兵隊長として京都を舞台に活躍した。
伊勢平氏は、伊勢在地では伊勢神宮から相対的に自立した権力を有していたとみられるが、実態は明らかではない。多くの所領を伝領していったことは明らかである。
多度神宮寺の争論。承保2(1075)年、平正衡(正度の子、清盛の曽祖父)は東寺の末寺多度神宮寺を天台の別院と称し、東寺使を責め、神宮寺付属の所領尾張国大成荘を損亡させている(平安遺文)。伊勢平氏が多度神宮寺を実質的に支配していたことを示す。多度神宮寺は伊勢平氏の氏寺であった。多度神社も伊勢平氏の氏社であったようだ。
平正衡の子正盛は白河法皇に取り入り、院の近臣となる。同族の中で庶流であった正衡流伊勢平氏は、院近習化を契機に同族中で優位を占め始める。正衡の兄・季衡・貞衡の子孫は正衡流の従者となっていった。
第三章「平正盛と六波羅堂」、第四章「正盛・忠盛と白河院政」、第五章「平忠盛と鳥羽院政・上」、第六章「平忠盛と鳥羽院政・下」、終章「保元の乱への道」。
正盛と子の忠盛の時代になると、伊勢平氏は院政の中核を担っていた中流貴族を通じて藤原摂関家・上皇・女院に荘園を寄進し、中央政界のなかで武士団として成長していった。