標津町歴史民俗資料館・ポー川史跡自然公園ビジターセンター。標津(しべつ)町伊茶仁(いちゃに)。
2022年6月15日(水)。
野付半島のトドワラを見学後、12時ごろ標津町歴史民俗資料館・ポー川史跡自然公園の駐車場に着いた。伊茶仁カリカリウス遺跡の見学が主目的であるが、遺跡はポー川史跡自然公園の中にある。標津町歴史民俗資料館はポー川史跡自然公園のビジターセンターの中にあり、無料だが、遺跡エリアと併設の開拓の村見学の際は入園料330円が必要である。受付はビジターセンターの中にある。
伊茶仁とはアイヌ語で、イチャニ(サケマスの産卵場)の意、カリカリウスは、カリ・カリ・ウシ(回る・回る・たくさんある)で川が湿原で蛇行するさまを表現している。ポーは「フルポク」(丘の陰の川)が略されたものという。琉球語・ギリシャ語・イタリア語のような響きが面白い。
国後島を間近にのぞむ北海道東部の町、標津のオホーツク海にそそぐ標津川の西岸には標津湿原と呼ばれる低湿地がひろがり、さらに西方に標高20メートル前後の標津丘陵地が展開する。この低丘陵の西裾には標津湿原から流れ出た小流ポー川が、また北裾には伊茶仁川があり、集落を形成する好適地となっている。この地を流れる伊茶仁川の流域は、トビニタイ文化や擦文文化など北方古代文化の住居跡が密集する一大竪穴群地帯であり、豊かなサケ・マス資源を求めてこの地に生きた北方文化の交錯と盛衰の軌跡が残っている。
その最大の特徴は、竪穴住居跡やチャシ跡が、現在の地表面から窪みとして観察できることにある。竪穴住居跡の窪みとして残り、その総数は、約4,400か所に達し、日本最大規模を誇り、1万年前の縄文時代早期から約800年前の擦文時代に至る竪穴住居跡や、約500年前のアイヌ文化のチャシ跡などが残されている。
遺跡群の内、伊茶仁カリカリウス遺跡、 古道(ふるどう)遺跡、三本木遺跡の3つの遺跡が、「標津遺跡群」として国の史跡に指定されている。
伊茶仁カリカリウス遺跡は、ポー川と伊茶仁川に挟まれた標高20mの台地に位置する。1200あまりの竪穴住居跡が台地縁辺部で観察され、縄文時代・オホーツク文化末期・トビニタイ文化・擦文文化の竪穴住居の構造が明らかにされている。
伊茶仁カリカリウス遺跡は、特にトビニタイ文化の遺跡があることが特徴である。オホーツク文化の人びとが内陸部への移動の第一歩を印した遺跡である。かれらは道東根室海峡側で、サケ・マス漁を主体とするトビニタイ文化を起こした先駆者であった。
トビニタイ文化は、9世紀ごろから13世紀ごろにかけて、北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式の名称である。1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来である。
トビニタイ文化の直接の源流はオホーツク文化である。オホーツク文化に属する人々は以前から北海道に南下していたが、7世紀から8世紀にかけては道北・道東に広く進出していた。その後、9世紀になって擦文文化に属する人々が道北に進出すると、道東地域のオホーツク文化圏は中心地である樺太から切り離されてしまった。その後この地域のオホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けるようになり、両者が融合したトビニタイ文化に移行した。トビニタイ文化はその後、13世紀初め頃には姿を消して、中世アイヌ文化に移行した。
斜里町のウトロ地区入口にある、トビニタイ文化期のチャシコツ岬下B遺跡から2005年、ヒグマを祭祀に用いた痕跡と思われるヒグマの骨が発見された。これにより、擦文文化には見られなかった一方でオホーツク文化には存在した熊崇拝が、トビニタイ文化を経由してアイヌ文化にもたらされ、イオマンテ(クマ送り)の神事となったのではないかとの見方が浮上している。