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岩手県花巻市 宮沢賢治記念館②「雨ニモマケズ」手帳 胡四王神社

2023年11月23日 11時07分06秒 | 岩手県

宮沢賢治記念館。花巻市矢沢第1地割。

2023年6月10日(土)。

最近、「銀河鉄道の父」門井慶喜を読んだ。貧窮する農民から収奪する家業の裕福な質屋業にコンプレックスを持ち、盛岡高等農林では農芸化学を専攻して、土壌改良面から農民生活の改善を目指したようだ。

賢治と農民。

賢治は1896年(明治29年)8月27日、稗貫郡花巻川口町(現花巻市豊沢町)にて宮沢政次郎・イチ夫婦の長男として生まれました。そのころの家業は質屋・古着屋でした。しかし、この家業が、後の賢治の心に重苦しい負担となって残りました。

高等農林学校を卒業後、しばらくして花巻農学校の教諭になったときから賢治と農民との直接の関わりが始まりました。花巻農学校内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術という科目を担当したことから、自ら農民の中に入っていくことになります。そして、担当した農民芸術の講義の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要」となりました。概論の冒頭で賢治は「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と言っています。

1926年(大正15年)農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。

賢治は、農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために農事講演や肥料相談に携わり、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。

賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年に賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、豊沢町の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げ、1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さでこの世を去りました。

宮沢賢治記念館見学後、胡四王山の頂上付近にあり、展望スポットとして紹介されていた胡四王(こしおう)神社へ向かった。車道を少し登り頂上方向へ向かうと神社駐車場があり、10台ほど駐車していた。そこから神社までは徒歩1分ほどで着いた。

胡四王(こしおう)神社。花巻市矢沢。

矢沢(やさわ)神社とも称される。大己貴命・少彦名命を祀り、旧村社。社伝によれば延暦年間(782―806)蝦夷攻略のため奥州に下向した坂上田村麻呂が、武運長久を祈願して兜に納めていた薬師如来を安置したのが始まりという。稗貫氏統治時代には社運隆盛であったが、天文年中(1532―55)火災に遭って衰微したとされる。江戸時代には胡四王山大権現などと称されて歴代盛岡藩主の崇敬も厚く、社領三石二斗を有し、花巻郡代であった北信愛の子孫北可継なども代参を遣わしている。古くは秘仏薬師如来を本尊として近隣の信仰を集め、代々杉山家が別当を勤めていたが、文化15年(1818)杉山丹後の代に神職として取立てられ、以後医薬の神である大己貴命・少彦名命を祭祀の中心とした。

胡四王神社からの眺望。

このあと車道を下り、麓にある花巻市博物館を見学した。

岩手県花巻市 宮沢賢治記念館①宮沢賢治の遺書 愛用のチェロ



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