ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

鶴崎駅(2004年1月31日撮影)

2015年06月10日 00時41分15秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第86回(2004年2月8日夜から14日まで)として掲載した記事の再掲載です。かなりの時間が経過いたしましたので、若干の修正を施しました。〕

 仕事が一段落したので、気晴らしに、電車でどこかへ行こうと思い、豊肥本線敷戸駅から大分駅へ出て、日豊本線の下り電車に乗りました。2003年に入線した817系の佐伯行き普通電車に乗ります。大分駅からは単線区間となり、牧、高城を過ぎます。高城までは大分市の中部といってよい場所です(大分中央郵便局の管轄ですし、市内局番もその扱いです)。乙津川を越えると、大分市の東部に入ります。その最初の駅が、特急停車駅でもある鶴崎駅です。

 上の写真が、南側にある鶴崎駅の建物です。特急が停車する駅にしては小規模ですが、寝台特急彗星号とドリームにちりん号以外の全部の特急列車が停車します。もっとも、そのようになったのは最近のことで、以前はごく一部の列車以外は通過していました。2004年1月の時点で、大分市内の駅では大分駅とこの鶴崎駅だけ、そして、大分県内の日豊本線では数少ない、常時駅員配置駅でした。大分県内にある日豊本線の駅では、他に、中津、柳ヶ浦、宇佐、杵築、亀川、別府、臼杵、佐伯の各駅だけが常時駅員配置駅でした。なお、2015年6月現在、鶴崎駅は業務委託駅です。

 実は、この鶴崎という地域は、1954(昭和29)年から1963(昭和38)年まで鶴崎市でした。この鶴崎駅周辺を始め、今の松岡地区、明治地区、川添地区などが鶴崎市の領域でした。つまり、大分スタジアム(通称ビッグアイ)は、旧鶴崎市の領域にある、ということになります。大分東郵便局の管轄であるため、大分駅などの中心部と郵便番号が異なりますし、電話の市内局番も異なります(鶴崎地区のほうが若い番号です)。

 駅のすぐ前で見かけたものです。大分市教育委員会による説明板です。

 鶴崎と言えば、最も有名なのは鶴崎踊でしょう。これは国の無形文化財にも指定されています。上の写真でもおわかりのように、盆踊りの一種なのですが、大分市の観光案内などには必ず登場するほどのものなのです。残念ながら、私は一度も見たことがないのですが、聞いた話によると、非常に優美であり、艶っぽいのだそうです。

 駅前にある鶴崎踊の像です。8月の終わりになると、テレビやラジオなどでも鶴崎踊が取り上げられます。大分自動車道を鳥栖から進み、大分市に入る地点に立てられている「大分市」の看板も、このように、和服の女性が踊っているという絵がデザインのベースになっています。

 しかし、こんなことを書いてきたとは言え、私が最初に鶴崎地区を通った時、上の写真でも奥のほうに煙突が見えるように、工場地帯というイメージがすぐに湧きました。実際、海側(写真では奥のほう)を走っていると、工場などが多いのです(鶴崎駅からも工場地帯への引き込み線が通っていました。但し、当時も使用されていたのか既に廃止されていたのかはわかりません)。そのすぐそばに住宅地が広がっています。何とも妙な気がしてきました。

 市町村合併でかつての中心部が寂れるという話があります。大分県内に限定すると、鶴崎はその代表ではないでしょうか。上の写真は、駅前のロータリーを撮影したものなのですが、いかに土曜日の昼とは言え、人通りが少ないのが気がかりです。奥のほうの左から右のほうに国道197号線が通っており、それに沿って商店街などが広がっているのですが、閑散としています。

 写真の手前から道をまっすぐ進み、乙津川を越えて森町に入ると、急に商店が多くなり、人通りも増えてきます。郊外のほうが発展しているのです。私も、森町には時折遊びに行くのですが、鶴崎駅周辺は通り過ぎるだけです。駐車場がないからです。

 これまでにも、鶴崎駅周辺を何度か歩きました。2003年の秋には、私のゼミ生たちと、大分の料理鳥天(鶏肉のてんぷら)の元祖という店「キッチンいこい」にも行きました。元々は大分駅に近い府内町にあった店で、鶴崎のその店は支店か何かだったそうですが、現在は鶴崎のみにあります。

 最初に掲載した時にはこう記したのですが、2014年1月下旬に「キッチンいこい」は閉店しました。大分大学教育福祉科学部に在職していた1997年4月から2004年3月まで、私は、大分市内の至る所に行っては色々な店に入って食事をしましたが、この店は私の中での大分市内美味い店10選に入っていました(ほとんどが郊外にありました)。ゼミ生から教えてもらったのですが、安くて美味しく、しかも相当にヴォリュームがありました。何故か、ゼミ生の知り合いという教育福祉科学部の卒業生がアルバイトをしていて、我々全員にコーヒーやアイスクリームのサービスをしてくれました。あまりのボリュームであったため、私は、大学に戻って午後の講義をするのが少々つらく、22時になってようやく空腹感を覚えました。当時のゼミ生たちの中には、次の日の朝食時まで食欲が湧かなかったという人もいました。


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