ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

合併して再び分離?

2012年09月23日 23時22分43秒 | 国際・政治

 私が大分大学教育福祉科学部に勤務した7年間のうち、後半は平成の市町村合併の大波が日本中に押し寄せていました。大分県もその例外ではない、どころか、全国的にみても市町村合併に最も熱心に取り組んだ都道府県の一つでした。何しろ、私が大分市に住んでいた時には58の市町村があったのですが(しかも私はその全てに行っています)、現在は14市3町1村の18市町村しかありません。今回、合併しなかったのは、別府市、津久見市、日出町、玖珠町、九重町、姫島村のみです。

 九州では、宮崎県を例外として、どの県でも合併に熱心でした。とくに熊本県は、熊本市を政令指定都市にしようという動きがあり、実際にそうなったため、全国的に目立っていたような気もします。同じような動きは、静岡県や新潟県でも見られました。我が神奈川県でも、全体的には合併の動きが低調であったものの、相模原市だけは合併に積極的で、結局は県内三番目の政令指定都市になりました。

 しかし、平成の大合併を個々の事案ごとにみると、かなり無理なものも見受けられます。禍根を残したものもありますし、面積ばかり広くなって合理化とは逆の結果を招きかねないような例もあります。何よりも、当時、合併に反対する住民の声が強かった地域は非常に多かったのです。私は、今でも2003年4月17日の夜、当時の耶馬溪町柿坂のサニーホールでの出来事、そして熱気を覚えています。耶馬溪町の「市町村合併を考える会」など4団体が主催する「市町村合併フォーラム」に招かれ、講演をしたのです。西日本新聞でも報じられたのですが、私が演題に立った時、おそらく300人は下らないだろうと思われる人々が、私の話を熱心に聴いて下さりました。その空気は「中津市には合併されない。耶馬溪町は独自の道を進んでいく!」というもので、むしろ私が圧倒されました。しかし、それからほどなく、耶馬溪町は下毛郡の他の町村とともに中津市と合併しました。今どうなっているのか、また様子を見たいと思っています。

 合併の渦中に大分県にいた私は、この平成の大合併に対して最初から疑問を持っていました。そのことは、講演や公務員研修の場でも何度となく話しました。一度だけ、2001年9月3日に宮崎県の市町村職員一般研修を担当させていただいたことがあり、その際にも合併推進政策に対する疑念などを述べました。大分大学在職中には何度か月刊地方自治職員研修に論考を発表する機会がありましたが、サテライト日田問題を扱った論文を除き、市町村合併推進への違和感などを、法律論に昇華させ、議論を進めています。何故、合併ばかりなのか。大都市など、むしろ分離分割もありうるはずである。横浜市など、果たして市としての一体感があるのか。面積の狭い川崎市でさえ、少なからぬ住民が川崎市の一体感など知らない。こんなことを考えていたのです。

 その意味で、合併が進められても、その反動は遠からぬ時期に来るだろう、と思っていました。やはり、その動きは発生しました。九州は熊本県からです。朝日新聞社が、今日の19時55分付で「『平成の大合併』別れたい  熊本・旧泗水町で過半数署名」(http://digital.asahi.com/articles/SEB201209220002.html)として報じています。

 泗水町は、2005年、菊池市と合併しました。旧菊池市、菊池郡七城町、同郡旭志村、同郡泗水町が合併して、現在の菊池市となった訳で、新設合併でした。旧泗水町は、現在の菊池市の南部にあり、かつて熊本電気鉄道菊池線も通っていました。

 上記記事によると、旧泗水町にある「泗水をよくする会」という住民グループが、今月20日、旧泗水町を菊池市から分離する旨の要望書、および「住民の半数を超える署名」を市長と市議会議長に提出したとのことです。住民がどの範囲の住民を指すのかはわかりませんが、6873人分の署名が集まったそうで、これは旧泗水町の有権者のおよそ57パーセントにあたるとのことです。

 理由としてあげられているのは市庁舎で、やはり上記記事によると「合併協議会で合意したはずの市庁舎建設を白紙にしたことなどに反発」したというのです。さらに「価値観などで受け入れがたい相違点がある」というのですが、具体的なことは記事からでは不明です。ただ、市庁舎建設は合併の際にも大きな問題となった地域が多く、解決できなかった結果として合併論議が決裂したという例もありました。「つまらない話だ」と批判する見解もありますが、地元にとって、市役所、町役場、村役場という地方公共団体の中心がどこに置かれるかは、とくに合併の場合は重大な関心事となります。面積が広くなるだけに、中心部が置かれなかった旧地方公共団体の区域は周辺部となり、寂れたりする危険性があるのです。合理化などとは矛盾するとしても、過疎地域などの場合は中心部が置かれなければいっそうの過疎化を招き、限界集落の増加などという深刻な事態を生じかねない訳です。

 勿論、合併以上に分離独立または分割は厄介です。今回の旧泗水町の分離独立の場合、菊池市議会での議決が必要なのは当然ですが、熊本県議会での議決も必要となります。これまで合併に関心が向けられてきただけに、議会で賛成意見が多くなるとは思えません。仮に菊池市議会で承認されるとしても、熊本県議会がどのように判断するか、というところでしょう。

 但し、分離独立が不可能な訳ではありません。たしかに、平成の市町村合併の結果として成立した市町村では、まだ分離独立または分割の例がありません。しかし、今までの歴史を振り返ると、分離独立または分割の例は意外に多いのです。たとえば、東京都練馬区は、第二次世界大戦後に板橋区から独立して成立しています。また、現在の逗子市は、やはり戦後に横須賀市から分離しており、座間市もやはり戦後に相模原市(当時は相模原町)から分離しています。この他、富山県にあった新湊市(現在は射水市の一部)は高岡市から分離していますし、山口県にあった小郡町は、戦後に山口市から分離独立し、平成の大合併によって再度山口市と合併しました。

 今のところ、平成の大合併の荒波から生まれた市町村で、分離独立の動きが明確となった例は、この旧泗水町しかありません。しかし、今後もいくつかのケースが、たとえ数が少ないとしても生ずるのではないでしょうか。


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