ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再び、大分市大字河原内

2013年01月27日 15時13分36秒 | 旅行記

 (以下は、2008年4月4日に「待合室」の第259回として掲載し、2011年3月30日に別室22として再掲載したものです。2013年1月27日に別室22を閉め、こちらに移動しました。明らかな誤字脱字を除き、一切修正しておりません。)

 先日、どういう理由であったかは覚えていませんが、大分バスのホームページを見ていました。自然に、かつて住んでいた場所を中心としてあれこれの内容を見てしまいます。

 4年前まで住んでいたのは国道10号線の宮崎南交差点のすぐそばで、大分バスの宮崎バス停から歩いて1分以内という場所です。やはり、自分が住んでいた所を中心にして路線図を見てしまうものですが、私が住んでいた頃と比べると、随分と路線が減ってしまったことがわかりました。とくに驚いたのは、大分駅付近のトキハ前から西寒多神社、美し野へ行くバス路線がなくなっていたことです。これは、元々西寒多神社までの路線でしたが、大分大学の裏のほうに美し野というニュータウンができ、延長したバス路線だったのでした。ただ、寒田のマルショクの交差点から先の道路の幅が狭く、本数も少ない路線ではありました。それにしても、延長して数年で廃止になるというのは、よほど採算が合わなかったのか、自家用車の普及の勢いが怒濤の如き勢いであったのか、ということなのでしょう。

 2004年12月、大分市内にある学校法人平松学園大分柔道整復士専門学校の非常勤講師として集中講義を行った時、宮崎交差点の東側にある、大分大学時代には常連として通っていた母家というレストランに行き、ホテルに戻ろうとして光吉入口バス停に立った時に、12月31日は17時台で運転を終了し、1月1日は10時から運転するということが時刻表に書かれていて、年末年始は終夜運転などが当たり前という首都圏の感覚からはかなり違和感を覚えたのでした。

 別の日に、やはりバスに乗って大南大橋の近くに行ったのですが、行きはともあれ帰りには困りました。ブックス豊後や壱番屋(どちらも、大分大学時代は何回も足を運んだものです)などがある交差点のそばにあるバス停の時刻表を見たら、2時間近くもバスを待たなければならないのです。大分市に住んでいた頃には自家用車で走り回っていただけに、不便さを強く感じました。「そうだ、橋を渡れば別のバス路線がある」と思い出し、大南大橋を渡って中竹中バス停に行ったら、さらに愕然としました。中竹中バス停にはトキハ前から河原内へ行くバスがやってくるのですが、これが1日に2本しかありません(私が住んでいた頃よりも削減されていました)。しかも、河原内からのバスはトキハ前まで行かず、白滝橋近くの辰口バス停が終点となっています。そして、土曜日と休日にはバスが来ないのです。

 1日2本しかないのでは、利用したくともできないというものですし、いつ廃止されてもおかしくありません。果たして、大分バスが路線の統廃合を行った際に、河原内までのバスは廃止されてしまいました。河原内は、中竹中からでもかなり離れた山奥のほうにある所ですが、陶芸関係の施設があり、河川敷を利用したプールなどもあり、というように、大分市民の憩いの場所として生かそうと思えばそれなりのことができる場所です。しかし、竹中中学校前バス停から先は過疎地としか言えないような場所でもありますから、バスの利用客が多いとは思えず、廃止はやむをえないことであったのかもしれません。

 バス路線が路線図から消えているのを見て、またいつか、河原内へ行きたいという願望が出てきています。そこで、今回は河原内を取り上げます。

 実は、このコーナーが始まったばかりの頃、第5回(2002年5月25日~6月1日)と第6回(2002年6月2日~6月7日)に「大分市大字河原内―懐かしさを誘う風景―」と題して、何枚かの写真を掲載しています。また、別室7として河原内の動画を掲載していました。そのため、今回は部分的に再掲載となります。

 上の写真は、河原内バス停からさらに弓立、黒岩へ向かう道路の途中で撮影したものです。「あの山の向こうに、一体何があるのだろう?」、「もしこの山々を歩き抜けると、どこへ行くのだろう?」。こう記すと「そんなことは地図を見ればわかる」と言われそうですし、実際にその通りなのですが、山が目の前にあると「本当にここから●●まで行くことができるのだろうか?」と疑いたくなることがあります。何度も、こうした森林の中にある細い道路に車を入れて走り回ったものです。いや、走り回るという言葉は相応しくないかもしれません。実際には普通自動車でも走行が困難な道路が少なくないのですから。

 撮影してから6年程が経とうとしていて、詳しい位置関係を思い出せませんが、1枚目の写真を撮影した場所から少し東側(竹中方面)に移動した所であったと記憶しています。

 この写真は、第5回で掲載したものです。せっかくですので、第5回の文章を再掲しておきましょう。

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 初夏。山の緑が美しい季節。もう少し経つと、高まる気温とともに葉の色彩も濃くなり、耳には山鳩や蝉などの鳴き声が心地よく響きます。静と動との見事な調和が、自然の中に実現しています。まさにこれからが、生命の力強い営みを感じさせてくれる時期です。

 人口43万人余りの大分市にも、このような自然が残されています。もしかしたら、見た目は美しくとも、実際には病んでいるのかもしれません。20世紀、我々人類は、思いのままに環境を破壊してきました。それは、自然が我慢し、受け入れてくれる範囲を超えていたことでしょう。そして、我々自身にも大きな代償として返ってきました。繁栄を得たかもしれませんが、それ以上に大切な何かを失いました。こうして自然に帰ると、現実に起こっているあらゆる事象が、実はそれほど大したことのない、余計なことばかりであることに気がつきます。我々は、真に本質的な事物を見失い、虚栄、虚飾の中に幽閉されているのです。

 2002年5月19日の午後、久しぶりに大字河原内に行きました。いや、私の心の中では「帰った」と表現するほうが妥当です。別に河原内地域で生まれ育った訳でもありませんし、都会の喧騒にも慣れ親しんでいます。しかし、或る種の懐かしさを感じるのです。人間の遺伝子に、緑に囲まれた山々で生活していた時の記憶が刻まれているのでしょうか。

 大字河原内は大分市内にあるのですが、大分駅周辺から20kmほど離れています。国道10号線を南下し、白滝橋手前の交差点を右に曲がって県道中判田犬飼線を走り続けます。最近できた竹中トンネルを越えてすぐの交差点を右に曲がり、県道622号線を直進すると大字河原内です。大分駅前からのバス路線もあるのですが、便数は少なく、車体も小型です。それでも離合ができない箇所があるほどに狭い道路を走っているのです。バスは河原内で終点となりますが、県道はさらに続き、弓立へ向かい、黒岩で県道41号線(大分大野線)と合流します。但し、そこまで行くと、自動車での通行は困難となります。また、この大字河原内字大津から分かれる細い道を進むと、本当にこんな所をダンプカーが走るのかと思うような場所に砕石工場があり、その先、黒仁田という集落へ進む道路があるのですが、さらに道幅が狭くなり、勾配もかなり急で(大げさかもしれませんが100‰くらいありそうです)、5ナンバーの車でも走行が困難なので、引き返しました。何しろ、5速マニュアルの車でギアを1に入れると車輪が空転し、2では坂を登るのにきついのです。オートマティック車では、軽自動車でないと走れないでしょう。

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 上の文章を書いてから約6年が経ちました。補足しておきますと、県道中判田犬飼線が631号、県道622号線が弓立上戸次線です。

 現在、このあたりはどのようになっているのでしょうか。バス路線が廃止されただけに、ほとんど変化がないのでしょうか。あるいは、民家が減っているのでしょうか。気になっています。

 段々畑というより、階段状の水田です。上のほうに民家があります。この辺りには平地がほとんどないので、このような水田になっています。既に農作業が行われていました(右の端に、農業用の機械が小さく写っています)。

 大分市で、このような水田が見られる所は、他にあったでしょうか。大分市のほぼ全域を自動車で走り回りましたが、よく覚えていません。

 

 大野川の支流、河原内川です。左側に、簡易舗装ではないかと思われる道路が写っています。よく覚えていないのですが、河原内バス停の先で、道路が二股に分かれ、また少し進むと合流する地点がありますので、おそらくその地点ではないでしょうか。あるいは、その先のほうだったでしょうか。

 ここから、写真で言えば奥のほうにも県道622号線が延びていて、弓立のほうへ向かうのですが、この奥のほうから先は自動車での通行が困難になります。

 それにしても、ここで生まれ育った訳でも何でもないのに、懐かしさを覚えるのは何故なのでしょうか。

 河原内川の水面です。先ほどの場所よりは少し東側、河原内川の河川敷プールに近い場所です。第6回に掲載したかもしれません(実は、何故か第6回の写真データが消滅しており、再現できないのです)。

 これも河原内川です。この川の幅は、短い距離でかなり変わります。もしかしたら、こちらのほうが河川敷プールに近いかもしれません。そこに駐車場があり、車を停めて、河川敷まで入って撮影した記憶があります。そして、山のほうに少し歩くと陶芸の里がありました。

 この辺りは、夏になると車も多くなります。家族連れなどが訪れる訳です。私がやってきたのは5月でしたので、周囲にほとんど人はいなかったのですが、それでも他に数台の車が停められていたはずです。また、県道622号線で、何回か離合していますが、地元の方が運転する車であったかもしれません。

 方角を変えまして、北のほうを撮影してみました。左側、山の途中にガードレールが見えます。そこに道路がある訳ですが、どういう道路であるかはわかりません。走ったことがないからです。黒仁田林道ではないはずなので、別の林道でしょうか。それとも大分市道でしょうか。この時は、走ってみようとも思わなかったのでした。当時、車の中には大分県の地図を入れていたのですが、その地図にも掲載されていない、あるいは、掲載されていても詳しいことがわからないような道路が、この周辺には多いのです。

 先に記したように、撮影地点に到達する前に、河原内字大津から分かれる細い道を進んだのですが、砕石工場から先はようやく5ナンバーの車が一台通ることができるほどの幅しかなく、しかも勾配がかなり急です。途中で引き返したのですが、簡易舗装で、しかも舗装部分にも大量の石が落ちており、舗装部分を外れるとすぐに大木や竹の幹があるような道路でしたので、ハンドルの切り返しにも苦労しました。方向転換に何分もかかったような記憶があります。そして、元の道に戻るのですが、急勾配の急カーブという難所が待ち受けています。ハンドルとブレーキペダルを慎重に操作し、エンジンブレーキを活用して走らなければならないので、訓練にはなりますが疲れます。大分県には、県道でもこうした道路がいくつかありますが、地図にはそうした情報が掲載されていませんので、御注意を。ちなみに、カーナヴィゲーションシステムではどうなのかについて、私は知りません。今も私の車にはこのシステムが付いておらず、全く利用したことがないのです。

 考えてみれば、大分時代は、時々、このような場所や道路を走っていました。その度に大変な思いをしました。当時のことですので(今もそうかもしれませんが)、このような場所では携帯電話など通じません。ガソリンスタンドも公衆電話も近くにありません。勿論、速度を出すことなどできません。いくら5ナンバーの車とはいえ、よくぞそのような道を走り回っていたものです。3ナンバーの車に乗っている現在では、険道などと言われるような県道を走る勇気がありません。

 詳しいことを思い出せないのですが、河川敷プールの近所に、こうした集落があったと記憶しています。違うかもしれません。見に行って確かめたいくらいなのですが、そのようなことをするのに時間的にも金銭的にも余裕がありません。しかし、いつかは再び訪れたいと思っています。バス路線もない現在ですので、日産のマーチ、トヨタのヴィッツなどのクラスの車を借りて、走り回るのです。横須賀から佐賀関までフェリー航路があるので、それを使ってもよいのですが、果たしてどのくらいの時間と費用がかかるでしょうか。

 大分県内の国道や県道を走っていると、脇道を進んで坂を登った所にこうした集落があるのをよくみかけます。大分市内では、河原内から竹中に戻って北のほうに走り、中判田駅付近から西のほうに出ると、やはりこのような集落があります。大分市でなければ、至る所にあると言ってもよいでしょう。

 一時期、このような所に住んでみたいと思っていたことがあります。周りにビルやマンションなどがないからです。建物は平屋でもいい、などと考えていました。ただ、通勤などは大変でしょう。買い物なども大変です。大分駅周辺などで酒席があったりすると、帰るのが一大事です。23時発の豊肥本線上り最終列車三重町行に乗り、竹中で降りるとしても、タクシーなど待っていないような無人駅から1時間くらい、暗い山道を歩かなければならないからです。タクシーであればかなり高額の料金を払わなければならないでしょう。それでも、休日だけでもこのような所で過ごすことができるとうれしいものではないでしょうか。考えてみれば、大分大学の周辺も、かつてはこのような場所だったはずです。

 先ほどの場所とほぼ同じ地点から、角度を変え、ふもとのほうを撮影してみました。民家の前にあるのは畑でしょうか。

 私が幼かった頃に読んだ百科辞典(子供向け)では、ニュータウンにある集合住宅が近代的で日当たりが良いという意味で取り上げられ、農村地帯にある旧家が前近代的で日当たりが悪いという意味で取り上げられていました。しかし、子供ながら、集合住宅の真四角の建物が並んでいる所のどこがよいのか、と疑問に思っていました。たとえ日当たりが多少悪くとも、庭があり、そこに木々が植わっているという家のほうが、はるかに住環境としては良いのではないかと思っていたのです。

 実際のところ、どこかのニュータウンを走っていて、建築年数が経過した集合住宅を見ると、老朽化ばかりが目立ちます。貫禄もありません。並んでいる所を見ると不気味さを感じることすらあります。その点、こうした場所にある民家の場合は違います。勿論、維持などは大変ですし、面倒な点が多いことは当然です。それでも、木々に囲まれた家屋のほうに魅力を感じます。育った環境によるのかもしれません。

 川崎市の高津区、宮前区、麻生区、横浜市の青葉区、緑区、都筑区などでも、一昔前まではこのような風景が当たり前のように見られました。今でも所々に残っていますが、随分と少なくなってしまいました。上の写真に近い風景が色濃く残っている場所と言えば、川崎市であれば麻生区早野、横浜市であれば青葉区寺家でしょうか。

 大分市を離れて4年が経ちます。また訪れてみたいと思っているのですが、とくに足を運んでみたい場所は、郊外型大規模ショッピングセンターがあるような場所でもなく、観光地のような場所でもなく、河原内、黒仁田林道、天面山、といったような場所なのです。再訪の時期はいつになるでしょうか。

 

〔追記〕

 上記のように、今回掲載した写真を撮影したのは2002年5月19日です。私が大分大学教育福祉科学部の助教授に昇格したばかりの頃、ということになります。それから9年が経とうとしています。私が河原内を最後に訪れたのがいつのことであったか、よく覚えていないのですが、おそらく8年の時間は経過しているはずです。どのように変わっているのか、あるいは変わっていないのか、見たいという気持ちはあります。

 8年、9年という時間は、やはり長いものです。その間、私は、2004年に大分大学教育福祉科学部を離れて大東文化大学法学部に移り、4年前に助教授から教授に昇格しました。その他、私的な事柄を含め、私の環境は大きく変わりました。おそらく、私自身も変わったことでしょう。2011年4月で、大分市を離れて7年が経ったことになります。


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