ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

大分県内の、鉄道敷設法別表に掲載された予定路線の話 その顛末(3)

2013年02月17日 02時02分33秒 | 社会・経済

 このシリーズの「(1)」と「(2)」では大分交通の鉄道路線として部分的に開業した区間を取り上げました。いずれも、大分市を基準として県の北側の路線となります。

 鉄道敷設法別表には大分県南部(厳密に言えば中部かもしれません)にも予定線をあげています。第117号路線と第118号路線です。この両者にも共通点があります。いずれも国鉄バス(後のJRバス)として営業したという点です。なお、第117号路線は私鉄路線のルートでもあります。

 (3)「百十七 大分県幸崎ヨリ佐賀関ニ至ル鉄道」

 幸崎は日豊本線の駅で、現在は大分市内の駅となっていますが、2005年の合併までは北海部郡佐賀関町にある唯一の駅でした。ちなみに、地名は神崎となっています(読み方は同じです)。また、佐賀関と言えば、今でこそ関サバや関アジで有名ですが、ここには鉱山があり、銅の精錬所のほうが有名でした。現在も精練所があり、高い煙突を見ることができます。

 第117号路線は、まさにその精練所のために計画された路線と考えてよいでしょう。陸上の貨物輸送と言えば鉄道しか考えられなかった時代に、銅、硫酸(精錬の過程で産出される)などを効率よく運搬する路線が必要であったことは否定できません。

 1930年代には第117号路線と同じ区間の国鉄バス(当時は鉄道省営自動車)、佐賀関線が開業しており、旅客運送を担っていましたが、国有鉄道は建設されていません。昭和初期の大不況から、日本をめぐる状況は深刻化し、ついに戦争に至ります。戦時中に、幸崎駅から佐賀関の精錬所(佐賀関の場合は「製錬所」と記すことが多い)までの鉄道路線が建設されることとなりました。主体は国ではなく、日本鉱業(現在はJX日鉱日石金属)でした。よほど建設が急がれたのか、地形の関係なのかはわかりませんが、国鉄の規格ではなく、軽便鉄道の規格でした。つまり、線路の幅は1067ミリメートルではなく762ミリメートルで、これは九州で数少ない例です(914ミリメートルが多かったのでした)。一説には長崎県の松浦線が改軌されたことで不要となった設備を流用したといいます。しかし、戦時中に開業することはできず、1946年に専用鉄道として開業します。

 1948年に地方鉄道となり、地元の旅客輸送にも活躍したようですが、1963年に廃止されてしまいました。理由はよくわからないのですが、国鉄バス佐賀関線などが営業していたという事情も大きいのかもしれません。また、貨物輸送の面でも、762ミリメートルの鉄道では輸送力が小さい上に、1067ミリメートルの国鉄線に貨車を直通させることはできず、幸崎駅で貨物の積み替えを余儀なくされますので、その手間の問題もあったことでしょう。なお、日本鉱業佐賀関鉄道は非電化路線で、ディーゼルカーなどが走っていました。また、ルートは現在の国道197号線に沿うような形を取っていました。幸崎駅を始め、痕跡が多く残っていましたが、徐々に減りつつあります。

 私は、大分市に住んでいた時、何度か幸崎駅を訪れています。JRの幸崎駅の北側に佐賀関鉄道の幸崎駅の跡がありました。閉鎖されており、立ち入ることはできませんが、建物などはなく、ただ広い空間が残っていたのみです。

 そこから先は愛車を運転したので、鉄道の痕跡をたどることはできなかったのですが、国道197号線から所々で見ることができました。しばらく走ると、精練所の手前にあった佐賀関駅に着きます。

 上の写真は、日本鉱業佐賀関鉄道の佐賀関駅の駅舎で、2003年9月14日に撮影しました。鉄道廃止後はバスターミナルとなりました。以下、「待合室」の第71回「佐賀関駅」(2003年10月18日~10月24日掲載)から一部を引用しつつ、記していきます。

 鉄道の廃止後、駅がバスターミナルとして利用される例は少なくありません。この佐賀関駅も、国鉄バス→JR九州バスの駅として利用されました。この日の時点で、大分県には、私の知る限りでもう一箇所、バスの駅があります。JR九州バス臼三(きゅうさん)線(日豊本線臼杵駅~豊肥本線三重町駅)の途中地点、野津町(現在は臼杵市)にある野津駅です。臼三(きゅうさん)線については、後に取り上げることとしましょう。

 佐賀関駅の駅舎に入りました。屋根(天井)の部分はこうなっています。

 先程、国鉄バス佐賀関線が登場しました。この路線は、日豊本線の坂ノ市駅から幸崎駅に出て、それから佐賀関まで走っていました。また、坂ノ市駅からは、大分市内の延命寺までの路線(延命寺線)も通っていました。聞いた話によれば、以前は豊肥本線の中判田駅まで伸びていたそうです。坂ノ市~中判田は鉄道敷設法に登場しない区間ですが、何か別の理由があったのでしょう。

 しかし、……

 バスの時刻表が掲げられていますが、それを見てもJR九州佐賀関線が登場しません。そう言えば、坂ノ市駅付近から国道197号線を走っていて、JR九州バスのバス停標識が見当たらなかったのでした。その答えが、やはり佐賀関駅に示されています。

 2003年3月31日をもって、JR九州バス佐賀関線と延命寺線は廃止されたのです。延命寺線の場合は、大分東高校、佐野植物公園を通るとは言え、自動車の交通量自体も少ないような道路を通り、しかも、宮河内ハイランドの手前で止まるという中途半端な路線でした。佐賀関線の場合は、上の写真にあるように、大分バスが大分バス本社前(トキハ前。大分駅のそばにあるが、大分駅前とは別のバス停)までの路線を運行していましたので、坂ノ市駅までというのも中途半端でしたし、おそらく、大分バスよりも運行本数が少なかったのです。競争の結果、廃止されたと考えたほうがよさそうです。

 なお、2003年9月14日の時点において臼三線は運行されており、大分県内で唯一のJR九州バス路線でした。

 各地を走っていた国鉄(JR)バスも、路線縮小、さらには廃止という路線が多くなっています。もっとも、これは国鉄(JR)バスだけの話ではありません。長距離バスは、価格などの面で鉄道や飛行機などとの競争力を持ち、発展を続けていますが、地域路線の場合は、人口の減少や自家用車の普及などで苦しいところが多く、九州でも時折、地方自治体や住民との調整に関するニュースが流れます。

佐賀関町は、四国への玄関口でもあり、精錬所の町であるとともに、漁業の町でもあります。駅の中に、木製の船が保存されています。

 駅の裏側です。白い柵の奥側が舗装された道路になっていますが、かつて、ここに線路が通っていたのでしょう。ただ、そうだとすればホームがかなり低いように思えます。日本鉱業佐賀関鉄道線が現役だった頃の佐賀関駅の構造を示す写真が見当たらないのでよくわからないのですが、もう少しホームが高かったか、舗装の際に線路の部分を埋めたか、ともあれ手を入れたのでしょう。

 ここで第117号路線の話を終え、第118号路線に移りましょう。

 (4)「百十八 大分県臼杵ヨリ三重ニ至ル鉄道」

 このブログで、鉄道敷設法別表に掲げられた大分県内の予定線の話を記しました。最初が「旧国鉄宮原線の話」です。宮原線は第113号路線の一部として開業しました。

 次に「大分県内の、鉄道敷設法別表に掲載された予定路線の話 その顛末(1)」で、ここでは第115号路線の一部として大分交通耶馬溪線を取り上げています。

 続いて「大分県内の、鉄道敷設法別表に掲載された予定路線の話 その顛末(2)」で、ここでは第116号路線の一部として大分交通宇佐参宮線、および大分交通国東線を取り上げています。

 そして今回は第117号路線、および、これから取り上げる第118号路線です。

 こうしてみると、幾つかの点に気付きます。

 まず、5つの予定線のうち、国営鉄道として全面開通した路線は一つもありません。第117号路線は全面開通したと言ってよいかもしれませんが、私鉄としてでした。国営化もされていません。

 次に、実際に国営鉄道の路線として開業したのは第113号路線の一部、つまり宮原線のみです。また、この線は大分県内のみの路線ではなく、熊本県まで伸びていました。

 そして、第113号、第115号、第116号および第117号の各路線は、形こそ違えど一部の区間について実際に鉄道路線が営業していました。これに対し、第118号路線のみは、次の点で特徴があります。第一に、一度も、いかなる形によっても鉄道路線として開業していないこと、第二に、第113号と同様に実際には国営鉄道として着工されたにも関わらず、何故かバス路線に変更されたことです。

 第118号を読み返すと、日豊本線の臼杵駅から豊肥本線の三重町までの区間であることがわかります。先程記したJR九州バス臼三線と全く同じです。つまり、臼三線は鉄道線として着工されながらバス路線に変更されたのでした。この時点で第118号は死文化したとも言えます。死文化というだけなら他の路線も同じことですが、第118号の場合は時点がかなり早かったということでしょう。

 この臼三線のルートは、第113号および第115号と同じく、九州横断鉄道の一部を形成するものとなっていますが、存在意義に疑問が寄せられるかもしれません。九州を横断するというのであれば豊肥本線があり、熊本市と大分市を結んでいるからです。その路線の途中駅から、何故に大分県の県庁所在地でもない臼杵への路線を建設する必要があったのでしょうか。鉄道敷設法制定当時またはそれ以前には横断ルートが未定であったという説もありえますが、豊肥本線は1920年代に全通していますので、何らかの政治的な力などが働いたと考えるのが妥当なところでしょう。もっとも、大分県の地図を見ると、三重町駅から大分駅に出るよりも臼杵駅に出るほうが、ルートとしては自然に見えるという点もあります。また、臼杵港から四国は愛媛県の八幡浜までの航路があり、海上交通への連絡を考えれば、三重町から臼杵へ出るほうがよかったということも考えられます。農産物や鉱産物の運搬の点などもあったかもしれません。

 ともあれ、第118号路線は、当初、国営の軽便鉄道として建設されました。実際にどのような規格の路線が建設されようとしていたのかは不明ですが、国鉄の幹線からするとかなり格の落ちるものが予定されていたのでしょう。

 現在、大分県は臼杵市から豊後大野市を経由して竹田市まで、国道502号線が通っています。実は、この道路の臼杵市から豊後大野市までの区間こそが、第118号路線のために着工された部分です。私が車を運転して走った時にはそれなりに走りやすかったのですが、軽便鉄道規格をそのまま道路化したような路線であったためか、かつては悪路も多かったようです。それで貨物運輸も行われていたという事実にも驚かされます。バス路線というと旅客輸送しか思い浮ばないものですが、国鉄バスの場合は貨物運輸も行っていました。なお、臼三線の貨物運輸は1979年に廃止されています。

 国鉄の解体および分割民営化により、臼三線もJR九州のバス路線となります。上記の佐賀関線および延命寺線が廃止されてからは大分県内唯一のJRのバス路線として残りました。私も、何度か赤いバスを見ていますし、途中のバス駅、野津駅も見ています。しかし、一度も乗ったことはありません。2007年3月31日を最後として運行は終了となり、大分県内のJRバス路線が消滅しました。なお、翌日(2007年4月1日)から大分バスの子会社である臼津交通と大野竹田バスが運行しています。


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