小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

「上野先生、勝手に死なれちゃ困ります 僕らの介護不安に答えてください」を読んで その4

2012-05-23 08:53:32 | 弱さへの思考
介護保険は、家族介護支援が政策の目的である、と。

同時に、準市場のもとにある、というのも事実である。医療も介護も、どちらも。
公定価格のもとにあって、価格メカニズムが働かない市場なので、
藪医者にかかろうが、とてもいいお医者様にかかろうが、医療費は同じ。

介護も同様である。
いい事業所・いいヘルパーさんにめぐり合ってサービスを受けても、利用者を放置する事業所や劣悪なヘルパーと遭遇しても、介護保険1割負担は変わらない。

そうなると、愛情と良心の呵責から、
家族がどのくらい努力して、
ケアの(医療の)質を見抜くことができるかにかかってくる。
選択肢は、ある(ない地域もあるけれど)。
それを比較して「いい・わるい」「合う・合わない」を選択する際、家族の意見は重要なものとなる。


つまり介護保険導入以降、「主体は誰であるか?」という基本的な問いの答えは、変わった。
現実的直接的介護をする場合、その主体は変わらないのだが、経済的側面からは、明らかに変わったのだ。


家族は介護をするときに、タブーがある。
○仕事を辞める→してはいけません。経済的困窮に陥ります。自己実現?している場合は、よりいっそうです。
○同居する→上と同上、24時間265日介護になってしまいます。
○親の意思を無視→子どもは意思を知る必要があり、それを尊重する必要がある。そして1人っ子の場合、この意思決定の重圧を負担分散できない。

介護保険があっても、家族・親族の介護はなくならない。
介護保険における家族・親族の重要な役割は「責任と意思決定」調整。
現実的に介助しなくても、これは逃れられない。

できる範囲で無理をしないこと。そして、意思決定の尊重だけは、必ず参加すること。これが家族の役割です。


こんな制度を支持したのは親を介護する世代の有権者で、当時、中産階級の家族には、何の支援もなかったのが背景なのです。当事者が支持したわけではない。

でも、あれから干支は一回り。
そろそろ家族の介護負担軽減政策という考え方から、
「おひとりさま」の老後を支える制度的な保障に変えよう!という政策を打つ出す政治家も出るかもしれない。時代は変わった。

ともかくも当面、ストックがある団塊世代の高齢化=介護は乗り越えられるだろう。
しかしその子どもたちがパラサイトして、かつ、虐待に走ることも考えられる。すると子どもは「リスク」になってしまう。
子どもがいないほうが、主体で当事者である高齢者の命と健康への安全保障ができる時代になっているのも現実ですものね。

ということで、考えると、空洞化する危険をはらんでいる介護保険なのです。


そんな中、私たちケアマネなひとのできることと言えば、
選択肢を見せるということ。
仕組みを解明して、実はこの選択肢があるんですよって見せること。
つまり、からくりと選択肢を示す。
その選択肢にかつて存在しなかった新しい選択肢を増やし続けることが、情報生産者としてのやるべきことである。

研究者も同様で、現実のデータ精査にうつつをぬかしていてはならない。いるんだよなぁ、ただデータだけかき集めているバカな教授とか…


「うざい・キモイ・ムカつく」という気持ちがあったのならば、そこから何かを変えていくのが、「運動」や「変化」の萌芽である。

何度も言うけれど、

人は1人では幸せにはなれない。
自分1人では成立しえない「幸せ」であることを持って、

さぁ、今日も無事に生きていきましょうかね。

次回は、「不安」についてまとめて。それで最終回です。