第一次世界大戦停戦を記念した式典は何かとってもギクシャクしたものだったように見える。現在が置かれたギクシャクがそのまま出て来たみたいなところが随所に見えた。
それは後でもう少し考えてから何か書こうと思うが、一方、本邦にては笑うべきか、嘆くべきわからない珍事が起きていた。
百田が書いた『日本国紀』に、男系について、「つまり父親が天皇である」という一文があったそうだ。
とっさに思ったのは、光格天皇の立場はどうなるんだろう、ということ。その他にも事例はあるが、光格天皇は古代じゃなくて江戸時代後期の天皇なのでより一層現在の皇室に近いという言い方もできるし、あるいは、より一層直系的である、変則的でないと見えるその起点となる天皇。
この天皇は父子相続でないどころか、現在の民法なら親族ですらない繋がり方をしている。
前に書いた室町時代の「満城の紅綠誰が為にか肥ゆ」の詩で名高い後花園天皇も相当に苦しい繋がり方の天皇。
「満城の紅綠誰が為にか肥ゆ」
ぶっちゃけていえば、天皇を輩出するファミリーは別に万世一系を旨としてここまで来たというわけではないだろうと中世史の先生たちが言っていたりするのは、実にまったく正しいと私は思ってる。万世一系を旨としたら都合がよさそうだから近代になってそんなことを言っているだけで、本質的には、単に、大家族的な意味で家が存続していただけでしょう。その途中に葬式も出せないほど困窮していた時代もあるから財産の継承には失敗しているが、なんとか繋いだ、みたいな。
したがって、百田氏の記述は間違っている。そして、間違っているだけで済むのは現在私たちは1947年日本国憲法下にあるから。
率直にいって、明治憲法下の、特にこのへんの日本会議系が大好きな1930年代あたりの国会だったら、直ちに不忠であるとして大騒ぎになって、今上帝を貶めるのかとかいう話になって、日本会議と現政権が近しいという点から、この内閣は陛下に弓引くものである云々カンヌンから、夕方には総辞職してても不思議でない。あははは。
しかも、百田とかいう別に歴史家でもなければ、研究者でもない、尊敬を集める人物でもない、そして重要なことには国(天皇)が頼んだわけでもない男が、「日本国紀」を書いて大量に配布するに及んでは、識者は不敬である、不敬であると泡を吹き、新しい秩序を建てようというのか、すなわち国体を変革することを目的として結社したる者ではないのかと日本会議に治安維持法の適用が検討されたとしても不思議ではない。ああ、おもしろい。
■ マッカーサーでさえできなかったことをやっている
で、思うに、日本会議という集団は、ある意味、マッカーサーでさえできなかったことをやっていると言えると思う。彼らは、天皇に対する権威をこれでもかと地に引きずり降ろしている。
今般の、男系理解のインチキさと、勝手に「国紀」を書いちゃう自由さもすごいし、教育勅語を子どもに楽しく歌わせちゃうというのも相当に「反国体」的だ。
勅語ですよ、勅語! 明治維新も偽の詔勅を使ったから、似たもの同士ではあるんでしょうが。
この間の、聖徳太子は民主主義みたいな言も、和を以て貴しとなす、のすぐ先には「承詔必謹」があるわけで、これこそ大日本帝国の軍人たちを規律していた何かだろう。つまり、聖徳太子の十七条の憲法は、大日本帝国下の理解では、軽軽に、民主主義などという語と並べてはいけないアイテムだと思う。
天皇に関するものは既に歴史の中のモノであり概念なんだから、遠慮なく書いたり批判したりすべきだと頭ではわかっていても、多くの日本人は、何かしら躊躇して、あるいはそこにある秩序への漠然とした敬慕の故に、なんとなく軽く頭を下げて通り過ぎる的に対処してきた。
この態度が、よく言えば日本人の慎み深さをもたらし、悪くいえば上には逆らわない異常な従順をもたらす一つの原因だったのではないかとも思う(これがすべてではない。江戸時代までの統治の方法からもたらされた圧迫的な要因も多々あると思う)。
日本会議は、大笑いのうちにこれらをサブカル化し、地べたに下ろしてる。
■ 考えがない変革者
前にも、安倍政権の周辺はボルシェビキみたいだと書いたことがあるし、2014年の安倍の行動はクーデターであると解釈可能だとも思ってる。
そういえば、明治維新もやばいことばっかりだったが、しかし、日本会議政権はボルシェビキより思想がない分、広がりもないだろうし、求心力もないが、破壊力はあるという意味で困った人たちだとも言えそう。
ボルシェビズムは、ロシアというよりヨーロッパで半世紀ぐらい揉んだ、大資本がこねくり回す社会じゃダメだろ、といういわゆる労働運動の盛り上がりと、どうも大資本家は戦争をツールにしてる、これは困ったことだという、後で考えれば反ファシズムとまとめられるような要素を背景にして、それに対するアンチのムーブメントに乗って行われた。別の言い方をすれば、理想主義というべきなんだろうが、なんせ、方向性が見えた。
しかし、日本会議的な人たちにはidea(理想、考え)がない。ビジョンがない。
あるのは、ひたすらサブカル化され、戯画化され、したがって劣化した日本像だ。
これって、日本の原住民(私たちだが)としては、貶められていると感じるべき事態のようでもあり、しかし、考えようによってはクラシックな人間たちだけでは振りほどけなかったものを振りほどいているという考えも成り立つ。
どうしたものか困惑させられる、と考える私は多分にクラシックな人間なのかもしれない。
■ 対処法
私は、何度も書いてますが、日本には愛着がありますが大日本帝国的日本には期待度が小さいので、その限りにおいてはそれほど動揺することもないのだが、いやしかし、激動の時代だわな、などとも思う。
6~10世紀をひとくくりにして、その次の中世をもっと詳しくなっておいて、新しい、実証ベースの、ありていに言えば身もふたもない日本史に向けた取り組みに参加しよう、みたいな感じで過ごしますかね。
■ オマケ
ハイライト部分しか読んでないんだけど、著者から言って、多分詰めの甘い本だろうと思うが(失礼ですが)、しかし、方向性としてカンがいいと思う。
エセ保守が日本を滅ぼす | |
適菜 収,山崎 行太郎 | |
ただ、日本は私がいる限り滅びません(笑)。日本人と自己規定する人々が暮らすところが日本なんですから。ただ、現在の変則大日本帝国的な国体は滅びるかもしれない。その後に訪れるのは日本というより準州日本かもしれないが。
天皇機関説批判運動みたいな展開ですね。