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1945年8月ソ連軍満洲侵攻作戦 by 駐日ロシア大使館

2020-09-02 19:34:23 | アジア情勢複雑怪奇

1945年9月2日は日本が連合国に降伏した日。

きっと何かニュースがあるかなと思うけど、その前に、もう3週間も前の話だけど、今年の8月10日に、在日ロシア大使館の人が8月のソ連軍満洲侵攻作戦についてサマリーをアップしていたのでそれを記録したい。

 

 

 

 

 

これはもう、日本では100年たとうが200年たとうが、どういう経緯だったのかを語る人はほとんど出てくる可能性はないので、ロシアが自分で言って最低でも、立場を明らかにし、可能なら議論の足しにしようという考えでしょうね。

内容については、日本以外のところで通説として受け入れられている穏当なものだと思う。このへんで私も書いたことがある。

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

 

この件で、ロシア以外のところで最も頼りにされているのはこの1冊であろうと思う。

アメリカ陸軍指揮幕僚大学を出た軍事史家デビット・グランツさんによる書物。

The Soviet Strategic Offensive in Manchuria 1945:"August Storm"(1945年満洲におけるソビエトの戦略的攻撃:8月の嵐)

 

大使館さんは「ソ連軍の猛攻により日本人は追い詰められ、日本軍の部隊は防戦を余儀なくされ、反撃に転じることはできませんでした 」とかいう穏当な言い方をしたけど、実際にはもっと盛大に負けている。

前にも紹介したけど、著者グランツさんによる関東軍司令部に対する講評はこのようなもの。

関東軍は1941年のものではなくなっていたが、それでも多くの評者がいうほど効果がないというものではなかった。停戦の噂もあっただろうし、実際降伏したわけだからそれは影響しただろう。しかし大部分の損害はそれ以前に起きている。

日本の司令部はソ連の行動に対し、自信過剰、自己満足、混乱、ペシミズムのいずれから来るにしてもぞんざいに優柔不断に対応した。ソビエトに対する日本の自信過剰、自己満足は、満洲侵攻の前から、何年も、あるいは何十年も続いていた。

1939年のノモンハンの敗北は日本の司令官たちを驚かせたが、もっと驚くべきことには、そこから彼らはほとんど何も学んでいなかったことだ

おそらく、ソビエトが1939年と1940年にフィンランドで負けたこと、1941年にドイツに負けていたことが、日本の自己満足と自信過剰をよみがえらせたのだろう。

対戦車兵器もないし、機械化もされていない、ソビエトの中戦車T-34に匹敵するようなものもない。関東軍の装備は1939年とたいして変わりがなかった。最低でも、この準備不足は、自己満足と自信過剰を表す尺度だっただろう。

日本の対ソ戦略は、1939年の経験からもう一つ学びそこなっているか、無視した。それは、ソビエトは不可能に見えるようなことをやろうとする強い傾向があるということだ。モンゴル東部の荒れ地を満洲への大規模侵攻のための足場として使ったことがその例だ。(注:西正面の侵攻の場所の選定のこと)

日本は、それが自己満足からなのか自信過剰なのかはともかく、ソビエトを過小評価するという伝統的な傾向を示した。この過小評価が関東軍の運命を決した。理由はどうあれ、日本の司令官は自分の軍を台無しにした。上層部は混乱し、方面軍と軍令は矛盾し、結果的に多くのユニットが戦闘から離れ、他は使いつくされてしまった。

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

 

で、この作戦により、朝鮮北部、満洲から日本軍が排除された。これをロシアと北朝鮮は「朝鮮の解放」と呼ぶわけだが、日本、韓国はソ連によって日本軍が居座っていた満洲、朝鮮から追い出されたという事象を無視する。したがって、日本と韓国は、朝鮮の独立について根拠の不確かなことを言うしかなくなっているのが現状。

朝鮮の解放と朝鮮戦争レジーム

 

北朝鮮は冷戦後半はソ連と反目していたように見えるので、何を言っていたか私はよく知らないのだが、現在は、この「朝鮮の解放」のためになくなったソ連軍兵士に敬意を払っている。

北朝鮮:朝鮮の解放のために戦ったソ連を語る

 

中国は、冷戦中期から中国がアメリカと組んでムジャヒディーン支援組になっていたので、ソ連に悪意をもちまくりだったわけだけど、最近になって、習近平政権は2015年にモスクワのパレードに行った頃からソ連が果たした役割を見直してる。

再び歴史的なモメントを迎えた中露 by 習

 

いずれにしても、ナチスドイツと大日本帝国は同盟国として、東西からソ連を挟み撃ちしていたが、最終的に負けた。ここを見ないでおこうというのは、日本国内でだけ通じる了解事項でしかない。

いい加減、極東軍事裁判の中身を見直したらいいと思う。日本はこれを受け入れて、そして独立したわけですから。

東西挟み撃ち体制が見たくなかったらしい

 

■ オマケ

このtweetについてる嵐のような馬鹿コメントを見るにつけ、陸でソ連に、海でアメリカに負けたという単純極まりないことを捏造しまくっていい加減に教えてきたツケはデカすぎる。

でもって、これらのtweetには、私の祖父はシベリアに抑留されたんですよ、とかいうコメントが載りまくってるけど、本当の子孫なのかどうかは不明。
 
で、いずれにしてもシベリア抑留について言を左右にしていたのはむしろ日本政府の方だろうというのが、昭和の時代を生きのびた多くのじいさん、ばあさんの戦後の印象ではなかろうか。
 
2015年に、日本が、日本軍捕虜に関する文書をユネスコの世界遺産に登録しようと画策した時のスプートニクの記事はなかなかきわどいことを言っていた。
 
ロシア人専門家:ソ連における日本軍捕虜に関する問題は、ユネスコの管轄外
https://jp.sputniknews.com/opinion/201511101147545/
 
「日本の将軍たちが、日本兵を中国からソ連に移送することを依頼した文書が存在している。ソ連への譲歩案には、『労働力が賠償として提供される可能性がある』と記されている。この文書を公表した米国の歴史学者ハーバート・ビックス氏は、ソ連経済復興のために日本軍捕虜を労働力として使用するために彼らを抑留するというアイデアは、モスクワではなく、天皇の側近の間で生まれたということになる、と執筆している。しかし日本では、この事を知る人はほとんど誰もいない」。
 
ハーバート・ピックス氏はこの本で名高い。どんな感じかは wiki のこの人の項のとっちらかりぶりでもわかるかも。
 

 


 


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5 コメント

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Unknown (かつまた)
2020-09-02 22:22:56
戦争の事は何も知らない世代だけど、勝ち負けだけを考えると、負け犬の遠吠え的に、負けた事を受けいれられない気持ちがどこかにあるように思う。
当時の「鬼畜米英」ってのはなかなか的を得た表現だったのかもしれないけど、ハメられたのか?欲をかいたのか?戦争に突入して多くの人が亡くなったり悲惨な目にあった。
広島と長崎に原爆も落とされちゃって、もうソロソロやめとけよ!ってな感じでソ連に蹴散らされてやっと打ち止めになったってわけですかねぇ…
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陸のノモンハン海のミッドウェイで敗戦確定! (ローレライ)
2020-09-03 06:07:22
1939時点で陸は敗戦確定していたがソ連は日本処断を先延ばししていた日本海軍の壊滅をじっくり待ってから日本処断をした!
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陸のノモンハンで大敗して海に向かった日本軍! (ローレライ)
2020-09-03 13:47:14
陸のノモンハンで大敗して海に向かった日本軍の思考はアメリカに読まれてあ、だからソ連に日本軍の介錯役を任した!
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樺太残留を望んだものもいる (И.Симомура)
2020-09-04 13:41:01
永らく閉鎖都市だったサハリンが観光に開放され、北海道の小樽港ーホルムスク(旧真岡)港を往復する第一船で、初めてサハリンを訪問した。落合(現ドーリンスク)出身のNさんの墓参の手伝いだった。彼女は接収された実家に越してきたロシア人家族とともに昭和22年の最終引き揚げまで仲良く暮らしたという。本土には濃い身寄りもなく、医者になりたかったのでロシアの学校に入ることを考え、引き揚げを統括していた日本人に、自分の計画を打ち明けたそうだ。すると彼は、樺太残留は愛国的ではない、と脅したという。引き揚げの晩は、奥さんのニーナ、長女のマルーシャに挟まれて、泣きながら眠ったそうだ。函館に上陸して持ち物検査を受け、ニーナさんが秘かにネルの下穿きに縫い込んだ、帝国金貨が見つかり領置された。あるとき新聞に、領置物件が大蔵省から返還されるという記事を読んで、領収切手を探したが見つからなかった。国家とはどこまでも嫉妬深いものだと思ったそうだ。港ではロシア人一家全員が泣いてくれた。乗船直前まで残ろうか残ろうかと煩悶した。外地引き揚げ者の本土での生活は惨めなものだった。ただ、子供を殺してきたり、遺棄してきたものもいた、満蒙引き揚げ者に対する嘲り蔑視は、樺太引き揚げ者は受けなかった。友人には恥ずかしいことまでして、生活したものもいた。自分は幸い看護学校を卒業し、中学校の養護教諭となった。退職後はロシア旅行を楽しむために”先生(私のこと)”からロシア語を習い始めた…。ドーリンスクの墓地は手入れがゆきとどいていました。鉄道駅の路地では残留した朝鮮系ロシア人が魚介類、野菜類を商っており、私たちは日本語で会話できました。ニーナさん一家に会いたくて、実家に行ったのですが、彼らではなく、二家族が混住しており、嘗ての材木商の屋敷は荒れ放題。それを見て、Nさんはロシア語で、”この家は自分の持ち家だった、ひとから戴いたものは大事に使いなさい”と諭していた。引き揚げ者の会があり、そこでは自分も残留を考えたと語るものもいたそうだ。ロシア人とソ連に対する悪宣伝は今も変わりませんね。
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Unknown (にゃんこ)
2020-09-05 08:52:40
シベリア抑留については、日本の上層部が、兵隊たちが日本に帰ってくることを恐れていたと思う。
シベリア送りは、渡りに船だった。
それにしても、鳩山一郎さんが努力しなければ、抑留者はどうなっていたのでしょうね。そのまま見捨てられたのでしょうか?
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