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歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

いきなり夏

2021年07月21日 | 映画
関東に梅雨明け宣言が出た次の日から、灼熱。

なんて色気がないんだ。

スイッチをぱちっと押して季節が切り替わったかのような、そっけない感じ。

2013年にオリンピック招致が決まった時から懸念されていた日本の夏の暑さは、

ここ8年でさらに深刻なものとなっている。

私の中で未来というのは決まってブレードランナー的なサイバーパンクの世界か、

Dr.STONEのような森に覆われた世界、あるいは『A.I』みたいに海に沈む世界だったけれど、

最近思うのは全部砂漠になってしまうんじゃないかということ。

地球温暖化がここまで深刻だとは、知らなかった。

ある一定層には周知の事実として共有されている常識だ。

最近読んだSF小説でもやはり未来は砂漠化していた。



先日夏クールの『sonny boy』というアニメが始まった。

キャラクターデザイン江口寿史に主題歌は銀杏ボーイズ。

今の3、40代にとって青春ど真ん中の組み合わせ。

しかも監督は『ワンパンマン』第1期の夏目慎吾監督。

第1話をみたが文学的なSFアニメという印象ですごく好きな感じだ。

最後に銀杏ボーイズの『少年少女』がかかるとみぞおちのあたりがぎゅーっとしまる。

その哀愁はありもしない夏の思い出をかき集める。





暑いのは嫌だけど夏は好きだ。

セミの鳴き声が心のふるさとに潤いを与える。

どこ由来なのかわからない、ありもしない夏の思い出。

でもそれは確かにあるんだな。

ヤクザと家族 The Family

2021年05月26日 | 映画
TBSラジオの「東京ポッド許可局」でこの映画の話をしていなかったらきっと観なかった。

あのおじさんたちは最高だ。



観てから10日も経ったのに、未だに余韻を引きずっている。

「面白かった」と手放しで賞賛できるような映画ではない。

苦しい、でも観てよかった。

おすすめです。

今Netflixで観れるので是非。

以下ネタバレあり。





『ヤクザと家族 The Family』

監督:藤井道人
脚本:藤井道人
製作:佐藤順子、角田道明、岡本圭三
製作総指揮:河村光庸
出演者:綾野剛、舘ひろし、尾野真千子、北村有起哉、市原隼人、磯村勇斗



「新聞記者」が日本アカデミー賞最優秀作品賞に輝いた藤井道人監督が、時代の中で排除されていくヤクザたちの姿を3つの時代の価値観で描いていくオリジナル作品。これが初共演となる綾野剛と舘ひろしが、父子の契りを結んだヤクザ役を演じた。1999 年、父親を覚せい剤で失った山本賢治は、柴咲組組長・柴崎博の危機を救う。その日暮らしの生活を送り、自暴自棄になっていた山本に柴崎は手を差し伸べ、2人は父子の契りを結ぶ。2005 年、短気ながら一本気な性格の山本は、ヤクザの世界で男を上げ、さまざまな出会いと別れの中で、自分の「家族」「ファミリー」を守るためにある決断をする。2019年、14年の出所を終えた山本が直面したのは、暴対法の影響でかつての隆盛の影もなくなった柴咲組の姿だった。(映画ドットコムより引用)



罪を犯した18、19歳を「特定少年」として厳罰化する改正少年法が先日成立した。

成人年齢が18歳に引き下げられることに整合性をもたせた形だ。

とても今っぽい。

龍谷大学教授の浜井浩一さんは少年法は再犯を防止するという意味においてうまくいっていたと言う。

厳罰化することで少年たちの更生の機会はは失われる可能性がある。

「犯罪者は裁かれるべきだ」

正しい、けど、彼らを取りこぼしたのは今の社会であり大人たちだ。

「自己責任」とか「自業自得」と声高に叫ぶ大人は、細い糸がどこかで自分に繋がっていることに気づいていない。

入管法改正案にしても、日本はとことん時代に逆行している。

これほど他者に対して厳しいのはなぜなんだろう。

片一方の理性が暴走している。

彼らもまた社会の被害者なのか。

そもそも時代は福祉的に成熟していくという考え自体が幻想にすぎないのかもしれない、と最近は思う。



ヤクザもチンピラも詐欺師もみんな「反社」でひとくくりにされる現代。

暴対法成立後、暴力団の徹底排除によって独自の社会を持つヤクザにも法律が通用するのだと知った。

かつて隆盛を誇ったヤクザは今どうしているのだろう、ふとそう考えることがある。

ヤクザ、ヤクザっていうけど実はその存在については映像の中でしか知らない。

この映画を観たとて、結局映画の中の話にすぎない。

「知らない」という残酷さが確実に私の中にある。

それでも、この映画が突きつける厳しさから目を背けてはいけないのだと思う。



この映画はイメージの肥大化したヤクザという存在を嫌という程一人の人間として描くことで、

誰もが心の奥に抱えて見ないふりをしている矛盾や不条理を浮き彫りにする。

折り合いのつかない倫理と感情の間を行き来させ困惑させるのだ。

善も悪も見失う迷宮だ。

答えを決めれば楽になれるかもしれないけど、この不毛な揺れに決着をつけてはいけないような気がする。



何と言ってもヤクザのありようが激変した2019年の物語が胸を打つ。

「家族」というキーワードが人々のつながりを強調する。

組員のほとんどいなくなった柴咲組、

女と子ども、

柴咲組をやめたかつての仲間、

ずっと通った食堂の女将と成長した息子。

つきまとう元ヤクザという看板に苦しめられ、切っても切れないつながりの中で人を傷つけ自分も傷つけられる。

「ヤクザ辞めても、人間として扱ってもらうには5年かかるんです。口座も、保険も、家も」

服役して法律的に罪を償ったとしても社会的制裁は免れない。



最後、最大の暴力でもって若者を守ったってのがね、もう心の中ぐちゃぐちゃ。

自分がどうなろうともヤクザの業を自分の代で終わらせようとしたのだろうか。

もしかしたらあのラストは一時代を築いたヤクザという存在への幕引きと鎮魂の意もあるのかもしれない。

ラストの翼の大人びた表情が印象的だった。

エンドロールとともに静かに流れはじめるmillennium paradeの『FAMILIA』が物語をそっと抱きしめる。

映画を観ているときは緊張感でこわばった心が『FAMILIA』によって少しずつほどかれていく。

涙もろい私だが、この曲がなって初めてほろり。

映画を観た後で、ぜひこの曲のMVを観て欲しい。

少しだけ救われた気持ちになるから。





綾野剛が思いの外良かった。

『ロンググッドバイ』以来のはまり役ではないかと。

19歳時の山本賢治があまりに美しくてびっくり。

俳優陣がみんな素晴らしかった〜。

久々の日本映画だったけど、捨てたもんじゃないかもね。

いや、最近日本映画ばっかだったわ。

花田先生は走っていた

2021年03月18日 | 映画
夕方ラジオを聴いていたらとある女性歌手のラブソングが流れてきた。

名前は知らないが、透き通った高い声が綺麗で印象的だった。

ふぁんら〜とマイナスイオンが部屋に充満していく。

なんでか居心地が悪くなったので唐突にブランキーの「胸がこわれそう」を流してみた。

最初のギターの入り方がもうね、かき乱される。

これぞ汚れなき純愛ソング。

マイナスイオンは出てこないけど、脳からアルファー波が出てくる感じ。



そんな風に始まったYouTubeサーフィンは、しばらくブランキーの好きな曲を巡回してから、

バースデーの「カレンダーガール」にたどり着いた。

これもおっさんが書いたラブソングだ。

ベンジーもチバさんもなんてロマンチストなんだろ。

本当詩人だよ。



そして久々にミッシェルの「世界の終わり」を聞いてみたら抜け出せなくなった。

ラストヘブンの「世界の終わりの」のアベさんの表情を見ると毎回胸が締め付けられる。

ミッシェルはやっぱり特別だった。

「ジプシーサンデー」を聞いている時に、ああこの歌すごく好きだったなとか思い出して、

なんだかとても懐かしい気分になって衝動的に『青い春』のDVDを引っ張り出してきて観た。

これがやっぱりすごい映画だった。





『青い春』

監督:豊田利晃
脚本:豊田利晃
出演者:松田龍平、新井浩文、高岡蒼佑、大柴裕介
音楽:上田ケンジ、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
公開年:2002



押井守は若さに価値があるなんてデマゴギーだと言っていた。

若さは愚かさなんだと。

この映画は若さの賛美なのかもしれないと思う。

大人になる一歩手前の、愚かさと儚さと美しさを惜しみなく描いている。

手からこぼれ落ちそうなほど溢れている。

「若いって素晴らしい」ではなく「若いって痛々しい」っていう無条件の賛美だ。



90年代後半から2000年代初頭の映像作品が持つ独特の切れ味をここ最近渇望していた。

亡きものとされた10年の先の新しいカルチャーが芽生える空気とでもいうのか。

静かなんだけど、すごいエネルギーを秘めていた。

当時半ば無自覚に享受していたカルチャーを自覚的に手にできていたらと思うことがあるけれど、

そこまでいくともうあれだよね、ほら、盲信。

知らないのに見えてないって何もわかってないってことになる。

断片的であることには代わりないけど。



それでも私は恐れつつ少し期待していた。

もうこの映画では感動できないのではないかと。

手っ取り早い成長の確認だ。

しかし私はちっとも成長していなかった。

ファルコンのKEEに笑い、木村のかっこよさに惚れ直し、雪男の儚さに感激し、

青木の優しさと痛々しさを悲しみ、九条の美しさと存在感に圧倒された。

結果的に成長してなくてよかったと思う。



エンディングの「ドロップ」がすごいんだ。

朝九条が登校すると校舎が真っ黒になっていてダンダンダンダンってアベさんのギターがなる。

我に帰ると校舎は戻っていて、屋上にいる青木が「ひとーつ!!」って叫ぶ。

ラストを察した九条が全速力で走り出す。

映画の中で描かれる初めての九条の本気だ。

チバさんの絞り出すようなしわがれた声と、切り取られた校舎と、叫ぶ青木と、走る九条。

ブッシャーーー(涙)。

目の端に映る走る花田先生。

花田先生、九条と一緒に走っとるやん、もーー。

ぐしゃぐしゃに泣いた。

なんだよ、昔より泣くじゃん自分。

青木はただ九条と対等の友達でいたかっただけなのにね。

前日、下校する九条に青木が屋上からスプレー缶を投げるのだが、

その時のカランッていう乾いた音と青木の表情がどうしようもなく切ない。

置いて行かれた犬みたいだ。

九条だって番長とかじゃなくただの友達でいたかっただけなんだろう。

純粋すぎる。



観終わった後びしょびしょの顔をぬぐいながら思ったのは、花田先生走ってたなぁということ。

花田先生も青木の叫び声で彼が何をするのかわかったんだなぁとしみじみした。

そういえば屋上のチキンレースを、花に水やりしながら見上げていた。

急激に変わっていく青木を心配していた。

人を殺した雪男が乗ったパトカーを一生懸命追いかけていた。

いい先生だな。



当時この冷めた不良像がセンセーショナルだったようだけど、

それから約20年が経ちもう不良という存在が原型を留めていないように思う。

冷めるの先のうぬぼれた諦観とでもいうのか。

悪いことの定義がもっと深刻化、複雑化してしまったような気がする。



時代を強く反映しつつ、普遍性を置いていってくれる尊き映画でした。

次見るのは40代入ってからかな。

おかしいのは誰ですか

2021年03月02日 | 映画
黒沢清監督の映画を3連続で観たらどうなるかという話だ。

思い立ってここ数日1日1本のペースで黒沢清の映画を観ている。

『CURE』、『回路』、『カリスマ』の3本だ。



『アカルイミライ』と『トウキョウソナタ』は好きだけど、

監督の本領とも言われるホラー作品には手を出していなかった。

どうしても『アカルイミライ』とホラーが結びつかない。

『アカルイミライ』が大事すぎて壊されたくなかったというのも大きい。



結論から言うと3日連続で黒沢清映画は観るもんじゃない。

頭がおかしくなる。

面白いからこそ変になりそうだ。

『CURE』『回路』を観た2日目から違和感が手触りを持ちはじめた。



その日はとても変な夢を観た。

夢とは往々にして変なものだけど、それにしても変だった。

輪郭の不明瞭な黒い靄に取り憑かれて、その靄から逃れようとするのだけどできない。

なぜならその黒い靄は私自身で、私だと思っている肉体の方がおまけだったのだから。

靄は攻撃的で発散されるエネルギーは外界に悪影響を与える。

「悪」とか「恐」とかとにかくよくなものを垂れ流していて、絶対的◯◯。

その肝心の空白が思い出せない。

一番良くないものをいい表す言葉だ。

ハリーポッターの「名前を言ってはいけないあの人」みたいなとても恐い言葉。

本当に「◯◯」が存在するのかはもうわからない。

自分が逃れようのない暗闇の中にいて絶望的なはずなんだけど、気持ちは妙に晴れている。

「ははははは」と滑舌よく高笑いしていたような、していないような、爽やかな気持ちだった。



そして今日『カリスマ』を観た。

ストーリーや「カリスマ」が何を暗喩しているかという話は一旦置いておく。

ここで注目したいのは登場人物たちだ。

みんなおかしい。

狂っている。

人物をストーリーから無理やり引き剥がしたからこうなったのか、なんなのか。

どこにも主観がない。

幽体離脱して空から眺めているような感覚に陥った。

誰にも心を預けられないのに、みんな自分に見えるような変な感覚だ。

多分3本連続で観たからだと思う。



人間ってなんだっけ。

私って誰だっけ。

まともってなんだっけ。

人間ははなから狂っていたんだ、そうだ、そうだ、そういえばそうだった。

「はははははははは」

私は笑いながらモノクロームの林の中を走っている。

葉は落ちて枯れた林が遠くまで見通せる。

枝に遮られた日の光がキラキラと目の端に移る。

私は木漏れ日落ちる両の掌をまじまじと見て、ああこれが人間なんだなって妙に納得した。



映画の途中で寝ていた。

夢で映画の続きを見ていたのだろうか。

軸を見失っているのに嫌じゃないのがなんだか気持ち悪い。

このふわふわした気持ちはなんだろう。

もう後戻りできないような気さえする。

おおげさかな。



『回路』はピンとこなかったけど、『CURE』と『カリスマ』はとても面白かった。

映像が美してくていつまででも見ていられる。

イメージしていたホラーとは違った。

そもそも『CURE』と『カリスマ』はホラーじゃないのか。

これは間違いなく『アカルイミライ』作った人だわ。

今『アカルイミライ』を観たら全く別の映画に見えるかもしれない。

それが楽しみでもあり、怖くもある。


いつもと反対から見た多摩湖。赤い満月ぼわわーん。

羅生門

2021年01月30日 | 映画
芥川龍之介はまず顔が好きで学生の頃よく読んだ。

国語の教科書に載っていた坊主頭に学生服の写真が特によかった。

読書家ではなかったけれど、文章が美しいと感じる土壌はあったらしい。

安易にも日本人で良かったなどと思ったものだ。

特に『鼻』が好きだったけれど、なぜ好きだったのかは思い出せない。

とにかく鼻の長い男の話だ。

『羅生門』は一番怖かった記憶がある。

たまに髪のまばらなやせ細った老婆を断片的に思い出したりする。



とある昼食時、

無性に90年代から00年代の若者映画を観たくなり、

Netflixやアマゾンプライムを漁っていたのだが適当なのが見当たらず、

なぜか黒澤明の『羅生門』でも観てみるかということになったのだ。

この「なぜか」の部分はミステリーなのだが深入りはやめておく。

前もなぜか横溝正史の『獄門島』を観ていたことがあったし、

厳つい和風の三文字に惹かれる習性でもあるのかもしれない。



映画『羅生門』は異様に面白かった。

でも髪の抜けた老婆は出てこなかった。

小説『羅生門』からこんなインズピレーションを受けたのかと驚いていたら、

原作に芥川龍之介『藪の中』とあったので納得。



世界の黒澤とか言われているけれど相対的な評価はよくわからない。

生きている時代も観てきた映画も違うわけでリアルタイムで観るのとは話が違う。

でも今改めて観ることで、現代とは違う映画が持つ空気や芸術性が衝撃的だった。

未だ観ていない人にはとてもおすすめ。





『羅生門』

監督:黒澤明
脚本:黒澤明、橋本忍
製作:箕浦甚吾
出演者:三船敏郎・森雅之、京マチ子、志村喬、千秋実
音楽:早坂文雄
撮影:宮川一夫



今回ばかりは運が悪かった。

つい去年の暮れまで国立映画アーカイブ主催の、

「公開70周年記念『羅生門』展」がやっていたらしい。

悔しいな〜。

「なぜこの映画が特別なのか」の理由を知りたかった。

せいぜい50年前くらいの映画だと思っていたから、1950年の映画と知って驚いた。

戦後だよ、下手したら歴史だよ。



Netflixで観たのだけど映像が綺麗でこれまた驚いた。

なんでもいろいろなところが協力して2008年に復元したのだとか。

俳優の表情がはっきり観て取れるのがありがたい。

70年前の俳優の迫力に圧倒される。



白黒映画はあまり見ないけれど、いいね。

もう少しわかりにくくなるのかと思っていたけれど、

カラー映画とは違う映像美とでもいうのか、美しい。

陰影で浮かび上がる巨大な羅生門のセットがまたいい。

黒々と鬱々とした門は最後まで異様な存在感を放っている。

作ったんだろうね、あっぱれ。



70年前の映画を表すのにアレだけど、モダンな映画だった。

芸術性が高いというのかな。

場面は羅生門、裁判らしき場、藪の中の攻防の3つしかない。

当事者たちが見たものを横に羅列していくだけと言えばただそれだけ。

同じような場面ばかりなのだ。

藪の中で多襄丸と真砂と金沢武弘があれこれ動き回っている。

しかしその中で繰り広げられる攻防が微妙に違うから面白い。



大岡越前みたいに役人の前で登場人物たちが自分の見たものを告白していくのだけど、

手前にいるらしき役人の声も映像もなく俳優が一人で画面を占領している姿は舞台のようでもだった。

多襄丸も真砂も金沢武弘を降ろしたイタコらしき女も仰々しい演技なのに、ワザとらしくない。

むしろ嫌という程生々しい。

そま売り役の志村喬さんもよかったな、一回見たら忘れない顔。

登場人物6人ともすごい存在感だった。

時代的なものなのか、『羅生門』という映画がそうさせたのか、個人の力なのか。

わからないことばかりだ。



すごく面白かったというより、異様に面白かった、という方が正確だ。

なんでこんなに心に残るのかまだ整理しきれていない。

人間の業が刺さるのか。

不条理に惹きつけられるのか。

あれはなんだったんだ?

皆誰が殺したのかという犯罪性よりも、自分の名誉を主張しているところがなんだか尋常じゃない。

なぜそんなに話がもつれるのか不思議でならない。

それでも破綻していないのは、私が人間の不合理さをどこかで確信しているからなのか。

全ては羅生門で話を聞いていた男の言葉「人間のやるこたぁわけがわからね」に帰着する気がする。



多襄丸と金沢武弘が戦う場面が衝撃だった。

絡まり縺れ合い醜い。

刀を携えた戦いの場であれほど格好悪いシーンは見たことがない。

それがどうしようもなく「人間」で、心がザワザワした。

隠しようのない「人間」という現実。

『その男、凶暴につき』でたけしが拳銃の持ち方一つで世界に衝撃を与えたみたいに、

これでもかというくらいのリアル。

時代で言ったら逆か。

現実的であるっていうのは人を傷つける。

そういえば誰かが芸術とは人を傷つけるものだと言っていたな。



2021年の今見ても衝撃的な映画だ。

もしかしたら知らない世界への扉かもしれない。

子供の頃観たけど、また『七人の侍』観てみようかな。

今なら面白さがわかるかもしれない。