ブログで何度か紹介したことのある「のぞみの里」のプリン石鹸。
私はキッチンではなるべく、合成の界面活性剤の使われた食器洗い洗剤(売ってる食器洗剤のほとんどですが)を使わないようにしています。
合成洗剤を使わないのには、理由があります。
私は元来、『自分』に対して超ワガママなようなのです。
自分が納得しないものをどうしても自分が使わなきゃいけない状況に置かれると、「やる気」そのものが持続できないという欠点が小さい頃からあるようなのです。
とくに苦手なのは、『誰かの思惑がうまく隠された怪しいもの』
誰だってそんなのは嫌に決まっていると思いますが、何となく大人になるにつれてそんなもんだよね、人生って、、、って諦めに入って鈍感になって騙されてしまうと思うのです。
なので、いつも気に入った環境になるように(自分に負担をかけないように)気に入ったものしか身の回りに置かなければ、気に入らない仕事は受けないというくらい、わりと徹底して自分の好きなことだけできるように配慮して、何とか自分に折り合いをつけて生活をしているわけですが、キッチンに関してもそのこだわりが炸裂しています。
キッチンが好きなので、本当は時間があればずっと一日中キッチンにいたいと思っていますが、如何せん、好きな仕事を思う存分にしているので、私は多分普通の女性よりも帰りの時間が遅く「手早さ」や「利便性」が追求されることもあります。
そこではたと思うのです。
女性が専業主婦だった時代に当たり前になされていた大事なことは、女性の社会進出を機に「利便性」が追及されていってそれに合わせた商品が開発されていった。
その商品は社会に認知されていき、女性がとても喜んだ。
その材料は石油から合成的に作るものなので、たくさん売れれば売れるほど、コストも自然に作られているものより安くなっていき、スーパーでは安売りで特売され、主婦は買いやすくなってきたし、「安くて」「便利」なのを買うのが当たり前だし「賢い」といわれるようになってきた。
私たちは、それが環境にどのくらい影響を与えるのか誰からも知らされずに、よかれと思って使っていた。知らない間にそれなしでは抜けられないような経済生活にはまってしまっていた。
「安くて」「便利」なものは追求されて、それは経済活動を支えている。
だけど私はその真実を知ってしまった。
この生活をこれからも続けていくのか、やめるか、働く女性にとっては考えたくない選択のひとつ。
今の豊かな生活に慣れきっている私たちに昔の不便さに戻れというのは酷なこと。
そこで多くの女性は中年に差し掛かったあたりから、環境問題推進派とそのまま利便性性追求型と分かれていって、その両者の溝は深く、かたや環境問題推進派はヒステリックにダメダメダメ!と経済活動全般にダメを出すようになってきて、一般の人は関心があったとしても敷居が高く宗教ぽくて入りにくい雰囲気。
これが以前の構図だったように私自身は考えています。
もっと自然に当たり前にできんのかね~?
と心ひそかに思っていつつも、利便性からなかなか抜けれなかった私。
でも、真実を知ってしまったのに、悪いことに拍車をかけるような行為を自らしてしまっている卑怯な自分に私はやっぱり耐えられなくなってしまいました。
こんなに小さい頃から頑強にワガママな私ですもの。
自分の中の一貫性に関する矛盾ははっきりいってストレスでさえあります。
そんなこと考えるくらいなら、使うのやめちゃえ!と思って、数年前から徐々にプリン石鹸に変えはじめて、最近ではこれなしではキッチンじゃないくらいに完全に私の中の市民権を得ています。
でも、プリン石鹸に対する格闘もありました。
やっぱり油汚れのキレが悪いのです。
一旦は落ちるものの、手や他のお皿に再付着するという悪循環。
こういうのが嫌で、昔のみなさんは界面活性剤の入った合成洗剤の登場に感動したのだと思うのですが、石鹸を使うということは、つまり時代を逆行します。
これは、しばらくすると原因がすぐにわかりました。
普通の合成洗剤を使っていたときの感覚そのままに、油ものをそのまま洗剤で分解しようという頭がすでに身に着いちゃっていて、何でもかんでも下処理せずにシンクに運んで洗っていた、という自分の今までの何の疑問も持たずにやってた一連のズボラさにはっとさせられました。
そうだよ!私ってバカ~!
食べ終わったお皿やフライパンは、先にヘラでゴミとか油をゴミ箱に捨ててから、さらに古い新聞とか街頭でもらったティッシュとかで油をぬぐってからシンクに置けばすでにキレイだからアクリルの毛糸のふきんだけでも良さそうじゃない?
食べ終わったお皿をぬぐう一手間のためには、作業スペースが必要になってきます。
いつも当たり前に置いたままにしていた洗ったものを入れる食器かごは、そこにあるべきではないような気がしてきました。
でも作業の合間に出るボウルやスパテラのようなちょっとしたものを水切りするスペースは必要。じゃあ、可動式のシンクに取り付けれるちょっとした細長いステンレスのカゴを取り付けたらどうだろう?
右利きだから右に右にと進行していく私の習慣には右側に取り付けるのは邪魔になるから左側に取り付けてみるのはどうだろう?
早速1000円くらいで可動式のシンクに取り付けるものを購入し、取り付けてみると、右側(今まで食器カゴを置いていた部分)に作業スペースも広くとれて、複雑な料理をするときに今まではスペースの確保が難しくて億劫に思っていたマンションの狭いキッチンでの洗ったり切ったりの作業もできるように。
考え方と行動を変えればできるものです。
マンションの狭いといわれるキッチン(たしかに狭いのですが)もこの通り!
この空いたスペースはユーティリティスペースです。
あるときはまな板を置くスペースになり、あるときはコンロに入らない鍋をしばらく置いておくスペースになり、お茶を注ぐスペースになり、またあるときは下にタオルを敷いて毎日の食器を洗ってふせておくスペースになりました。
すっきりとできるようになると自信もつくものです。
そうなのよ!このくらいすっきりしてるのが私は本来好きなのよ!
無ければいけないと思い込んでいたもの(この場合洗浄済みの食器のかご)を取り外す行為は、勇気がいるけれど今まで引っかかっていたことの全ての解決の糸口になったような気がします。
不思議なものでここまですっきりになると、いつもこの状態をキープしていたいという思いからこまめに拭き掃除をしたくなり、シンクやステンレスまわりはいつもピカピカに。
普段はたまにしか洗っていなかったガスレンジの五徳まで、食器洗いのついでに当たり前に洗うようになっていた自分の変化に我ながらびっくり。
下にタオルを敷いて洗った食器をふせたらすぐにクロスで拭いて食器棚にしまうよな習慣がつきました。
だっていつもすっきりさせたいんですもの。
そうすると、今度は実用に耐えれるようなクロスや、漂白に耐えれるような台ふきんがもっと必要に感じてきます。
そっか。昔のお母さん達はこんな理由でエコロジーを地で行っていたのだな。
モノが無いといくらでも工夫できるんだな、と、
いろんなことが一度にすんなりと腑に落ちたら、気分もたいそうすっきりして、私にとってはすごい収穫でした。
キッチン用の洗剤に納得がいかなかった(と思い込んでいた)私は、キッチン用の洗剤というきっかけがあったものの、結局は、利便性に慣れきっていて頭を全然使っていない自分に気がつき、そういう(流されている)自分が嫌いだと思いながら、行動してなかった自分に納得がいっていなくて、矛盾したキッチン生活を送っていた、ということがモヤモヤしていたのだなーとすっかり納得がいきました。
いつもキレイにしていたいのに、キレイにできないという理由を他のせいにしたかった自分。
納得できないままふてくされて過ごすのは、自分にワガママな自分の方向性と矛盾しているということに気付かせてくれたキッチン用洗剤。
なんとなく納得がいかないことは、自分の行動を変えなければ結局納得いくところには到達できないもので、やっぱり突き詰めて対峙していくものだな~と身近なことから思い知らされました。
私が今回このように感じたことは、私の問題であって、合成洗剤を使うのがいけないといっているわけではありません。
それは、自分の状況にあわせて自分が「納得して」取捨選択していくべきで、本来環境に悪いものを「納得して」選らばされているという社会の現状に問題があるように思っています。
例えば、洗剤に限らず、それは加工食品でも野菜でも。
本来私たちが健康で文化的な生活を送るために必要不可欠なもものとして、安心して選ぶべきものの一部に、安心して選べないものが混じっている。
そのことの方が多分問題です。
私達に安全でないものと安全なものを「納得して」選ばせようとしているその社会の経済のあり方に「安心できない」わけで、そこに問題があるのだなあ
と
思うわけです。