『さすらい』 Il Grido (伊)
1957年制作、1959年公開 配給:新外映 モノクロ
監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本 ミケランジェロ・アントニオーニ、 エリオ・バルトリーニ、 エンニオ・デ・コンチーニ
撮影 ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽 ジョヴァンニ・フスコ
主演 アルド … スティーヴ・コクラン
イルマ … アリダ・ヴァリ
ヴィルジニア … ドリアン・グレイ
エルヴィア … ベッツィ・ブレア
アンドレーナ … リン・ショウ
エデラ … ガブリエラ・パロッタ
北イタリアのポー河流域の寒村の精糖工場に勤めるアルドは、イルマという女と同棲して七年になり、二人の間には六歳の
ロジーナという娘がいる。イルマには七年前にオーストラリアへ行ったまま音信不通になっていた夫がいたが、ある日のこと、
その夫の死亡通知が送られてきた。アルドはこれで晴れてイルマと結婚できると喜んだが、イルマには別の男への想いが
芽ばえていたためアルドの想いを拒絶し逆に別れ話を持ち出す。アルドはイルマの固い意志に打ちのめされ、娘を連れて
家を捨てあてどない放浪の旅に出る。以前にアルドが愛したことのあるエルヴィアを訪ねたがそこで心の癒しを得ることは
できなかった。また、一人でガソリンスタンドをやりくりしている若いヴィルジニアの手助けをしたがヴィルジニアが娘を
嫌ったので娘をイルマのもとに送り返したがそこでも長続きはしなかった。さらに病弱で貧しいアンドレーナと出会ったが、
彼女は裏で売春をしていた。様々な女性と出会いを重ねたもののアルドの心の隙間を埋めることはできず、逆にどん底に
追いやられてしまう。希望も失せてしまったアルドは放浪の果てにイルマと過ごした家に足を運んだ。しかし、窓越しに中を
覗くとイルマは他の男との間にできた赤ん坊をあやしている。すべてに絶望したアルドはかつて働いていた精糖工場の
高い塔に登り始める。そこへイルマが彼の後を追って来た。アルドは塔の真下のイルマを見下ろしながら無言で塔から落下、
イルマの絶叫が響きわたった。
ミケランジェロ・アントニオーニは映画批評を手始めに、ロベルト・ロセリーニ監督の脚本を書いたり、マルセル・カルネ監督の
『悪魔が夜来る』の助監督をつとめ、その後にジュゼッペ・デ・サンテスの『荒野の抱擁』の脚本に参加、これによって彼の心の
内部がネオ・レアリスタとして形成されていきました。1950年に『ある恋の記録』でひとり立ちを果たし、1953年には『巷の恋』で
オムニバスの一編を撮りイタリアン・リアリズムとは一風変わった新しい息吹を吹き込みますが当時は高い評価を得るまでには
至りませんでした。そして1955年に『女ともだち』を発表、これを機に映画は物語を見せるものではなく登場人物の心理を
映像表現する映画へと進化、ここに彼独特の知的リアリズムの開花となりました。そして、この『さすらい』が知的リアリズムの
完成形となり、さらに『情事』『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』という映画史に燦然と名を残す作品群の起点となりました。
『さすらい』は女に捨てられた男の悲哀を描いた作品ですが、これはアントニオーニ自身の実際の経験談でもあるようです。
彼は最初の妻レティツィアからいきなり「もうあなたを愛してないの」と別れを告げられて去っていかれてしまった。その時の
強烈な孤独感、悲哀感がこの作品の中に刷り込まれ、後の『愛の不毛・三部作』へとつながっています。
孤独に苛まれ絶望しながらも脱出を求めて苦闘する姿は、心のつながりを失って孤立し漂流する現代人の不安そのものを
表わしていて、癒しきれぬ真実の愛への絶叫はまさにこの映画のタイトル”Il Grido”(叫び)そのものとなっています。
アントニオーニはこの作品を撮るにあたって、ロケ地を彼の故郷である北イタリアのフェラーラ郊外の寒村を選んでいます。
そこはポー川の流域で見渡す限り平坦で荒涼とした大地であり、たえず冷たい風が吹き抜けていくさまが満たされない
虚無感を抱えてさまようアルドの絶望を強烈に浮かび上がらせています。モノクロの映像美の中に、心の渇きを背後に
広がる冷淡な風景と重ねて合わせるという優れたイメージ処理によってアントニオーニ独特の映像芸術が確立され、
他に追随を許さない知的リアリズムの完成となりました。