写楽老人写真館!

葛飾北斎は晩年「画狂老人北斎」と画号にしたとの事、私も「老いても写真に楽人で有りたい」と思います。

平成二十六年・年の瀬を控えて(新規収蔵品)

2014-12-26 11:26:09 | コレクション
 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は卯三郎(うさぶろう)。京都府生まれ。竹内栖鳳に師事し、後に女婿となる。その後文展・帝展で活躍し、審査員にもなる。自らが創立した画塾青甲社からは、堂本印象・中村大三郎・上村松篁らを輩出した。
 東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。

    西山 翠嶂 「槿花」(大正12年 京都美術館蔵)      東郷 青児
        


 2014-11-9 当写真館に入館され、電話機(投稿ブログを見た方)Mさんからの寄贈の電話機  

        


 蘇民将来(そみんしょうらい)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。岩手県南部では、例年この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれており。陰陽道では天徳神と同一視された。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた。


        


      縄跳び達磨                   飛び出し目玉達磨・・あくび達磨          
          

 河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁種にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。

          


     平成26年(午年)も五日を残すだけとなりました。

         今年も多くの方々に御入館していただき有難う御座いました。

              新規収蔵品(寄贈品も含め)展示品も少しずつ充実してきました。(ご希望が有れば何時でも展示)


                   皆様にとって平成27年(羊年)も良い年で有りますように・・年中無休24時間入館O・K  写 楽 老 人




   

文学散歩[名古屋] 2 名古屋城本丸御殿

2014-12-14 11:36:59 | ぶらり散歩
 本丸御殿かつて名古屋城の本丸には、天守閣の南側に本丸御殿がありました。この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作と言われ国宝に指定されていた建物で、現在、国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と言われていました。


      威風堂々 名古屋城本丸御殿(復元絵図)
         

 勇壮な天守閣と優美な御殿が並び建つことで、名古屋城は城郭建築としての風格を形成しており、1930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)5月、空襲により天守閣、本丸御殿ともに焼失してしまいました。


          


 戦後の復興にともない、1959年(昭和34年)に天守閣は再建されました。本丸御殿についても、江戸時代の文献のほか、多くの写真、実測図が残されており、在りし日の姿を忠実に蘇らせることが可能です。


            


  名古屋城本丸御殿は、狩野貞信や狩野探幽など日本画史上最大の画派「狩野派」の絵師たちにより、部屋ごとに異なる題材で床の間絵、襖絵などが描かれ、絢爛豪華に彩られていました。戦災により本丸御殿は失われましたが、取り外すことができた襖絵や天井板絵などは焼失を免れ、今も大切に保管されています。そのうちの1,047面が国の重要文化財の指定を受けています。


        


 狩野派の絵師たちが、全精力を注いで描いた障壁画。その美と色彩感覚を現代によみがえらせるため、平成4年より、本格的な復元模写が進められています。忠実に復元するためには、当時の絵師が使っていた素材や技法を用いなければならず、そのため顕微鏡やコンピュータ、史料などで研究・分析。ミクロ単位の観察をもとに緻密な作業が行われ、江戸時代の絵師たちの感性とダイナミズムの再生に挑み続けています。


        


 素屋根内の工事見学、本丸御殿の屋根の部分の工事現場を見ることが出来ます。ヘルメット着用、その場で大工さんが作業をしている工程が見られたりする、貴重な現場なんです。
 木材加工場では、樹齢300年を超すヒノキ材などを保管し、それらの木材を用いて、墨付けやカンナがけなどの作業を行います。


        


        


    平成26年度第3回池波正太郎真田太平記館文学散歩に参加、多度大社、名城(九華公園)、熱田神宮、名古屋城、清州城、

        と実りの有る研修旅行、このような期会に恵まれて勉強できた事は幸いでした。(何回かブログに投稿出来た事も)  写 楽 老 人           

      




     

文学散歩[名古屋] 1 名古屋城

2014-12-13 10:58:21 | ぶらり散歩
 名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった日本の城である。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されていました。
 姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが名古屋大空襲(1945年)によって大部分を焼失した。戦後に天守などが外観復元され、現在城跡は名城公園として整備されています。 
 西南隅櫓(重要文化財)未申櫓ともいわれ、屋根 2 層・内部 3 階の櫓。西、南両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けています。濃尾大地震で石垣と共に崩壊しましたが、宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られます。


      名古屋城天守閣・西南隅櫓 
        


      特別史跡・名古屋城散策
      


         

      名古屋城・正門
      

 金鯱・雄(北側), 雌(南側). 高さ, 2.621メートル, 2.579メートル. 重量, 1,272キログラム, 1,215キログラム. 金板の種類, 18金, 18金板の厚み, 0.15 ミリメートル, 0.15ミリメートル. うろこの枚数, 112枚, 126枚. 金量(18金), 44.69 キログラム ...
 鯱を城郭に使用したのは安土城が最初といわれており、発掘された出土品に鯱の一部も見つかっています。(安土城三の丸から出土)もっとも瓦を用いた城郭建築自体、安土城以前は珍しかったこともありますが、怪異な形ですが敵を防ぎ雨を降らす鯱は、防火の守り神として、以降の城郭建築にはかかせない装飾品となってったことは確かです。

           


     本丸表二之門・東南隅櫓
      


      表二之門・正面入口                   石引き体験
      

 愛知県出身の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、いわゆる三英傑は、戦国の戦乱から天下統一へと日本を導きました。三英傑は天下統一の過程で故郷を離れますが、信頼できる人物に尾張の支配を任せ、家康は清須から名古屋へ城下を移転させました。

       三 英 傑
      


      全国の武将隊ブームのさきがけとなった「名古屋おもてなし武将隊」が毎日城門でお客様をお出迎え、

            土日祝日にはおもてなし演武も行われるそうです。そういえば、上田も真田幸村武将隊活躍してますネ・・・ 写 楽 老 人

       



文学散歩[名古屋] 清州城  

2014-12-10 17:35:14 | ぶらり散歩
 清州城・引治元年(1555)織田信長公が那古野城から入城、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに勝利し、ここ清須から天下統一の第一歩を踏み出した城です。現在の清洲城天主閣は平成元年(1989)に再建され、清須の歴史を紹介する展示・映像など見る事が出え来ます。清洲城周辺では五条川堤防や清洲公園の桜をはじめ四季折々の散策や、史跡めぐりなどのルートとして清須は名古屋城・小牧城・犬山城・岐阜城や桶狭間古戦場なども近隣に位置し、多くの方が訪れる観光スポット、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建された模擬天守

           
         

清州城模擬天守。大手橋付近から眺める、手前にある門は模擬大手門で、ここが一応正面入り口である。
清洲城模擬天守。古式の望楼型天守をイメージして平成2年に建設された。モデルは犬山城で全くの想像上の建物である。
清洲城模擬天守。なかなか立派な建物である。全く資料が残っていない中から生まれた天守ではある。

    大 手 橋              清 州 城 天 守 閣            大 手 門
         



   日本庭園(枯山水)               出陣命令~出陣までの解説
          

清洲会議は柴田勝家が筆頭家老として呼びかけるのですが、その際やはり場所は重要です。織田家の原点にもどって忠誠を誓い合おうという意味合いがあると考えられています。

    清州会議の解説            高台院(豊臣秀吉の正室)・芳春院(前田利家の正室)   豊臣秀吉公の兜    
         



    信長公吉例太鼓                       鯱(清州城天子閣)
         



    若き日の信長公           清州の若大将            天守閣~清州市の展望
         




     今回の文学散歩で勉強になった事は清州城、犬山城がモデルの模擬天守閣だった事

           実際に現地に行かないと解らないものです(この情報、誰かに伝えたい)・・               写 楽 老 人



        

文学散歩[名古屋] 桑名城・九華公園(きゅうかこうえん)

2014-12-09 20:22:58 | ぶらり散歩
 桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった城である。江戸時代は伊勢国桑名藩の藩庁が置かれた。
桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていた。歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれている。 城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されています。


        


 平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元した。二重櫓であり、一階は水門管理所となっているが、二階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。

     蟠 龍 櫓                展望台から一の鳥居を望む
          


 熱田から桑名まで海路七里あったことから「七里の渡」と呼ばれている。 当時は東海道 五十三次の42番目の宿場町として大変なにぎわいを見せた。 ここに立つ大鳥居は、 ここから伊勢路に入ることから「伊勢の国一の鳥居」と称される。
 本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

     伊勢の国一の鳥居            七里の渡               本田忠勝公の像
               


 九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので、園内では桑名城ゆかりの様々な遺構を見ることができる。堀は公園全体の約6割を占め、水が張られている。堀上には多数の橋が架けられています。園内には、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜などの桜が約450本あり、三重県下屈指の桜の名所となっている。また、ヒラドツツジ、オオムラサキツツジといったつつじが約550本、伊勢系、肥後系、江戸系の花菖蒲が約4000株あます。

     九 華 公 園                    桑名城九華公園案内絵図
          


    桑名の焼き蛤」で知られる「時両蛤」や東海道随一の難所「東海道桑名の渡」で有名な 桑名は、

         伊勢への玄関口であり、物流の要衝、譜代大名の城下町、宿場町であった桑名の 町並みですが、

             戦災と伊勢湾台風の被害によってそのほとんどが消失していました。人災と自然災害のこわさを実感・・  写 楽 老 人