写楽老人写真館!

葛飾北斎は晩年「画狂老人北斎」と画号にしたとの事、私も「老いても写真に楽人で有りたい」と思います。

文学散歩(3)・浜松城&駿府城跡

2012-09-25 16:04:25 | 日記
 文学散歩、二日目です池波正太郎「夜の戦士」の舞台を歩く 浜松~駿府 
 浜 松 城
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。
 駿 府 城 
現在、駿府公園となっている。本の丸を囲む堀は埋められてしまい跡形もない。二の丸の水堀が完全に残り、また三の丸水堀は一部埋め立てられている。二の丸巽櫓、東御門(櫓門)と続多聞櫓が復元されている。この櫓の中に入ることができる、駿府城、時代は変わるが同じ位置に三回築かれている。今川氏の居城(館)の駿府城は、永禄11年に武田信玄の駿河侵攻と、天正10年の徳川家康の侵攻により灰燼と帰す。
 



 若き日の徳川家康公の銅像(浜松城公園内) 浜松城と曲輪
      


浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、4百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年~1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。
 


 三方ヶ原霊園内にある碑
三方ヶ原は浜松市の北西に広がり、東西10キロ、南北15キロの平原である。当時は農民の入会地、秣刈場として原野が広がっていた。大軍を展開するには絶好の場所である。
 


 東 御 門(櫓門および多聞櫓)                 駿府城本丸跡に立つ家康公の銅像
   


 駿府城二ノ丸東御門・巽櫓入場券              浜松城入場券
 


 パンフレット                        オークラアクトシティーホテル浜松
         


  オークラアクトシティーホテル浜松は45階建て39階ツインに宿泊、ものすごく高く下を見ると目がくらむ 写 楽 老 人

文学散歩(2)・長篠&設楽原の戦い

2012-09-23 10:19:14 | 日記
日本の歴史を拓く若武者たちの夢の跡。 設楽原歴史資料館、長篠城址史跡保存館 見学し館主に説明を聞く。

長篠城は信玄が上洛を目指していた頃、武田方に属していた。しかし2年後の天正元年、信玄死後には徳川家康によって落とされた。天正3年(1575)の5月、長篠城奪還を目指す武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を包囲し、5月8日から毎日のように攻撃をしかけた。城将奥平貞昌以下500人の城兵はよく戦って防いだが、14日の総攻撃を受けて残っていたのは本丸と二の丸だけであった。織田信長、徳川家康は17日設楽原へ出陣、18日織田軍3万8千、徳川軍8千が設楽原に到着、布陣し陣地を構築する。20日武田軍は一部を長篠城の押さえに残し、大部分の軍勢を設楽原へ移動させた。そして21日、織田・徳川軍と武田軍は激突する。戦国時代の流れを大きく変えた戦いの一つとして数えられる【長篠・設楽原の戦い】。 この戦いは多くの火縄銃を組織的に使用した戦いとしても知られています。



設楽原歴史資料館                        具足姿で迎える案内女
 

 長篠・設楽原決戦絵図と火縄銃
 

 名の有る武将が着用したであろう具足の数々
  

 火 矢 筒[雌雄一対] 肥後細川家が旧蔵していたと伝えられる火矢筒。雌雄一対の火矢筒は全国でもこれのみである。
「雄」全長:41.3㎝ 口径:4.05cm 「雌」全長:40.7㎝ 口径:40.5㎝ ・・・・・ 火 薬 試


 遠 眼 鏡 (望遠鏡や双眼鏡の古い呼び方)


 火 お ん ど り
毎年8月15日のお盆の夜、長篠・設楽原決戦場跡にある信玄塚において火おんどりが行われます。信玄塚とは設楽原決戦の戦死者を葬った塚のことです。いわれでは合戦後間もなくこの塚から大量の蜂が発生し、人々を苦しめました。これを武田の亡霊だと考えた村人たちが、戦死した武田軍の霊を慰めるために、長さ2、3m直径80cmほどの松明を燃やして信玄塚で供養したのがこの祭りの始まりだと言われています。村の男たちはそれぞれ、大きな松明を抱え、鉦や太鼓の囃子にのって、8の字を描くように松明を振り回します。
 こうして火おんどりは伝統を守りながら、400年以上も絶えることなく続けられています。



 馬 房 柵
織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った天正3(1575)年の「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵が再現されています。馬防柵は三段に渡って構築されていたとのことですが再現されているのは一段のみです。



 信 玄 塚(大塚)         信 玄 塚(小塚)
天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされる。塚は2つ築かれ、その上には松を植えて、武田軍を弔った方を大塚、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承される。また、これを信玄塚と呼ぶようになったのかは、諸説あって不明である。さらに、この塚から発生した蜂を退治するため供養を行ったことが、火おんどり(愛知県指定無形民俗文化財)の始まりとされる。

                      
    

 長篠城址史跡保存館                           血染めの陣太鼓
長篠籠城の時に使った陣太鼓。当時の血がついてる奥平家第一の家宝であった。

      

 
 鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)
彼は城主・奥平貞昌の家来・・・といっても雑兵だったんですが、天正3年(1575年)5月14日、武田軍によって兵糧倉を落とされ、もはや城の運命が風前の灯となった時、彼は城をひそかに脱出して、翌日、岡崎の徳川家康の元へ走り、援軍を送るよう要請しました。ところが、再び城へ戻る途中、強右衛門は武田軍に捕らえられてしまい、とうとう磔にされてしまいます。
 武田勝頼は「援軍は来ないと城へ向かって叫べば、命だけは助けてやる」と強右衛門を促したが、強右衛門は「援軍は必ず来る」と城へ向かって叫んだので、激怒した勝頼は死を命じ、強右衛門は「串刺しの刑」に処せられ、命を落としました。
 強右衛門の壮烈な死に、信長も家康も「あっぱれ、忠義の士よ」といたく感じいったといわれます。

     



   歴史資料館を見て回ると、知らない事だらけ、つくづく知識の無さを感じます。     写 楽 老 人

 









文学散歩(1)・鳳来寺&鳳来山東照宮

2012-09-22 14:14:40 | 日記
 文学散歩 新城~浜松・駿府
2012年9月17日~18日 池波正太郎真田太平記館、主催の池波正太郎「夜の戦士」の舞台を歩くに参加。
鳳来寺(ほうらいじ)
愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は利修作とされる薬師如来。
大宝3年(703年)、利修仙人によって開かれた真言宗の古刹。(真言宗五智教団の大本山)薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集め、江戸時代には徳川家康誕生のゆかりの地として幕府から手厚い保護を受け、21院坊、寺領1350石という盛大さを誇っていました。 参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財である。また、愛知県の県鳥であるコノハズク(仏法僧)の寺としても有名である。
鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐ)
慶安元年(1648年)三代将軍徳川家光は鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として祖父報恩のため、東照宮
の建築をはじめました。その後4代将軍家綱の時に完成された。国の重要無形文化財指定




 鳳来寺山  鏡岩       参道の石段              本殿 
      


 鳳来寺本堂                              東照宮本殿
   


 パンフレット        御朱印



鳳来山東照宮は日光・久能山とともに日本三大東照宮と称されます。(久能山は未参拝)  写 楽 老 人 

自治会防災訓練

2012-09-04 08:30:09 | 日記
「防災の日」は、1960年(昭和35年)に、内閣の閣議了解により制定された。9月1日の日付は、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災にちなんだものである。また、例年8月~9月1日付近は、台風の襲来が多いとされる二百十日にあたり、「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められている。制定の前年の1959年(昭和34年)には、伊勢湾台風が襲来していた。一方では、台風シーズンに制定されたことにより、自然災害によって防災訓練が中止になる事例も発生している
「防災の日」が制定されるまでは、9月1日に行われる行事は、関東大震災犠牲者の慰霊祭が中心であった。しかし、「防災の日」が制定されてからは、全国各地で防災訓練が行われる日となっている。

 長島自治会防災訓練 平成24年9月2日(日)実施
9時に3班、班長指定場所に参加者全員が集合しました。




班長さん消防隊員さん、注意事故と消火栓の確認と取扱い説明



消防隊員による実技指導



9時40分 一班~八班まで参加者全員児童館前駐車場に避難完了。



防災本部長(自治会長)挨拶と経過説明



10時 東北消防署員指導 消火器取扱いと消火器による消火訓練



  異常気象がもたらす突然の豪雨災害、

        自然災害に無関心では改めていけないと思いました。     写 楽 老 人