写楽老人写真館!

葛飾北斎は晩年「画狂老人北斎」と画号にしたとの事、私も「老いても写真に楽人で有りたい」と思います。

文学散歩(5)・甲斐善光寺&積翠寺&武田神社&円光院&東光寺

2012-11-19 09:04:40 | 日記
 文学散歩 甲府(2)
2012年11月7日 池波正太郎太平記館、主催の池波正太郎「夜の戦士」の舞台を歩くに参加(2)

 甲斐善光寺は武田信玄が川中島の戦により信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ(または焼失を恐れ)永禄元年(1558年)に正親町帝の勅諚により阿弥陀如来像を初め数々の寺宝を大檀那本多善光葬送の地と伝わるこの地に移し信濃善光寺の鏡空上人を開山として向かえ建立したお寺です。
金堂は宝暦四年の火災により焼失した物を寛政八年に再建した物で、国の重要文化財(善光寺建築に特有の撞木造)に指定されています。



 積翠寺由緒・・当寺は臨済宗妙心寺派にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元(1521)年福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻ニ卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聯句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。(看板資料より)
 信玄公産湯の井戸
   


 武田神社・・武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16(1619)年に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄、勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたりこの館一帯は領国の政治、経済と文化の中心地として発展しました。
館は一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠地として第一級の規模と質を誇るものです。 (看板資料より)
 武田神社大鳥居           武田氏館跡
   
  

 円光院(えんこういん)は、山梨県甲府市岩窪町にある寺院。臨済宗妙心寺派寺院。山 号は瑞岩山。本尊は釈迦如来。戦国期に武田信玄が制定した甲府五山のひとつで、 信玄正室三条夫人の菩提寺として知られる。
 東光寺は保安2年(1121年)新羅三郎義光が国家鎮護の祈願所として堂字を建設した興国院に始まると伝えられています。後に文久5年(1286年)鎌倉建長寺を開山した中国の禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)が鎌倉を追われ甲斐に配流された際に禅宗寺院として再建しました。 道隆は馬場外記(美濃守信春が継ぐ前の馬場家の人)開基の高福寺にも携わっています。
 瑞厳山 円光院本殿            法蓋山 東光寺仏殿         
 



 御朱印 景徳院・・大善寺・・甲斐善光寺・・武田神社
 


        春 望   <杜 甫>

    國破れて 山河在り
      城春にして 草木深し
    時に感じて 花にも涙を濺ぎ
      別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
    峰火 三月に連なり
      家書 萬金に抵る
    白頭掻いて 更に短かし
      渾べて簪に 勝えざらんと欲す


                  『平家物語』冒頭部分

                    祗園精舎の鐘の声、
                    諸行無常の響きあり。
                    娑羅双樹の花の色、
                    盛者必衰の理をあらは(わ)す。
                    おごれる人も久しからず、
                    唯春の夜の夢のごとし。
                    たけき者も遂にはほろびぬ、
                    偏に風の前の塵に同じ。


  山梨といえば甲斐、武田信玄公亡き後、1581年3月11日大和村野田で武田勝頼公が自刃して果て、武田家が滅びる。

     今回、文学散歩に参加して武田家終焉の地、何故か『春望』 『平家物語』思い出し無常を感じました。 写 楽 老 人  

       







文学散歩(4)・大善寺&栖雲寺&土屋惣蔵片手切&景徳院

2012-11-17 09:07:24 | 日記
 文学散歩 甲府(1)
2012年11月7日 池波正太郎太平記館、主催の池波正太郎「夜の戦士」の舞台を歩くに参加。

大善寺 (甲州市)だいぜんじは、山梨県甲州市勝沼町にある寺院。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山、本尊は薬師如来である。
国宝 本堂(薬師堂)附:厨子1基
寄棟造、檜皮葺。鎌倉時代の本格的密教仏堂。内部の柱に弘安9年(1286年)の刻銘がある。屋根は寄棟造(正面から見た屋根形が台形を呈する)であるが、大棟(台形の上辺に当たる部分)が極端に短いのが特色である。ただし、この屋根形式は江戸時代の修理によるもので、建築当初からこのような形であったかどうかは定かでない。堂内の厨子は堂よりやや遅れて文和4年(1355年)の作。

国宝・薬師堂の前で集合写真



 柏尾山・大善寺山門                      千社札 



 仁王様  阿形像       吽形像



 天目山 栖雲寺(臨済派建長寺宗)    六地蔵様



 栖雲寺銅鐘・・この鐘は中世期に造られた古い貴重な鐘で、久遠寺鐘(身延町)・広厳院鐘(笛吹市)・放光寺鐘(塩山市)・
永昌院鐘(山梨市)とともに「甲斐の五鐘」の一つに数えられる名鐘であります。
  


 土屋惣蔵昌恒は主君の危機を救わんと最も崖道の狭い所で岩角に身を隠し片手は藤蔓につかまり、片手には刃を持ち迫りくる敵兵を次々に切っては谷川に蹴落したと伝えられ谷川の水は三日間も血で赤く染まったといわれている。



景徳院は、田野地区にあります。今から400年前ほど前、武田勝頼が戦いにやぶれ、この地で家族とともに自害しました。
そのめい福を祈るために建てられたものがこのお寺です。弘化2年、明治27年の火事で焼けてしまったため、本堂などは新しい建物ですが、山門だけは昔のままを伝えています。



勝頼の正室・北条夫人の侍女16人は日川の淵に身を投げて殉死したと伝えられており 、そのことから姫ヶ淵と称されるようになった。この石碑は北条夫人を含めた17人を表現 し、侍女たちを慰霊すべく、景徳院前の駐車場の片隅に建立されたものであります。



葡萄畑に囲まれた豊かな 自然溢れる勝沼町にあるレストランシャンモリは、盛田甲州ワイナリー併設のレストラン です。



昼食 レストランシャンモリで美味しく肉料理(メイン)ワイン頂きました。
        お土産にワインにごり新酒(珍しそうです)三本購入 笑顔が楽しみです。  写 楽 老 人

古希

2012-11-08 14:01:30 | コレクション
古希(こき。原文の表記は古稀。「稀」は常用漢字にはないので現在では古「希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)に由来する。
還暦は数えの61歳であるが、古希は数えの70歳のこと。古希は長寿の祝いとされている。お祝いの色は、喜寿祝いと同じく、紫色。 長寿の祝いには、他に、還暦(かんれき)、喜寿(きじゅ)、傘寿(さんじゅ)、盤寿(ばんじゅ)、米寿(べいじゅ)、卆寿(そつじゅ)、白寿(はくじゅ)、百寿(ひゃくじゅ)などがある。
慣用句 [編集] 1939年に双葉山が安藝ノ海に負けて連勝が69で止まると、当時の大相撲ラジオ中継の和田信賢アナウンサーがこれを引用し「やはり七十古来稀なり」との名言が全国に放送された。
 写楽も今年(平成24年11月5日)に古希を迎え干支の午にあやかり少し集めた馬のコレクションをお見せしたいと思います。
(ガラクタばかりで、お恥ずかしい限り)





    


 
  


 写楽愛用の落款           キーホルダー
    


  古希を迎え一日、一日を恙無く過ごせれば幸いです。            写 楽 老 人