文学散歩 甲府(2)
2012年11月7日 池波正太郎太平記館、主催の池波正太郎「夜の戦士」の舞台を歩くに参加(2)
甲斐善光寺は武田信玄が川中島の戦により信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ(または焼失を恐れ)永禄元年(1558年)に正親町帝の勅諚により阿弥陀如来像を初め数々の寺宝を大檀那本多善光葬送の地と伝わるこの地に移し信濃善光寺の鏡空上人を開山として向かえ建立したお寺です。
金堂は宝暦四年の火災により焼失した物を寛政八年に再建した物で、国の重要文化財(善光寺建築に特有の撞木造)に指定されています。
積翠寺由緒・・当寺は臨済宗妙心寺派にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元(1521)年福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻ニ卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聯句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。(看板資料より)
信玄公産湯の井戸
武田神社・・武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16(1619)年に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄、勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたりこの館一帯は領国の政治、経済と文化の中心地として発展しました。
館は一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠地として第一級の規模と質を誇るものです。 (看板資料より)
武田神社大鳥居 武田氏館跡
円光院(えんこういん)は、山梨県甲府市岩窪町にある寺院。臨済宗妙心寺派寺院。山 号は瑞岩山。本尊は釈迦如来。戦国期に武田信玄が制定した甲府五山のひとつで、 信玄正室三条夫人の菩提寺として知られる。
東光寺は保安2年(1121年)新羅三郎義光が国家鎮護の祈願所として堂字を建設した興国院に始まると伝えられています。後に文久5年(1286年)鎌倉建長寺を開山した中国の禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)が鎌倉を追われ甲斐に配流された際に禅宗寺院として再建しました。 道隆は馬場外記(美濃守信春が継ぐ前の馬場家の人)開基の高福寺にも携わっています。
瑞厳山 円光院本殿 法蓋山 東光寺仏殿
御朱印 景徳院・・大善寺・・甲斐善光寺・・武田神社
春 望 <杜 甫>
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
『平家物語』冒頭部分
祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
山梨といえば甲斐、武田信玄公亡き後、1581年3月11日大和村野田で武田勝頼公が自刃して果て、武田家が滅びる。
今回、文学散歩に参加して武田家終焉の地、何故か『春望』 『平家物語』思い出し無常を感じました。 写 楽 老 人
2012年11月7日 池波正太郎太平記館、主催の池波正太郎「夜の戦士」の舞台を歩くに参加(2)
甲斐善光寺は武田信玄が川中島の戦により信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ(または焼失を恐れ)永禄元年(1558年)に正親町帝の勅諚により阿弥陀如来像を初め数々の寺宝を大檀那本多善光葬送の地と伝わるこの地に移し信濃善光寺の鏡空上人を開山として向かえ建立したお寺です。
金堂は宝暦四年の火災により焼失した物を寛政八年に再建した物で、国の重要文化財(善光寺建築に特有の撞木造)に指定されています。
積翠寺由緒・・当寺は臨済宗妙心寺派にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元(1521)年福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻ニ卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聯句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。(看板資料より)
信玄公産湯の井戸
武田神社・・武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正16(1619)年に石和からこの地に館を移したことから始まります。その後、信玄、勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたりこの館一帯は領国の政治、経済と文化の中心地として発展しました。
館は一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠地として第一級の規模と質を誇るものです。 (看板資料より)
武田神社大鳥居 武田氏館跡
円光院(えんこういん)は、山梨県甲府市岩窪町にある寺院。臨済宗妙心寺派寺院。山 号は瑞岩山。本尊は釈迦如来。戦国期に武田信玄が制定した甲府五山のひとつで、 信玄正室三条夫人の菩提寺として知られる。
東光寺は保安2年(1121年)新羅三郎義光が国家鎮護の祈願所として堂字を建設した興国院に始まると伝えられています。後に文久5年(1286年)鎌倉建長寺を開山した中国の禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)が鎌倉を追われ甲斐に配流された際に禅宗寺院として再建しました。 道隆は馬場外記(美濃守信春が継ぐ前の馬場家の人)開基の高福寺にも携わっています。
瑞厳山 円光院本殿 法蓋山 東光寺仏殿
御朱印 景徳院・・大善寺・・甲斐善光寺・・武田神社
春 望 <杜 甫>
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
『平家物語』冒頭部分
祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
山梨といえば甲斐、武田信玄公亡き後、1581年3月11日大和村野田で武田勝頼公が自刃して果て、武田家が滅びる。
今回、文学散歩に参加して武田家終焉の地、何故か『春望』 『平家物語』思い出し無常を感じました。 写 楽 老 人