富岡鉄斎(とみおか-てっさい) 1837-1924 明治-大正時代の日本画家。天保(てんぽう)7年12月19日生まれ。国学,漢学,仏教,詩文をまなぶ。勤王家とまじわり,維新後,各地の神社の宮司となる。明治14年郷里の京都にかえり,読書と画業に専念。自由奔放で独自な文人画の世界をきりひらいた。帝室技芸員,帝国美術院会員。大正13年12月31日死去。89歳。名は猷輔,百錬。字(あざな)は無倦(むけん)。別号に鉄崖,鉄史。作品に「旧蝦夷(えぞ)風俗図」など。
橋本雅邦(はしもとがほう)1835-1908 日本画家。江戸生まれ。本名,長郷。狩野派を学ぶが,フェノロサ・岡倉天心の指導を受け,狩野芳崖とともに新しい日本画の創造に尽力。東京美術学校・日本美術院の創立に参加,横山大観などの後進の育成にあたった。代表作「白雲紅樹図」「竜虎図屛風」など。
「しゅうしゃいとう図」富岡鉄斎(大正6年)絹本着彩、額装 「白雲紅樹」橋本雅邦(明治23年)紙本着彩、掛幅
品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされた。
「品川 日乃出」歌川広重 『東海道五十三次』 より御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。聖跡公園(本陣跡)内の地面に設置して有ります。
品川神社内に有ります富士塚(富士山信仰)に登山、登頂をきわめる。
下山して浅間神社に参拝し、御利益に与る・・・上田にて無事の帰りと厄落とし(日本酒熱燗で一杯) 写 楽 老 人
橋本雅邦(はしもとがほう)1835-1908 日本画家。江戸生まれ。本名,長郷。狩野派を学ぶが,フェノロサ・岡倉天心の指導を受け,狩野芳崖とともに新しい日本画の創造に尽力。東京美術学校・日本美術院の創立に参加,横山大観などの後進の育成にあたった。代表作「白雲紅樹図」「竜虎図屛風」など。
「しゅうしゃいとう図」富岡鉄斎(大正6年)絹本着彩、額装 「白雲紅樹」橋本雅邦(明治23年)紙本着彩、掛幅
品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされた。
「品川 日乃出」歌川広重 『東海道五十三次』 より御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。聖跡公園(本陣跡)内の地面に設置して有ります。
品川神社内に有ります富士塚(富士山信仰)に登山、登頂をきわめる。
下山して浅間神社に参拝し、御利益に与る・・・上田にて無事の帰りと厄落とし(日本酒熱燗で一杯) 写 楽 老 人