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写楽老人写真館!

葛飾北斎は晩年「画狂老人北斎」と画号にしたとの事、私も「老いても写真に楽人で有りたい」と思います。

民芸家具

2015-10-07 17:00:30 | コレクション
           歌 川 国 芳  夕 霞(団扇絵)
           


 民芸家具・・暮らしに息づく美しさ、長く使われてきたからこそ、美しい。今も使われているからこそ、美しい。
日本の民芸運動の「用の美」を求める心、目指すのは、安らぎとぬくもりに包まれた潤いのある暮らし。天然木と手作り感にこだわりながら、 生活空間の中で長く愛される家具

           福 島 民 芸 家 具
           



    書類、封書、整理タンス
            



    小物入れ(腕時計、指輪、貴金属、その他)
          


    帳場硯箱(算盤、筆、印象、和紙)
      


     以前から欲しくても、なかなか手に入らなかった福島民芸家具(小型タンス)

         ついに我がコレクションに収蔵、見た目には六個の引出しですが、参個の隠し引出しの

             有る優れもの、職人の技が光る作品・・・望みを持ち続ければ叶う日が来るものと思う今日此の頃・・・ 写 楽 老 人



木版画

2015-08-12 10:14:07 | コレクション
         歌川国芳  忠臣蔵十一段目夜討之図 (大判錦絵)
         

 木版画(もくはんが)とは、木製の原版によって制作される凸版画のこと。原版は、版木(はんぎ)、板木(はんぎ)、彫板(えりいた)、形木(かたぎ)、摺り形木(すりかたぎ)などと呼び、主に彫刻刀で溝を彫り、凹凸をつけることによって作られる。印刷物であり、なかでも優れたものは美術作品である。英語では ウッドカット(woodcut)もしくは、シログラフ(xylograph) と言ます。
 木版画にはたくさんの種類があります。一色だけの一版刷り、それに手彩をしたもの、錦絵の時代に多く見られる輪郭線のある多色刷り、分解法による輪郭線のない多色刷り、黒い紙に刷る陰刻法一つの版を彫り進めて多色刷りをする彫り進み法、板目ではなく木口を使った木口木版、木目を生かして刷る木目版画、など日本の木版画の種類の多さは世界に例を見ません。

        初回作品
                   



                   



                   



   上田市立美術館講座

      4月から「山本鼎美術教室」で初級者コース(版画A)受講する

           受講期間 4月~翌年2月の毎月1回(全8回・8~10月は休講) 未熟ですが今回の作品を投稿しました。
                                                                                                                                   写 楽 老 人    

平成二十六年・年の瀬を控えて(新規収蔵品)

2014-12-26 11:26:09 | コレクション
 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は卯三郎(うさぶろう)。京都府生まれ。竹内栖鳳に師事し、後に女婿となる。その後文展・帝展で活躍し、審査員にもなる。自らが創立した画塾青甲社からは、堂本印象・中村大三郎・上村松篁らを輩出した。
 東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などが有名だが、通俗的過ぎるとの見方もある。後期には版画や彫刻も手掛けた。雑貨のデザインや本の装釘も数多い。

    西山 翠嶂 「槿花」(大正12年 京都美術館蔵)      東郷 青児
        


 2014-11-9 当写真館に入館され、電話機(投稿ブログを見た方)Mさんからの寄贈の電話機  

        


 蘇民将来(そみんしょうらい)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。岩手県南部では、例年この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれており。陰陽道では天徳神と同一視された。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた。


        


      縄跳び達磨                   飛び出し目玉達磨・・あくび達磨          
          

 河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁種にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。

          


     平成26年(午年)も五日を残すだけとなりました。

         今年も多くの方々に御入館していただき有難う御座いました。

              新規収蔵品(寄贈品も含め)展示品も少しずつ充実してきました。(ご希望が有れば何時でも展示)


                   皆様にとって平成27年(羊年)も良い年で有りますように・・年中無休24時間入館O・K  写 楽 老 人




   

電話機

2014-11-09 14:55:10 | コレクション
 小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年7月25日 - 1988年12月16日)は昭和期に活躍した洋画家である。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった良平自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦後は画集に収録しなかった。戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む、と晩年に語っている。戦後は東京芸術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献した。東京芸術大学名誉教授。1992年に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として知られている。
 森田曠平(もりた-こうへい1916-1994)昭和-平成時代の日本画家。大正5年4月17日生まれ。母方の祖父森田茂の養子となる。安田靫彦(ゆきひこ)に師事。院展に作品を発表し,昭和43年「桜川」が日本美術院賞,48年「京へ」が内閣総理大臣賞。歴史や物語を題材にした人物画にすぐれた。平成6年12月29日死去。78歳。京都出身。

    「黒い衿の女」1977年(昭和52年)91.0×65.0㎝         「遊楽図」1974年(昭和49年)65.3×45.5㎝    
         


 日本で電話が開通したのは、グラハム・ベルが電話を発明してから14年後の1890年(明治23年)で、まずは東京-横浜で営業が開始されました。当初の加入者数は東京155回線、横浜42回線で、ダイヤル1番は東京府庁、2番は逓信省、3番は司法省でした。

         

      
 日露戦争後には加入希望者が激増しましたが、予算難からなかなか電話は引けませんでした。そこで電話売買業が始まりました。こうして1910年には、ついに全国の電話加入者数が10万を突破しました。1923年の関東大震災では関東地方の電話網が大きな打撃を受けたが、その苦難をバネに自動交換機の導入が進んで、1939年には全国の電話加入者数が100万人を突破しました。


            


 昭和に入ってからも、なかなか一般家庭には電話が普及しなかったのは、当時は電話を引くのに許可を得る必要があることからでした。昭和40年代に入ると、全国の通話網が拡充したことで、電話機は庶民にも使えるアイテムとなり、この頃からポケットベルやファックス、コードレスホン、カード式公衆電話などのサービスもスタートしました。



               



      友人Aさんからアンテークな電話機を頂く、有難う御座いました。

             感謝の意味を込めてブログに投稿する、現在のまま写真館に収蔵するか、
 
                 少し手を加えてインテリアにしてロビーに飾るか思案中たぶん7:3で現在のままで収蔵・・・写 楽 老 人




      

狸・・「たぬき」

2014-09-11 13:12:58 | コレクション
 中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 - 1947年9月14日)京都市生れの日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授。京都絵専卒。西山翠嶂の画塾青甲社に属し、また翠嶂の女婿となった。京都絵専教授として後進の指導のかたわら、清潔な線と色彩で美人風俗画の佳作を発表し続けました。

         「舞妓」  1939年(昭和14年)頃 60.5×73.0 cm 
          


 信楽の狸 信楽 初代狸庵 陶芸家 藤原鐵造(三重県の槙山生まれ、1876~1996)さんが若くして京都で修行していたある夜のこと、不思議な大狸小狸が月光に照らされて、ポンポコと腹鼓を打っていたという夢のような体験をされたそうです。 親方から『何人に一人しか聞けぬ狸の腹鼓だ』と教えられ、それ以来自分で小狸を飼い、観察してから後1935年、本格的に縁起物としての狸を作り出したとのことです。

                          

             
                  
  置物狸の原型は、江戸の手まり歌に、
『雨のしょぼしょぼ降る晩に 豆狸が徳利もって酒買いに』という一節があり、庶民がお酒を買いに行き始めたころです。
信楽狸の置きものが記録に残されているのは幕末で、門左衛門の作の狸らしい。


       南部鉄器の急須(ぶんぶく茶釜) 爪楊枝立て      民芸品  お土産品
            

       信楽狸八相縁起 石田豪澄和尚の理論によると、
         笠・・思わざる悪事災難避けるため用心常に身を守る笠
         顔・・世は広く互いに愛想よく暮らし誠をもって努めはげまん
          目・・何事も前後左右に気を配り正しく見つむる事忘れめ
         通帖・・世渡りはまず信用が第一ぞ活動
         徳利・・恵まれて飲食のみに事足りて徳はひそかに我身につけん
         腹・・物事は常に落ちつきさりながら決断力の大肚をもて
         金袋・・金銭の宝は自由自在なる運用をなせ運用をなせ
         尾・・何事も終わりは大きくしっかりと身を立てるこそ真の幸福                    
                                                             写 楽 老 人